コラム

コラム2014年07月『★連載小説★Medical Wars 第4話』

Medical Wars (福場将太・著)
*この小説はフィクションです。

■第4話「医者って何だかなあ」 (耳鼻咽喉科)

 7月、その第2週の月曜日。14班は新たに耳鼻咽喉科の実習に入っていた。診療開始前の午前8時、病院9階のカンファレンスルームにはさっそく緊張の空気が発ちこめている。背筋を伸ばした6人の前に立つこの科の教授の名は瀬山。読者のみなさんはご記憶かな?3月のポリクリオリエンテーションの時に登場した、学生部長その人である。
「秋月先生、君は…成績は申し分ないですね。これなら3月の進級試験も大丈夫でしょう」
「はい、あ、ありがとうございます」
 瀬山にそう言われて、班長は緊張を隠せない声で答える。教授は1人ずつ顔と名前を確認しながら、手元の資料にも目を向けている。そこにはどうやら学生たちのこれまでの成績が記されているらしい。
「そして井沢先生に遠藤先生ね。君たちもこの成績なら…心配はないでしょう」
 2人も「ありがとうございます」と合わせて頭を下げた。瀬山はまるで罪状を並べ立てる閻魔のごとく、学生たちを見定めていく。その穏やかな口調が逆に恐ろしい。井沢はポリクリモードの爽やか笑顔を自粛し、美唄さえも元気を封印している。まあ無理もない、なにしろ年度末の進級・留年の最終決定権を持つのがこの学生部長なのだから。彼らの運命はまさにその手に握られていると言っていい。
「そして…長先生。君も少し年齢は上みたいだけど頑張ってますね」
 長は「どうも、無駄に歳だけくってます。ハハハ」と誘い笑いを放ったが、瀬山含め誰1人それを拾う者はいない。恐縮する長を通り過ぎ、閻魔は次の罪人を厳しい目で見た。
「…同村先生」
 我らが主人公は「はい」と間抜けに裏返った声を返す。
「昨年度の進級試験…この成績じゃ今年の進級は危ないですよ。この1年間でしっかり追いついてください」
「わ、わかりました」
 同村は深々と頭を下げる。留年の恐怖に怯える医学生を無個性だと否定してきた彼であったが、さすがに相手が悪い。情けなくもその姿は蛇に睨まれた蛙である。
「頑張ってくださいね。そして最後が…向島先生ですね」
「はい」
 サボりも何のそののアウトローでさえ、この場は外せない。権威とはそういうものだ。
「君は4年生を2回やったんですね。2回目の進級試験の成績はそこそこだから、まあ頑張ったようですが。でも気を抜かないように、一度留年した学生はまたくり返すことが多いですから」
「はい、肝に銘じます」
 本心はどうあれ、向島はそう言って唇を結ぶ。
 瀬山はそこで6人をもう一度見回すと、恐怖の資料を折りたたんで白衣のポケットにしまった。そして意味深な数秒の沈黙をおいてから言葉を続ける。
「それでは14班のみなさん、今日から耳鼻咽喉科の実習です。うちの科ではその名の通り、耳・鼻・咽喉の3つの器官を扱っています。みなさんは2人ずつ3つのチームに分かれ、それぞれ1つの器官を学んで頂きます。…チームの分かれ方、どの器官を選ぶかはみなさんで決め手ください。ただし自分の選んだ器官だけでなく、お互いに情報交換して3つの器官全てを勉強するように。最終日は私が口頭試問を行ないますので」
 そこで瀬山は一息つき、「何か質問はありませんか?」と付け加えた。誰も何も答えない。
「…では、さっそくチームに分かれてそれぞれのオーベンに従ってください。いいですか、ちゃんとやらない人は来年もポリクリになりますからね」
 6人は揃って「はい」と答える。教授は各チームの指導医の名前を告げてから部屋を出て行った。彼の足音が遠ざかってからみんな大きく息を吐く。
「いやあ、マジびびったよ。噂では聞いてたけど、耳鼻科は別の意味できついな」
 井沢が小声でそう言うと、長も小声で返す。
「本当に焦ったよ。みんな俺がボケても全然笑ってくれないし」
「この状況じゃ無理ですって」
 と、同村。
「まあね。同村、この科だけはレポートでチャレンジしない方がいいかもよ。さすがにリスクが高い。向島さんもサボりはやばいですよ」
 長にそう言われてアウトローも「確かに」と返す。
「みんなで、力合わせて乗り切ろうね!」
 美唄が元気を解放してそう言う。そしてまた「エイエイオー!」をやりそうになるのを全員で制止した。…ある意味で抜群のチームワーク。
「シー!静かに、美唄ちゃん。ここはもう病棟だよ」
 井沢にそう言われ彼女は「あ、ごめん」と慌てて口を押さえる。そこでまりかが言った。
「そんなことより早く行きましょう。チームに分かれてそれぞれのオーベンを見つけないと」
 班長の指示により雑談の時間は終わる。井沢が他の班から情報を仕入れてくれていたおかげで、チームに分かれることはあらかじめ知っていた。前もって決めていた通り3つに分かれると、それぞれのオーベンのもとへといざ部屋を出る。成績不良を指摘された同村の表情はやや暗いが今は落ち込んでいる場合ではない。
 いよいよ始まる耳鼻咽喉科、ここは閻魔のお膝元。地獄に突き落とされぬようくれぐれも頑張ってくれたまえ、14班諸君!

 まずご紹介いたしますこちらは耳チーム、同村と向島。やはりミュージシャンの性なのか向島が耳の実習を希望し、かねてから彼に謎の憧れを抱いていた同村がそれに続いた形である。
「よろしくお願いしますね、向島さん」
「うん?こちらこそよろしく。落ちこぼれコンビの誕生だ」
 そんな話をしながら2人は2階の外来フロアに降りていく。
 彼らの指導医である堤は診察室にいた。彫りの深い顔に焦げ茶色の肌は一瞬外国人かと思える。
「同村先生に向島先生ね。堤です、よろしく。あ、言っておくけど俺は生粋の日本人ね」
 堤はまるで少年のようにあどけない笑顔を見せる。その気安さに2人はほっとしたようで、声を合わせて「よろしくお願いします」と返した。
「俺のミットはそんなにきつくないから安心して。ひとまず今から聴力検査を見学してもらおうかな」
 『ミット』というのは医局内にあるドクターのチームのこと。同輩ではなく必ず経験年数の違う3人で構成され、つまりは下の者が上の者から指導を受けるシステムになっている。ミットのリーダーが当然最長経験年数を持つオーベンであり、真ん中がチューベン、一番下っ端がコベンと呼ばれる。まあオーベンは指導医を意味する正式な言葉だが、あとの2つは大・中・小に引っ掛けた業界スラングだ。その意味では同村たち学生はさらにその下のミクロベンってとこか。
「何か今質問しておきたいことある?」
 堤にそう言われて2人は「大丈夫です」と返す。
「まあそんなに構えなくてもいいよ。将来耳鼻科医を目指してるんならともかく、そうじゃないなら何となく雰囲気をわかってもらえば十分だから。それより教授の口頭試問頑張れよ。やばいと思ったら見学は抜けてそっちの勉強してていいから」
 堤は良くも悪くも学生の味方のようだ。せっかくのポリクリなのに見学しなくてもいいと言われても…と、同村の胸中は複雑であった。しかし堤からすれば学生は次から次へと入れ替わり立ち代りやってくるのだ。全力で耳鼻科のノウハウを指導し続けられるわけがない。学生が楽に単位をもらえればと願うように、医者側にも楽に指導を終えたいと願っている者はけして少なくない。う~ん、同村の気持ちもわかるけどこれが現実。
「あ、もうすぐ9時だね。そのドアを出て左に行った所に検査室あるから。確かティンパノグラムを受ける患者さんいるからそれを見学してよ」
 堤にそう言われ、2人は廊下に出る。診療開始時刻となり、平日にも関わらず耳鼻科待合には多くの患者がひしめいていた。当たり前のことなのだが、世の中にはこんなに病気の人がいるんだ…同村は改めてそんなことを思った。
 向島が「検査室、あそこだね」と指差す。そこに向かいながら同村は小声で尋ねた。
「あの、向島さん…ティンパノグラムってどんなのでしたっけ?」
「あれでしょ?ほら、鼓膜とか耳の骨の動きを測定するやつ」
 即答した向島に同村は正直驚いた。
「勉強してるんですね」
「いやそうじゃないけど、ほらオーケストラの楽器でティンパニってあるでしょ。皮を張った大きな太鼓。鼓膜の検査がティンパノグラムだから、きっと同じ語源だろうなって思って」
 いつかの聴診器の実習でもそうだった。向島は心臓の音を見事に聴き分けてみせた。この知られざる天才にとって音楽と医学は個別に存在しているわけではないのだろう。ある時は音楽が医学に役立ち、ある時はその逆も起こる。
「どうしたの、同村くん。早く行くよ」
「あ、すいません」
 思わず立ち止まっていた同村は、またその先輩の背中に憧れを強めてしまうのであった。

 一方こちらは鼻チーム、井沢と長。指導医はまだ30代だろうに頭髪の後退が気になる清水。
「よろしくお願いします、アニキ」
 9階の耳鼻科医局で捕まえた清水に長と井沢がそう挨拶した。
「おう、今週はお前らか。よろしくな」
 いきなり愛称で呼ばれても清水は特に腹を立てた様子はない。というのも彼らは知らない仲ではない。清水は長にとって柔道部の先輩。彼が1年生の時の6年生だった。かつては部の主将も務めた学内の有名人であり、井沢もサッカー部ながらその顔の広さで何度か清水と飲みに行った経験があった。その人情味に溢れた面倒見のよさで、今もなお柔道部に留まらず多くの後輩に慕われている。
「アニキ、僕らは何をすればいいですか?」
「そうだな、それはもちろん、ええと…何だっけ」
「ちょっとしっかりしてくださいよ」
 後輩2人にいじられながら清水はポリクリの予定表を確認する。この頼りない感じが親しみやすさでもあり、2人も先ほどの教授の前での緊張が嘘だったように笑う。
「そうそう、ひとまず外来で器具とか処置を勉強してもらおうかな」
「アニキ、了解です。それにしてもアニキがオーベンって聞いて驚きましたよ。ついこの前チューベンになったんじゃなかったでしたっけ。異例の出世ですね」
 長がそう言うと清水は片眉を吊り上げて明らかな焦りを見せた。
「ああ、まあそうなんだけどね。ほら、俺って天才だから、ハハハ」
 清水は漫画のように動揺しながら笑う。そしてその拍子に持っていたペンを落とし慌てて拾う。…まあこの嘘のつけない性格とオッチョコチョイも人気の秘訣ではあるのだが。
 長は自分が何かまずいことを言ったかと井沢を見る。彼は事情を知っているようで、この話題はやめようと目で返事した。
「アニキ、もう9時過ぎてますよ。外来始まってるんじゃないですか?」
 長にそう言われて清水は片眉をさらに吊り上げる。
「おお本当だ、のんびりしすぎた」
「アニキ、相変わらずですね。学生の時も柔道の試合で、隣の試合場の笛を聞いて勘違いして闘うのやめちゃって」
 長に続いて井沢も言う。
「あ、その伝説なら俺も知ってます。それでせっかく勝ってたのに相手に投げられちゃって一本負け。ダメですよ、時間はちゃんと意識しなくちゃ」
「うるさい!ほら、一緒に外来行くぞ。鼻血を止めるために鼻の血管焼くのを見せるから」
 その瞬間思いもよらない声が後ろから飛んでくる。そう、穏やかだが絶対に聞き逃されない声。
「…鼻血じゃなくて鼻出血ですよ、清水先生」
 3人が振り返ると、そこには…瀬山教授が再登場。
「あ、すいません」
 清水が慌てて頭を下げまたペンを落とす。びびるのはわかるけど、落ち着いて、アニキ!
「仲が良いのはいいですが、実習中は私語は慎んでください」
 井沢と長も青ざめて頭を下げる。教授は特に感情を表出しないまま続けた。
「清水先生…臨時とはいえオーベンの自覚をしっかり持ってくださいね。君がちゃんとしないと学生に示しがつきませんよ?」
 清水はただ頭を下げ「はい」とくり返すばかり。瀬山は最後に「頼みますよ」と付け加えて立ち去った。
「アニキ…すいません」
 長が小声で言う。肩を落とした先輩は「いや…」とだけ言い、そのまま3人は力ない足取りで2階へ向かうのだった。
 う~ん、一緒に先生に怒られる学生と社会人。本来なら大きく違うこの2つの境界がどこか曖昧なのも大学病院ならではかもしれない。何はともあれ…ドンマイです。

 そしてこちらは咽喉チーム、美唄とまりか。ボーカリストである美唄がいつものノリで「喉の勉強がしたい!」と希望し、相棒は女の子がいいとまりかを誘った。まりかも特に抵抗せず、ガールズコンビが誕生したのである。2人の指導医・中村はオペ室に向かう廊下にいた。
「僕の受け持ちは2人とも女の子か、うれしいなあ」
 そう言って易しい笑顔を見せる彼は、長い黒髪を後ろで縛った40過ぎ。
「もう、何言ってるんですかフレディさん」
 美唄がそう明るく返す。そう、ここでも部活の絆が活きている。中村は美唄にとって音楽部の先輩。その年齢差からもわかるように学生時代はかぶっていないが、中村は頻繁に学生のライブを見に来てくれるためこれまた多くの後輩に慕われている。先ほどの発言もけしていやらしい意味ではなく、彼ならではのジョークなのだ。
「相変わらず元気そうだね、美唄ちゃん。どう、低音の声は出るようになった?」
「いえ、やっぱり苦手で…私が歌うとどうしても細い声になっちゃうんです」
「君は頭が小さいからなあ…あんまり太い声にはならないよ。まあ声帯は生まれ持つ楽器だし、自分なりに磨くしかないよね」
 そんな部活トークに少し花が咲く。すずらん医科大学に限ってではないが、医学部の部活と言うものは学生時代だけでなくその後の人生にも大きく影響する。特に母校に就職すれば先輩や後輩が数多く院内におり、何かと心強い。まるで部活の勧誘のように、先輩に誘われてどの医局に入るかを決めてしまう場合だってある。
「そうそう、ムコは元気なの?」
 中村の言うムコとはもちろん向島のことだ。
「はい、MJさんも相変わらずです。今年私と同じ班でポリクリ回ってます」
「ちゃんと進級したんだな、よしよし」
 中村はそこで蚊帳の外にしてしまったまりかに気がつく。
「あ、ごめんごめん。どうも、中村フレディです」
 急に離しかけられてまりかは少し戸惑う。
「あ、はい、秋月と言います。よろしくお願いします」
「君もいい声質してるね。歌とか結構いけるんじゃない?」
「そんな…。あの、私たちどうすればいいですか?」
 まりかのその言葉で話題はようやくポリクリに戻る。さすがは特待生。
「あ、そうそう。これから声帯結節のオペだからひとまず一緒に入って見学してよ」
「フレディさんが執刀ですか?」
 と、美唄。
「もっちろん。7番オペ室だよ、じゃあ後でね」
 そう明るく言うと、中村は鼻歌混じりに更衣室へ消えて行った。その姿が見えなくなってからまりかがそっと尋ねる。
「美唄ちゃん…フレディって何?あの先生ハーフか何か?」
「違う違う、ニックネーム。なんか好きなミュージシャンの名前なんだって。音楽部ではみんなそう呼んでるの」
「そうなんだ…」
 元気娘にMJK、そしてフレディ…。この先輩にしてこの後輩ありだな、とまりかは胸の中で思う。そしてこの3人が同じミットになった姿を想像して…その恐ろしいビジョンを強制終了するのであった。

 耳鼻咽喉科2日目の火曜日。この科では分かれたチームごとに実習内容が異なるため、いつものように6人で学生ロビーに集合はしなかった。口頭試問対策のため明日の夕方には一度集まることとし、それまではチームごとの動きとなる。

 午前10時。まずは落ちこぼれコンビこと耳チームを見てみよう。向島もサボらずちゃんと姿を見せ、同村とともに堤の病棟回診に同行している。
「はい、じゃあお大事にしてね」
 堤は診察してはそう明るく声をかけながら、手際よく病室を回っていく。本日はチューベンの岸本、コベンの藤野という2人の女医も一緒だ。耳の病気は数多くあり、中には人生を大きく変えてしまうものも少なくない。ある日突然何の準備もなく聴力を失ってしまう患者、慢性的なめまいに悩まされる患者、不快な耳鳴りに昼も夜もイライラしなくてはいけない患者…例え命に関わらない病気だったとしてもその苦しみはけして軽いものではない。いくつかの病室にはふさぎ込んだ暗い表情があった。それでも堤ミットの3人の医師はけして笑顔を絶やさず、時には筆談なども用いながら患者に接していく。
 ある患者はうまく喋れる自信がないのか、紙に「また好きな曲が聞きたい」と書いた。それを見た同村は言葉を失い、作り笑顔さえ浮かべることができなかった。しかし堤は明るく患者の肩を叩き、岸本と藤野もそれに続くのであった。そして立ち止まることなく病室を出て行く。
 次の病室に入る前、同村は抑え切れず質問した。
「堤先生、今の患者さんの聴力は…回復するんですか?」
 オーベンはそこで笑顔を消し、彫りの深い顔に少し厳しさを浮かべて答える。
「…難しいだろうね。俺も長い経過で診てるけど…重度の耳硬化症だから。知ってる?この病名」
 同村が言葉に詰まると、向島が代わりに言った。
「ベートーベンと同じ病気ですね」
「…そう。彼は自分にとって一番大切な力を奪われた。それでも彼は音楽をあきらめなかった。すごい人だと思うよ。でもね…」
 堤はそこで少し語調を弱める。
「病気は不便だけどけして不幸ではない…ヘレンケラーはそう言ったけど、残念ながら全ての患者がそんなに強いわけじゃないよね」
 その場には数秒の沈黙が訪れる。質問をした張本人の同村にも次の言葉が見つからない。
 治せない病気はいくつもある…そんなことは彼にもわかっている。でもそうなら医師が患者に向ける笑顔は一体何なんだ?…そんな疑問が彼の耳の奥でこだましていた。
「あら、どうされました?」
 そう藤野が沈黙を破る。見ると1人の老婦人がヨロヨロとおぼつかない足取りで歩み寄ってきていた。「おばあちゃん、危ないですよ」と藤野が体を支える。老婦人は真っ直ぐに堤を見て言った。
「めまいがずっとしてて、気持ち悪いの。ねえ、吐き気止めを点滴して」
 そのすがるような眼差しを見て、同村にも強い思慮が込み上げる。しかし、堤の返答は意外なものだった。
「ダメです、何回も同じこと言わせないでください。特別扱いはできません、みんな同じ薬で頑張ってるんだから」
 彼は全く笑顔も優しさもなくそう言った。
「それにおばあちゃんの担当は俺じゃないでしょ。そういうことは担当の先生に言いなさい」
 そう言って堤は歩き始める。老婦人は「ねえ、お願いよ」と懇願するが彼はそれ以上取り合わず、回診の続きとして次の病室に入っていった。結局老婦人は岸本と藤野に付き添われ自分の病室に戻される。
 廊下に取り残された2人の学生は、しばしその場に立ち尽くすしかなかった。
「…あのおばあちゃん、あんなに必死だったのに」
 同村が呟く。向島は斜め上の虚空を見ながら「しょうがないよ」と答えた。
「でも…さっきの対応は冷たくないですか?」
「きっと医者ってのは、病気とか悲しみとかに慣れちゃうんだよ」
 また沈黙。やがて堤が病室から出てきてさらに次の病室に向かっていく。
「行こうよ同村くん。回診を見学しないと」
 そう言って向島は歩き出す。その向こうに見える堤の背中を見ながら同村は嘆いた。
「…何だかなあ」

 一方こちらは鼻チーム。午後2時、清水からの許可が出て2人は病院食堂で遅い昼食をとっていた。
「…鼻の病気も結構きついんですね。思っている以上に患者さんが苦しんで手びっくりしました」
 井沢がラーメンをすすりながら言う。
「鼻は呼吸のためにも重要だもんね。俺もガキの頃ひどい蓄膿だったから毎週耳鼻科に通ってたよ。寝苦しくて辛かったなあ」
 長はパスタをフォークに巻きつけながら答える。井沢が長のトレイに置かれたパックのミルクを見て言った。
「そういえば小学校の頃、牛乳飲んでる女の子を驚かせて、鼻から牛乳出させるの流行りましたよね」
「若いのに古いイタズラ知ってんだな。やったなあ、そういうの。あの頃は頭部の解剖学なんて知らないから、鼻から牛乳が出るのが不思議だった」
「久しぶりにやりますか。長さんその牛乳飲んでくださいよ、俺が驚かしますから」
 井沢がそうおどけると、長も「やめて~また教授に怒られる」と笑った。
 そんな楽しい会話が進んだところで、長がふと思い出したように尋ねる。
「そういえばさあ、アニキはどうして急にオーベンになったの?なんか臨時だって言ってたけど」
 井沢が箸を止め、少し周囲を気にしながら答えた。
「先輩から聞いたんですけど…ちょっとした事件があったんですって」
「事件?」
 そこで長も声を落とす。
「いや事件って言っても医療事故とかじゃなくて何ていうか…ハレンチ事件」
「はあ?」
「なんか勤務時間中に、空いてる部屋でドクターが事務の女の子とイチャイチャやってたんですって。それで、それを見つけた他のドクターがブチ切れて」
 長もそこでフォークを止めミルクを手にした。
「ははあ、それでそのイチャついてたドクターがクビになって、それがアニキの上のオーベンだったんだな。急にその人がいなくなったからアニキが…」
「違いますよ。クビになったのはハレンチを発見したドクターの方です」
 長はそこで本当に鼻から牛乳を出しそうになる。
「ど、どういうこと?」
「発見したドクターは講師、ハレンチの方は順教授だったんですよ。それで結構ゴタゴタして、順教授は都内の系列病院に半年間出向、講師の方は田舎の病院に一生島流しです」
 井沢も不愉快そうにお茶を飲む。
「アニキのオーベンだったのはその講師の方ですって。順教授は他の科のドクターで、結構院内でも力がある人だったみたいで…」
「カッコ悪い白い巨塔だなあ」
 長が呆れた顔でそう返す。その言葉を最後にここでもしばしの沈黙が訪れた。
 哀しきかな、医療者もまた人間だ。性欲もあれば恋もする。それが微笑ましいオフィスラブならともかく、この巨大な組織にはきっと不義や不貞も存在している。そう、この社会全体がそうであるように、ここもけして例外ではない。
 再びフォークを手にした長が嘆いた。
「…何だかなあ」

 そしてこちらは咽喉チーム。午後4時、2人は中村による告知の場に立ち会っていた。外来の隅にある窓のない小さな部屋。机を挟んで座る中年男性の患者に告げられた病名は深刻なものであった。ヘビースモーカーである彼が、喉の不調を訴えて受診したのは1週間前。その検査結果が本日彼の人生の景色を変えた。
「何か…ご質問はありますか」
 中村の声が重く室内に響く。その後ろに座る美唄は視線を落とし、隣のまりかは真っ直ぐに弾性を見ている。
 男性は何も言わず、ただボンヤリと机の上に組んだ手を見つめていた。弱弱しく、虚ろな目だった。
 さらに10分ほどの沈黙を待って、中村は言った。
「もしあなたが…入院治療を選ばれるなら、私どもは全力を尽くします」
「そ、それでも僕はやがて…」
 男性の頬を次々と涙が伝う。それを食い止めるように目を閉じた彼は、声を殺して泣き始めた。同席していた看護師が彼にそっと寄り添う。室内には彼の悲痛な嗚咽だけが響いた。
「いいですよ。ゆっくり、ゆっくり考えてください」
 中村が言う。その背中に隠れるように美唄はさらに身を縮めた。まりかは全く視線を逸らさない。それは彼女の中にある強い意志…4年間の特待生はけしてただのガリ勉ではない、他の誰にも負けないその情熱ゆえであることを示していた。
「どうされます…入院して治療を行ないますか?」
 男性の嗚咽が少し弱まるのを待って、中村は再度尋ねる。そこで男性は、目を閉じたまま震える顔で頷いた。
「…わかりました。では早い方がよいですからさっそく手続きを行ないましょう」
 看護師に付き添われ、男性はそのまま部屋を出ていった。ドアが完全に閉まってから中村はくるりと椅子を後ろに回転させる。
「告知はこんな感じ。ちょっときつかっただろうけど、大丈夫?」
 美唄がようやく顔を上げ、静かに頷く。その顔にはいつもの元気はない。その横でまりかが「質問よろしいですか」と尋ねた。中村は「もちろん」と返す。
「このような告知の際に、大切なことは何ですか?」
 彼女の真剣な瞳に、中村は正面から応える。
「これはドクターによっても違うと思うけど、僕はちゃんと真実を伝えるべきだと思う。余命とか治療の効果とか…ありのままを伝えることが大切かな」
「どうしてですか?」
 今度は美唄が尋ねた。
「本当のことを知ってこそ、その人の本当の力が出ると思うんだよね。病気と闘うには、その力が絶対必要なんだ」
 美唄とまりかはそれ以上は言葉を続けなかった。中村は「じゃあ今日はこれでおしまい」と立ち上がるといつもの優しい笑顔を見せる。そして明日の集合時刻を告げてから部屋を出ていった。ドアの向こうに足音が遠ざかっていく。そのまま沈黙を続ける2人…そろそろ街は夕焼けに染まる時刻だが、この部屋にそれを知る術はない。時の流れから取り残されたような室内。空気も心も滞り、ただ院内アナウンスと救急車の音だけが遠くに聞こえている。
「…まりかちゃん」
 やがて美唄がポツリと呟く。その視線は床に落とされたままだ。
「私、患者さんの顔をまともに見れなかった。あの患者さんはきっとこんな辛い診断を伝えられるなんてきっと思ってなかったよ。今あの人、どんな気持ちでいるんだろう…」
「…想像もつかない」
 視線を患者のいた椅子に注いだまま、まりかは静かに答えた。
「まりかちゃん…私たちただの学生だよ。何もしてあげられないのに、勉強のためだけにあの人の絶望を見学する権利があるのかな」
「おこがましい、ってこと?」
 そこでまりかは美唄を見た。美唄も視線を上げ、「おこがましいっていうか…申し訳ない」と返す。
「私たちは将来出会う患者さんのために、今勉強してるんだよ」
「そうだけど…いや、そうだね」
 美唄のその言葉を最後にまた室内の時間が停止する。数分の後、まりかが「帰ろっか」と言って立ち上がり、美唄も「うん」とそれに続いた。
「まりかちゃんはこれからどうするの?」
「着替えて荷物取ったら…ちょっと図書館で勉強してから帰るつもり」
 彼女が実習の後に自習をしてから帰るのは珍しいことではない。日課、とまではいかなくても少なくとも週に1回はそうしている。それが彼女の当たり前なのだ。
「…美唄ちゃんは?」
「私も…今日はそうしよっかな。一緒に図書館行っていい?あ、邪魔にならないようおとなしく勉強するから」
 そう微笑む美唄に、まりかも笑って答える。
「邪魔なんかじゃないよ、一緒に勉強しよう。金曜日には教授の口頭試問もあるしね」

 2人は病院を出ると教育棟に戻り、帰り支度をしてそのまま学内図書館に向かった。当初やろうと話していた口頭試問対策には結局手をつけず、2人は先ほどの患者が告知された病気の専門書を開いた。その病態、治療法、予後、発見の歴史と最新の研究…そんな細かい所まで進級試験や国家試験に出題されるわけはない。それでも2人は勉強した。それだけが今あの患者にしてあげられる自分たちの精一杯…もちろん自己満足だということはわかっている。患者からすればどうでもいいことだろう。しかし例えそうでも、無責任に患者の絶望に立ち会った彼女たちにとってこれが責任の果たし方であった。
 …青いね。でも青いけどいいんじゃないかな?進級のためなんかより、ずっと大切な学習の動機だよ。そしてそれこそが今多くの医学生が忘れかけていること。いつもそうとはいかないけど、少なくとも今彼女たちの背中を押しているのは留年の恐怖などではないのだ。

 2人が図書館を出た午後9時、辺りは完全に日が落ちていた。
「もうすっかり夜だね、あ~肩こっちゃった」
 美唄が明るくそう言う。まりかも「疲れたね」と返した。しかし会話はそれ以上続かない。…まだ2人ともいつも通りの元気とはいかないようだ。無言で夜の駐車場を歩く。
 と、そこに1台のスクーターが通りかかった。暗がりの中でも目立つ赤い革ジャンにギターケースを背負った長髪の男…中村フレディであった。
「あら2人ともまだいたの?」
 スクーターを止めて中村が言う。美唄が「ちょっと自習してたんで」と返した。
「真面目だね~。耳鼻科の実習はまだあと3日もあるんだからあんまり飛ばすと疲れちゃうよ」
「了解です。フレディさんは今お帰りですか?」
「そうだよ。今からスタジオ入ってバンドの練習なんだ。最近買ったこのギターを唸らせてくるから」
 中村はワクワクした様子で背中のギターケースを示すと、2人に気をつけて帰るよう告げてから走り去っていった。
「今から練習…すごいね」
 と、まりかが新宿に消えていくスクーターを見ながら言った。
「音楽部のOBって結構バンド続けてる人多いの。ライブハウス借りてイベントもやるくらいだから。でもみんな仕事があるから、どうしても練習は深夜になるみたい。今日なんかまだ早い方じゃないかな」
「…そうなんだ」
「フレディさんは練習の時から派手な衣装とギターで大騒ぎするので有名なの」
 それを聞いたまりかは驚いていた。だがそれは仕事の後に練習をするタフさにではない。
「あんな告知をした後でも…平気なんだね」
 それを聞いて美唄ははっとしたように言葉を止める。そして、少しためらいがちに答えた。
「確かにね…ちょっと、不謹慎…かもね」
 7月の生暖かいビル風が2人の髪を揺らす。同時に排気ガスの臭いも押し寄せた。
「じゃあ私、地下鉄だから。また明日ね、まりかちゃん」
 美唄は明るくそう言うと、駅に向かっていった。まりかも微笑んで「お疲れ」と返したが、その胸中はまだ複雑だった。あの閉ざされた部屋で患者に深刻な告知をした中村、そして今からバンドの中ではしゃぐ中村。あまりにも異なる姿、しかし紛れもなく同一人物。
「…緒戦は他人事、か」
 同村じゃあるまいし、まりかがこんな独り言を言うのは珍しい。彼女はそこで振り返り、夜空に突き刺さる巨大な病院を見上げた。そして小さく嘆く。
「…何だかなあ」

 翌水曜日、朝の学生ロビーはちょっとした賑わいを見せていた。普段からここはポリクリ生同士の情報交換の場だ。どの科のどのドクターには気をつけろだの、どこは手を抜いても大丈夫だの、どのナースが可愛いだの、VIP室にアイドルが入院しているらしいだのまあ実習に関係あることからないことまでガセネタ満載でお送りされている。同級生内にも数々のネットワークを持つ井沢にとってそれは重要な情報源であった。
「聞きましたか?うちのドクターが逮捕されたって話」
 ソファでパンをかじっていた長に、井沢がそう駆け寄った。
「朝のニュースで見たよ、電車内で盗撮だってね。病院名までバッチリ報道されてた」
「そうっすよ。まったくアホな奴ですよね。医局長までやってたらしいのに、全部パアです」
 井沢も長の体面に腰を下ろす。
「なんかあれっすよね。医者とか教師とかがこんなことすると大きく報道されて…」
「まあね。でも免許取り消しにはならないだろうし、依願退職して話はおしまいだろう」
 そう言ってパンをほおばると長はコーヒーを流し込んだ。壁の時計は8時30分。
「今日は9時に病棟集合ですからもうちょっっとしたら行きますか」
 と、井沢。長は「そうだな」と言いながら立ち上がる。
「悪いけど1本だけ吸わせて。すぐ戻るから」
 今までの物語では触れてこなかったが、実は彼は14班唯一の喫煙者である。社会の動向に漏れずすずらん医科大学でも校舎・病棟ともに禁煙の波が押し寄せている。学生デモ職員でも喫煙者は敷地内の隅っこに設けられた喫煙所という名のプレハブ小屋に忍ばなくてはならない。それはまるで体育館裏でこっそり喫煙する中学時代の不良さながらだ。ちなみに長はそちらの方も経験者なのだが…これは内緒ね。
「長さんもこの機会にタバコやめたらどうっすか」
 井沢が笑ってそう投げかける。
「わかっちゃいるんだけどね、こればっかりはどうも…。すまん、すぐ戻る!」
 そう言って浪人生のボスは教育棟を飛び出していく。それを見ながら井沢は大きくあくびをした。学生ロビーにおかれたテレビにはまた例のニュースが流れたようで、にわかにどよめきが強まる。いい加減うんざりした井沢は立ち上がる。そして小さく嘆いた。
「…何だかなあ」

 同日正午。清水の病棟回診を見学した2人は彼に連れられ会議室に向かっていた。28階、患者や家族は出入りできないフロアだ。薄暗い廊下に大小様々な会議室が並んでいる。
「なんか簡単に立ち入れない聖域って感じですね、アニキ」
 長がそう言うと、清水は「そんなことないって」と笑う。
「それを言うならこの上の教授室のフロアだ。あそこに呼ばれる時はいまだにビビるぞ」
 やがて3人は目的の部屋に近づく。その手前の廊下両脇にはスーツ姿の男女が数人立ち並んでいた。その間を通り抜けると「よろしくお願い致します」と深々と頭を下げられる。それに恐縮してしまう長と井沢に対し、清水は特に気にかける様子はない。
「俺たちまでペコペコされちゃうんですね」
 井沢が小声で苦笑い。清水は「気にするな、それも製薬会社の仕事のうち」と返す。3人が室内に入ると、すでにそこには耳鼻咽喉科の医局員たちが多く着席していた。その仲に長と井沢は知っている顔を見つける。
「あ、長さんと井沢くん!」
 先に言ったのは美唄。その横には14班残りのメンバーの顔もある。どうやら他のチームもオーベンに連れられてきたらしい。清水の指示により6人は最後列に並んで腰を降ろした。
「なんか全員集合するの久しぶりだね」
 少し嬉しそうな美唄に、「そんな大げさな」と返す同村。そんなやりとりをしているとスーツ姿の男性が彼らに近づいてくる。
「よろしくお願い致します」
 そう1人ずつに頭を下げながら彼は書類サイズの封筒と弁当を配る。6人はまたまた恐縮しながらそれを受け取った。業界に明るい読者なら今からここで何が行なわれるのかすでにおわかりだろう。そう、製薬会社による製品説明会だ。正面のプロジェクターには薬の名前が表示され、配られた封筒にはパンフレットや社名が刻まれたボールペンが入っている。スーツ姿の者たちの正体はMR、昔でいうところの『プロパーさん』である。ドクターを訪問し薬についての情報を提供するのが彼らの重要な仕事。このように昼食を兼ねて行なう勉強会を業界では『ランチョンセミナー』と呼ぶ。ランチ・オン・セミナーの意味らしいが…それを聞いて「セミナー・オン・ランチじゃないのか?」と独り言で投げかけるのはもちろん同村。
「弁当…俺らももらってよかったのかな」
 そう不安そうに言った長に、前列の清水が振り返って「いいんだよ。しっかり食え」と笑った。まだ説明会は始まっていないのに、気付けば室内のあちこちですでに食事が始まっている。6人は一応お互いに目で確認を取りながら弁当の蓋を開いた。
「わあすごい、おせちみたい」
 まりかが小声で呟く。そして少しずつ箸をつけ始めたところで、1人のスーツ姿の女性が部屋の正面に出た。廊下にいた者たちも入室してくる。どうやら説明会の始まりらしい。
「本日は貴重なお時間を頂きまして、誠にありがとうございます。先生方におかれましては日頃より弊社の製品をご書法頂まして誠にありがとうございます」
 正面の女性がそう言って一礼し、自らをメロディアス製薬の後藤と名乗った。
「瀬山教授は会議がお忙しいとのことで、先に始めておくようにとのご連絡を頂いております。それではさっそく始めさせて頂きます。本日ご紹介しますのは新しいめまい治療薬として弊社が開発いたしました…」
 後藤はまだ若く、その声も顔も少女のような幼さを帯びている。それでも声を張り上げて説明を続けるその姿には緊張よりも力強さが感じられた。しかしそんな彼女の言葉に真剣に耳を傾けている者が室内に何人いるだろうか。
「以上のようにこの薬は…」
 専門用語や図解を駆使して説明は続けられる。薬の作用機序・効能・用法・副作用などプロジェクターの画面も次々に切り換わっていく。しかし医局員たちは食事の時にとりあえず点けているテレビさながらの興味しか示さない。中には弁当に顔を埋めたまま視線を全く上げない者もいる。箸を止めて真面目に傾聴している者といえば…そう、我らが14班の6人くらい。しかしまだ学生の彼らにとって、実際の臨床で使われる薬の説明は正直チンプンカンプン。ずっとメモを取っていたまりかをもってしても半分も理解できなかっただろう。
 その後も後藤の孤独な訴えは続く。中には弁当を食べ終わると忙しそうに席を立つ者、PHSが鳴りそれに応答しながらそのまま退室する者まで出てきた。

「…以上で説明を終わります。ご清聴ありがとうございました。…何かご質問などございますか?」
 拍手も質問もあがらない。後藤のその言葉を最後に残った医局員たちも席を立っていく。6人は3チームとも2時まで自習の指示を受けた。その場で再び弁当に箸をつけながら同村が言う。
「…製薬会社さんがあんなに必死なのに、みんなあんまり聴いてなかったですね」
「まさに弁当だけが目当て、って感じ?」
 向島が鼻で笑う。長も無言で何かに頷いている。あれ?隣の井沢がいないぞ…と思ったら何と彼は前に出て後藤に話しかけていた。
「とっても勉強になりました。僕らにはちょっと難しかったですけど」
 得意の爽やかモードが炸裂し、後藤もパソコンなどを後片付けしながら彼に笑顔を返す。
「ありがとうございます。あの…学生さんですか?」
「はい、今病棟実習してます」
 そんな彼の社交術を遠めに見ながら、同村は改めてすごいなと感心する。もちろんそこには以前のような苛立ちの感情はない。何度も14班を助けてくれている彼の力に素直に感服した。
 やがて製薬会社の者たちも全員退室氏、その場は6人のみとなった。再び着席した井沢に長が言う。
「ナンパはうまくいったの?」
「何言ってんですか、勉強のために色々訊いてたんですよ。でも大変みたいですね。MRさんってみんなが薬学部出身ってわけじゃないし、それでもあれだけ説明できるくらい勉強してるんだから」
「きっと一生懸命説明の練習もしてるんだろうね。ああもうお腹いっぱい」
 そう言ってまりかが弁当を閉じた。
「それなのにお医者さんたちの反応は…冷たかったね」
 美唄も箸を置く。
 …う~ん、まあ勉強も練習も後藤たちの仕事だからするのは当然といえば当然。説明会がウケないことだって慣れっこなのだろうけど…複雑。何もかもが初体験の6人にとっては少々ショックだったかな。特に練習を重ねてステージで歌う彼女にとっては、聴衆の反応が薄い時の切なさは身にしみて知っている。
 弁当のゴミを片付けながら美唄が小さく嘆いた。
「…何だかなあ」

 同日午後5時、それぞれの実習を終えた3チームは予定通り学生ロビーに集合した。いつものソファで明後日の教授口頭試問の対策を練り、この3日間でそれぞれのチームが学んだ知識を交換した。そして話題はいつしかお互いの「何だかなあ」の発表にすり替わっていく。そこには彼らにとって少なからず落胆した医師の現実があった。
 それは患者の懇願を取り合わない姿であり、それは大物のハレンチを指摘して左遷される姿であり、それは深刻な告知の後に笑顔でギターを弾く姿であり、それは愚かな犯罪で逮捕される姿であり、それは弁当だけ食べて真面目に説明を聞かない姿であった。
「…それが当たり前になっちゃうんだろうなあ」
 井沢がそう呟く。
「俺だって先月同村に怒鳴ってもらえなかったら、嫌な奴のままだったかもしれない」
 そう言われて同村も「いや、俺の方こそ」と返す。雨降って地固まる、どうやらこの2人の関係にはよい変化が現れつつあるようだ。それはおおいに結構。しかし社会人、しかも病院という閉ざされた世界ではそんな目を醒まさせてくれる雨はなかなか降らない。井沢がさらに続ける。
「今は俺たちおかしいって思ってても、医者になって何年かしたら…患者を何十人も抱えて忙しさに負われたら…きっとそれが当たり前になるんだろうな」
「堤先生たちが悪い人だとは思わない。けど…優しさとか余裕とかを配分していったら、どうしても1つ1つが軽くなっちゃうんだよ」
 と、同村。美唄も寂しそうに「そうだね」と呟く。長も頷いてから言った。
「どこの組織にだって理不尽がある。その犠牲になったり、時には心に魔が差すことだってあるのかもしれない」
 そう、ポリクリで彼らが目にするのはけして医療の白さだけではない。白衣の影に潜む数々の黒さを学ぶことも実習の隠れたカリキュラムなのだ。
「でもさ…だからこそ、今感じてるこの気持ちを忘れないようにしようよ」
 まとわりつく闇を振り払うように、まりかが精一杯の明るさで言った。スケジュール管理だけではない、意識的か無意識か彼女は精神面でも14班を導こうとしてくれる。
「そうだね、うん、そうだよ!」
 そこで美唄もいつもの笑顔に戻って言った。そう、お株を奪われてちゃダメ、明るさは君の専売特許でしょ?
「よし、気分転換しよう」
 そう言って向島がソファを立つ。学生ロビーに他の班はいない。彼は隅に置かれたテレビに向かった。
 そういえば…彼だけが「何だかなあ」を発表していない。すでに医者とはそういうものだと悟っているのか。それとも…医者になる道の上にいながら音楽への情熱を優先している自分自身に、誰よりも「何だかなあ」と感じているのかもしれない。
 向島はテレビを点ける。他の5人の視線も集まった。そこに流れるニュースは…ある病院の医者が一斉に退職し1つの科がなくなってしまったというもの。そのせいで遠くの病院に通わざるを得なくなった患者の苦言のインタビューが続く。
 空気を察して向島はチャンネルを回した。今度はバラエティ番組が映し出される。これで一安心…と思いきやそこにはタレント女医が芸人をいたぶってバカ笑いしている姿が。
 …何だかなあ。
 おっと、作者が言ってはいけませんね。まあそんなわけで学生ロビーにはまたまた嘆きが生まれてしまうのでありました。

 木曜日、今日もそれぞれのチームに分かれての実習。わずか数日で一生文の「何だかなあ」を味わった14班メンバーは、まだそれぞれのモヤモヤの中にいる。

 こちらは耳チーム。アウトロー向島が何かやらかしてくれるのではと勝手な期待を抱いていた同村であったが、今のところ特に何事もなし。サボりの帝王も閻魔大王に首根っこを捕まれてはさすがにひとたまりもないようだ。11時、午前の実習から解放された2人は病院食堂で早めの昼食をとっていた。
「明日で耳鼻科も終わりですね」
 カレーを口に運びながら同村が切り出した。ハンバーグランチに目を輝かせた向島が答える。
「そうだね。結構面白かったかな」
「最近、音楽活動の方はいかがですか?」
「う~ん、今は曲作りよりも楽器の練習期間って感じかな」
「そうですか…」
 向島はそれ以上話を広げなかった。執筆活動はどうかと逆に訊き返されることを期待した同村であったが、特にそれもない。ジャンルは違えど創作活動を続ける者同士、何か通じ合えるかと思ったが…そう単純ではないらしい。
 しばしお互いの栄養補給に集中する。そして目の前にいる先輩を見ながら、同村は最大の謎を口にすべきかどうか迷っていた。
 …あなたはどうして医学部にいるんですか?
 それは同村にとって自問自答でもあったのだろう。その答えを知ることには本能が警鐘を鳴らしている。しかし…知りたい。意を決して彼はスプーンを置いた。
「向島さん、あの…」
「合い席よろしいですか?」
 同村の勇気は無遠慮な声にかき消された。食堂の席は少しずつ埋まってきてはいたがまだ十分に空いている。それなのにあえて合い席とは?
「あ、お疲れ様です」
 向島が先に言った。そこに立っていたのは堤ミットのチューベン・岸本とコベン・藤野の女医コンビであった。2人は学生の返事も待たずそのテーブルに腰を下ろす。
「どう、耳鼻科は?」
 そんな明るい藤野の言葉からたわいもない会話が始まる。病棟では気付かなかったが藤野には広島、岸本には京都の訛りがある。
「へー、そうなんや。向島先生は音楽部なんやね。個性あるって思った」
 と、岸本。藤野が「逆に同村先生は地味じゃね」と笑う。14班メンバーとは自然に話せるようになった同村でも、ここで小粋なことを言えるスキルはさすがにまだない。向島への質問が不発に終わった落胆もあってか、彼は力なく苦笑いを浮かべるのみだった。
「こら、元気ないぞ。そんなんじゃ患者さんも不安になるよ」
 藤野が同村を小突く。岸本が真面目な顔で「何か悩みとかあるの?」と尋ねた。
「いやその…」
 訂正しようとした同村だが、そこであることを思い出す。病棟での堤の老婦人に対する冷たい対応…彼はこの機にその疑問をぶつけてみた。同村という男、変な所で妙に大胆だ。
 その話に女医2人は一瞬顔を見合わせ、少し声を落としてからまず岸本が言った。
「そのことが気になってたんや。でもそれはちょっと違う。堤先生はそんなに冷たくないよ。だってあのおばあちゃん、堤先生の実のおばあちゃんなんやから」
「え?」
 同村が思わず返す。向島もその瞳に驚きの色を浮かべていた。
「だから堤先生はああいうふうに対応したの。自分のおばあちゃんやからって特別扱いするわけにはいかへんから。そんなことしたら担当の先生にも悪いしね」
 コーヒーを一口飲んで今度は藤野が言う。
「そうなの。家族だからって他の患者さんにはしてない治療をするわけにはいかないってこと。まあ冷たく見えたかもしれないけど、あれが堤先生の平等なのよ」
 平等…その言葉は同村に重く響いた。
 どうして自分は病気になったんだ…そんな不平等に苦しむ患者たちに堤は平等を説くのか。あの笑顔もそれゆえだったのか?
「先生方は…たくさんの患者さんに出会って、やっぱり病気に慣れてしまうんですか?」
 黙っていた向島が突然尋ねた。少し考えてから岸本が答える。
「そう…やね。慣れるっていうか、特別なことやないとは思ってるかもしれへんね」
 「そうですね」と藤野が口ぞえする。
「病気は悲しい。でもそれは特別やない。患者さんはどうして自分だけが病気にって思うんやろうけど、私らは違う。いつ誰に起こってもおかしくないって思う。それが自分のおばあちゃんでも、自分自身でも」
 この感覚こそが医療関係者とそれ以外の者の一番の違いかもしれない。堤の平等もきっとこの感覚の上にあるのだ。病気が悲しくないわけじゃない、でも病気は悲劇じゃない。
 …同村はそんなことを考えていた。
「ねえねえそれよりさ、2人は彼女とかいるの?」
 藤野がまた話題をたわいもないことに戻す。まあ付き合ってあげましょう、同村そして向島よ。学生を捕まえてこんな話をするのがきっと彼女たちの明るさの秘訣なのだから。それにモヤモヤを払ってもらったお礼と思えば安いもんでしょ?

 一方こちらは咽喉チーム。午後2時、2人は手術見学の時刻まで病棟のカンファレンスルームで自習をしていた。あの告知に立ち会った時から、2人は優しい中村の顔にもどこかためらいを感じてしまう。美唄においては、日課と鳴っていた入浴時のカラオケワンマンショーさえ自粛してしまう始末。いくつもの悲しみに立ち会いながらその一方で楽しく歌う…それがたまらなく罪深いことのように彼女には感じられた。
「大丈夫?」
 ペンが止まっていた彼女の胸中を察したように、まりかが言った。
「あ、うん。ごめんね…大丈夫!」
 美唄はガッツポーズをしてみせる…が、その笑顔はやっぱり70パーセント。
「この前のこと、気にしてるの?ごめんね、私が余計なこと言ったから」
「まりかちゃんが謝ることないって。それにフレディさんだって…別に悪いことしてるわけじゃないし。私が今まで…考えなさすぎただけ」
 口ではそう言いながら、彼女だってこれまで考えてこなかったわけじゃない。人の生死に関わる医療という仕事と、それさえも茶化して歌い上げる音楽という趣味の落差を。ただ実際に白衣を着て患者の絶望に直面した時、自分の立ち位置がわからなくなってしまったのだ。
 まりかもペンを止めて言った。
「お医者さんだけじゃないよ。警察とか葬儀屋さんだって…悲しみの度に謹慎してたら仕事にならないじゃない」
「そうだよね…」
 2人の話題はそのままあの告知の夜の中村に流れる。不謹慎、でも気分転換は必要、患者がそれを知ったらどう思う、医者に私人の瞬間はあっていいのかなどなど…狭い室内にいくつものモヤモヤが放たれた。その時…。
「失礼しますよ」
 ノックもなく閻魔…もとい瀬山教授が現れた。2人は慌てて立ち上がる。
「自習は頑張っていますか?」
 雑談をしていたとは言えず、学生は「はい」と答えるしかない。しかし教授はもちろんその上を行く。
「今、君たちが話していたことですがね…中村先生の」
 全てが筒抜けだったことに2人は驚く。いつも冷静なまりかでさえ、メガネの奥で動揺する瞳を隠せない。取り繕う言葉も浮かばぬうちに教授は続けた。
「君たちは、医者をやるために一番大切なことは何だと思いますか?」
 …訪れる沈黙。突然の口頭試問に2人は戸惑うが、もちろんちょっと相談しますと言える雰囲気ではない。まりかが「経験とそれに基づく技術です」と搾り出す。美唄もかろうじて「患者さんを思いやる心です」と答えた。「なるほど…」と2人を見てから、瀬山はいつもの穏やかな口調で言った。
「僕はね、まず自分の心を元気に保つことが一番大切だと思います。医者をしていると何度も悲しみに打ちのめされます。無力感や絶望感に苛まれます。きっと今、君たちが思っている以上に」
 狭い室内に彼の声だけが続く。不思議だ、消え入りそうな細い声なのにその言葉はとても鮮明に響く。
「それでも毎日の仕事はやってきます。病気も患者も待ってはくれません。だからこそね、心が元気じゃないとこの仕事は続けられません。
 …中村先生は確かにユニークな先生です。でも、彼の心はいつも元気です。以前に医局で悲しい出来事があった時も、中村先生だけは笑顔でいつも通り回診してました。これはすごいことです」
 そこで瀬山は美唄を見た。
「君が気にしてた夜のスタジオ練習も、不謹慎とか許されないとかじゃなく…心を元気に保つために必要なことなのです。僕は…賛成ですよ。まああの長い髪は切ってほしいんですけど、その分元気でいてくれるんならと大目に見てます」
 そこで瀬山はようやく笑顔を見せ、今度はまりかに視線を向ける。
「そういうことですよ、秋月先生。勉強はもちろん大切ですが、特待生が必ず名医になるとは限らないのです。だから…頑張ってください」
 そう言うと、瀬山は特に返答も確認せず出ていった。う~ん、それにしてもいつから2人の話を聞いていたのか…閻魔だけに地獄耳?
「そっか…そうなんだね」
 光が灯されたように、美唄が100パーセントの笑顔を見せる。医学と音楽、彼女の中で共存は無理かに思われた2つの民族が手を取り合った瞬間だった。と、そこで彼女はまりかが心配になる。
「まりかちゃん、教授の言葉は別に…」
 しかし批判されたかに見えた特待生は微笑みを浮かべている。
「ううん…逆に嬉しかった」
 学生時代の成績と名医度は相関しない、まあこれはこの業界では常識です。読者のみなさんももしかかりつけ医がおられるなら、卒業試験の順位を尋ねてみればいい。まあそれで怒られても当方は一切の責任を負いませんが。
「瀬山教授の言葉、同村くんに教えてあげたら?ほら、初日に成績のことで言われて落ち込んでたじゃない」
 まりかがそう言って悪戯っぽく笑う。
「美唄ちゃんから教えてあげたらきっと喜ぶよ」
「え、どうして私から?も~まりかちゃん!」
 今夜から美唄のワンマンショーが再開されるのは間違いなさそうだ。

 午後8時、病院近くのラーメン屋。鼻チームの2人は清水に誘われ夕食を囲んでいた。明日の口頭試問を考えれば早く帰って勉強したいのが本心だが、お世話になった先輩の誘いを無下にはできない。これも体育会系の宿命。
「おう、お前らどんどん食えよ!」
 そう促され井沢と長は大きなどんぶりに顔を突っ込む。
「それにしてもアニキ、やっぱりドジばっかですね、病院でも」
 と、井沢。長もその横で笑う。
「バカ、お前らが見て宝緊張してたんだよ」
 そんな話で盛り上がる。ふとした拍子で長は例のハレンチ事件で左遷されたドクターのことを持ち出してみた。心の中はどうあれ笑顔を作れるのがこのチーム、言うなれば社会性コンビ。それでもやはりこのモヤモヤは誤魔化せない。
「ああ、あの人ね…」
 清水は箸を止める。そして理不尽に大学を去らされたオーベンの思い出を懐かしそうに語った。
「今、その先生はどうしてるんですか?」
 井沢が尋ねた。清水はまだ半分も食べていない大盛りラーメンに一度箸を置く。
「まあ元気にやってるみたいだぞ。あの人も体育会系だ、そんなにヤワじゃないさ。なんか今度近隣の病院と連携して、研究チームも立ち上げるって言ってた」
「そうですか…」
 長がほっとしたように言う。井沢の顔にも安堵の色が表れた。
「あの人と飲むといつも朝までだったんだよ。よーしお前ら、今夜は…」
 と、言いかけたところで清水の携帯電話が鳴った。それに出た彼の片眉がまた吊り上がる。
「え?あう…そう、ですか」
 30秒ほどのやりとりの後、清水は「わかりました」と電話を切った。
「悪いお前ら、俺行くわ」
「何か緊急事態ですか?」
 と、井沢。
「いや、夜間外来に俺の診てる患者が来ててさ。1人暮らしのおじいちゃんで、鼻が詰まって眠れないって時々来るんだ。家族もいない人みたいでさ」
 そう言うと清水は席を立つ。
「俺が言って、鼻の処置して話聞いてあげたらいつも喜んで帰るんだよね。だから…行くわ」
「すごいっすね」
 長が感心したように言う。
「いつもじゃないよ。行けない時は行かない。まあ、行ける時くらいはね。お前ら悪いな、ゆっくり食って帰ってくれ。兼ねは置いておくから」
「いいっすよ、アニキ。1週間のお礼に俺らが出しますから」
 井沢がそう言うが、清水は「バカ!それはダメだ。俺が出す」と断る。これもまた体育会系の掟。しかし…ここで財布をロッカーに忘れてきたことに気付くのが我らがアニキである。
「お前ら本当にごめん、今度絶対おごるから」
 そう手を合わせて謝る愛しの先輩を、2人は暖かく送り出す。
「いいですからアニキ、ほら、早く行ってあげてください」
「よっ!ドクター清水!」
 ドタバタと飛び出していくその姿は…おっちょこちょいでかっこ悪い、人情味だけが取り柄の名医であった。
 その後、残りのラーメンをすすりながら、長が言う。
「俺、病気になったらアニキに診てもらいたいかも」
 それに井沢は顔をしかめて答える。
「マジっすか?俺はアニキに処方された薬は絶対自分で調べてから飲みます」
 そこで2人は大笑いする。
 どうやらこのチームのモヤモヤも晴れてくれたらしい。

 金曜日の夕方、6人は無事教授の口頭試問を突破した。初日同様にカンファレンスルームに立ち並ぶ6人、最後に瀬山が尋ねたのは「どうして医学部に来たのか」であった。
 井沢の「父が産婦人科の病院をやっていますので」、長の「親に苦労をかけたから恩返しがしたい」、美唄の「お母さんが看護師だったから」などの答えに続き、まりかは少し考えた後で「医学を学びたいと思ったからです」と答えた。そして同村にとっては大注目の向島の答えは…なんとここでも謎。1人ずつ答えている間に彼はトイレを我慢できなくなり許可を得て退室したのだ。そんなこんなで最後に答えるのは同村。
「僕は…」
 そこで口ごもってしまう。社交辞令で乗り切れないのがこの男。
「まだよくわかりません。ポリクリをしているうちに…もっとわからなくなりました」
 それを聞いて瀬山は少しだけ目を細めた。
「でも…医学部に来てよかったと思っています。これだけは間違いありません」
 同村はそうはっきりと言った。瀬山は感情を見せず「そうですか」と呟くと、改めて14班の6人…じゃなくて5人を見回した。
「それではこれで耳鼻咽喉科の実習は終了です。来年2月のポリクリ発表会でお会いしましょう。残りの実習も頑張ってください」
 5人は「ありがとうございました」と頭を下げる。
 まあ何だかなあだらけの医者という仕事。でも何重もの嘆きにくるまれたその中心には、人を惹きつけてやまない何かがある。発展途上の彼らにとって、今は全てが勉強なのです。医者とは果たして何なのか、それはこれからゆっくり見つけて頂きたい。
 学生たちの命運を握る閻魔は静かに部屋を出て行く。遠ざかる足音…一週間の緊張がようやく緩み室内には無駄話が溢れた。
「みんな、お疲れ様!まりかちゃんの口頭試問の予想、バッチリだったね」
 はしゃぐ美唄、嬉しそうなまりか、「あ~疲れた」と座り込む長、解放感でリフティングの真似事をする井沢、そして「ステージクリア」と妙な独り言で微笑む同村。
 まあひとまずは難関突破、お疲れ様でした!3チームとも、学ぶことの多い実習だったんじゃないかな?
 …しかし、喉もと過ぎれば熱さを忘れる。
 実は次に瀬山と会う時こそ、14班にとって最大の難関が訪れる。…まあそれはまだ当分先の物語。今は素直に口頭試問の成功を喜びましょう。

 そんなこんなで今回はこれでおしまい。来月の主役は、今トイレの固執に篭っている彼の予定なんだけど…大丈夫かなあ?

8月、緩和ケア編に続く!

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