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コラム
コラム2015年03月「おいしいチョコレートは、好きですか?」
2月や3月は、バレンタインデーやホワイトデーのおかげでお菓子を食べられる機会が増える。とりわけ私はチョコレートをコリコリとかじりながらコーヒーをすするのが至福のひと時で、毎年この時期はチョコレートをくれる家族や同僚にありがたいありがたいと感謝するわけである。
しかし、以前から思っていたことではあるが、チョコレートを作った人は偉大だと思う。
チョコレートの原料はそもそもカカオである。たぶん豆である。それが、おそらくいろいろな試行錯誤を重ねた末に、現在の固形のチョコレートにたどり着いたであろうことは想像に難くない。
ここではチョコレートの歴史について触れはしないが、他にも食用化できているのがすごいと思うものがいくつかあるので、筆者のくだらない妄想と共に挙げてみたいと思う。あくまで筆者の勝手な思い込みであるので、真相を知りたい方は各自でそれぞれの歴史をひも解いていただきたい。
①納豆
言わずと知れた日本の朝ごはんの定番。最近ではいかにふわふわな粘り気を生み出すかに全力を注いでいる人もいるようである。
しかし、最初は誰も現在の納豆のような形にしようなどとは思わなかったであろう。豆を保存するために、たまたま藁の中に入れて束ね、しばし食べるのを忘れていたのかもしれない。ある日「そうだ、豆を食おう」と思った人が藁を開いてみてさぞ驚いたことだろう。糸が引いているのだ。普通だったらここで「腐らせちまったぃ」と食べるのをやめるところを、たまたま空腹に耐え切れなかった人が「ええぃ、ままよ」と勢いで食べてみたところ、体調を崩すどころか、むしろ何かちょっと調子が良い気がする、みたいな経緯があったのではないかと思うのである。
偉大な人である。
②タコ・イカ・ナマコ
見た目にもインパクトのある海の軟体動物たち。特に刺身は、素材そのものの味をダイレクトに感じられる和食の王道である。
しかし、このお三方も初めて食べてみようと思うにはいささか勇気がいる。このお方たちに人類を脅かす力があるとはさすがに思わないが、そもそも見た目がグニグニヌメヌメとした異様な体つきであり、まさか美味かろうと最初は思うまい。そこに切り込んだ偉人がいるのである。対タコに関して言えば、最初はおそらく何か水を溜めておけるような壺状のものを海底で見つけた人がいたのであろう。「おぉ、コレならば良い」と拾い上げてみたところ、中から8本足の生物が。「何奴ぅ!?」と思ってもそこは海底。逃げる以前に海面に顔を出さなければ自分が溺れて死んでしまう。海面に浮かびあがる間に相手も驚いて逃げだすだろうと壺を持ったまま陸に上がってみたところ、むしろ壺に張り付いてしまっている8本足のお方。つつけば墨のようなものまで吐く獰猛っぷりである。もしかしたら墨をかけられた人が激高して「はらわたまで食い尽くしてくれるわ!」と食べてみたところ美味だった、のかもしれない。
偉大な人である。
③きのこ
シイタケやシメジなどに代表される秋の味覚。どんな料理でも邪魔をしないのに、独特の歯ごたえとふわりと存在感を示す香りは、まさに絶品である。
しかし、きのこ類はご存知の通りなんでも食べられるわけではない。当然少し食べただけでも致命的な毒を持つキノコだって存在するであろう。現在のように科学的に成分を分析できる時代ではない昔の人たちにとっては、まさに食べてみるしかそのきのこが食べられるのかどうかを判断する手がかりはなかったはずである。もちろん別の動物が食べるのを見るのも一つの方法ではあるが、それはあくまで動物の話。人間が食べて問題ないかは試してみるしかないのである。ましてきのこ類は見た目が綺麗なものほど毒を持つ傾向があり、パイオニアたちはそこで命を落とす者もいたことであろう。一つ一つ、「これは向かいの家の爺さんが食べておかしくなったヤツだ」「これはあそこの兄さんが食べたけど今のところ平気そうだ」と経験を積み重ね、今に至るものと思われる。
偉大な人たちである。
④とうがらし、わさび
ピリッとした辛さがやみつきになる調味料。このエッセンスが加えられるかどうかでその料理の印象が一変してしまうぐらい、料理界には欠かせない存在である。
しかし、このような辛み成分が含まれた食物を好んで食べる動物は人間以外にいるのだろうか。どちらかというと辛み成分は、苦み、酸味と共に生物にとって危険信号であり、植物側の防衛手段のようにも思える。それが現在では、むしろスパイスという名称であらゆる料理に使われ、世界中に広まっているのだ。最初は食べた人のやせ我慢から始まったのかもしれない。「この味がわかるのが粋(いき)っスよ」というような具合である。最初は周囲の人も「変わった人がいるものだ」と思ったであろうが、「俺はお前より食べられるんだぜ」と対抗する負けず嫌いの猛者が続出し、やがてそれが本当に粋なものとして広く流行したのかもしれない。さらにスパイスを加えることで、少々傷んで味が変わってしまった食材が、辛さに誤魔化されて食べられてしまうという珍事も起こり、「なんかスパイスを入れれば魔法のようにまた食べられるようになっちまうんだよ」というやりきれないエコ意識にもつながった可能性がある。
結果的に偉大な人たちである。
⑤米
ここにラインナップされるにはやや場違いなのかもしれないが、今や日本国民の主食として不動の地位を築く、まさに日本の心。日本の食文化を語る上で米を否定する人は、よほどの悲しい事情があるとしか考えられない。
おそらく米の歴史は古かろうが、最初はその辺に生えた野生のものをちまちまと食べていたことだろう。それを一定の土地に撒くことで、安定して収穫できることが主食になる大きな要因になったのであろうが、米という食材自体は、肉や魚、果物なんかとは違って一粒一粒が小さく、さして食べごたえがない上に目立った味も無い、当時としてはあまり魅力的な食べ物ではない部類に入ったのではなかろうか。しかし、その調理法の進化や、別の食べ物との相性の良さ等によって、現在のように食べ飽きることのない日本の主食にまで完成されるに至ったわけである。
米への熱意を失わなかった人たちは大変に偉大である。
食べ物に限らず、他にもまだまだ注目すべきものは世界中にたくさん散らばっている。それらはどれも、無限の失敗の中から洗練された奇跡たちであろう。そのような苦難の道を乗り越えたからこそ、長く人々に愛される地位を確立できたのである。
現代を生きる若者たちは、というより自分に強くそのような傾向を感じるのであるが、失敗を過剰に恐れる傾向があるように思える。もちろん失敗するとわかっていて物事を進めるのは言語道断であるのだが、全力を尽くしても結果的に失敗することだってあるだろう。
それが、とても怖いことであり、悪い事のようにも思えるのである。
成功するのが当たり前で、失敗するのは準備やその手順が悪いからだ、と。
「失敗は成功の元」という言葉がある。おそらく結構昔から存在する言葉なのだろう。新しいものを生み出すことに全力を注いだかつての偉人たちは、失敗なくして成功などあり得ないと身をもって体験してきたのであろう。失敗することが当たり前で、何度も壁にぶつかって、それを乗り越える作業を果てしなく続けることで、今の便利な世の中がある。そのような、強い気持ちや魂みたいなものを、弱い人間なりに、磨いていきたいなぁと思うわけである。
いつそれができるようになるかはわからないけれど、全力を尽くして、それでも失敗に直面した時、振り返って「あの時はあれが最善だと判断したのだ」と胸を張って言えるように努力しよう。
そうすれば、苦しい失敗も少しは自分の糧になったのだと納得できるかもしれない。
少しずつ、できるところから。
(文・写真:リハビリテーション課)