コラム

コラム2015年01月「★連載小説★Medical Wars 第10話」

Medical Wars (福場将太・著)
*この小説はフィクションです。

■第10話「アーチャーズ・パラドックス」 (神経内科)

 新しい年が明けた。彼らのポリクリも残すところあと二ヶ月、そろそろ3月に行なわれる進級試験も意識しなくてはいけない。実習の日々と並行して各人試験勉強にも手を付け始めた頃合だ。おっとそうだ、その前にまず2月にはポリクリ発表会が待ち構えている。そちらの準備もお忘れなく!

 そんな中迎えた1月最終週、14班が回っているのは神経内科。精神科・神経科などと名称が似ているため混同している人も多いが、言うなればここは人間の体内を走る神経に関連した病気を扱う科。神経には大きく運動を司るものと知覚を司るものの二種類があり、手足を動かせるのは前者のおかげ、痛みを感じたり触った物の硬さや冷たさがわかるのは後者のおかげだ。また心拍数を調整したり画鋲を踏んだ時とっさに飛びのいたりと、神経は人間の意思が及ばない所でもたくさんの働きをしてくれている。よってそれらが病気になれば普段気付きもしない当たり前がそうでなくなり、生活に多くの支障が出てしまうのである。神経内科にはそんな当たり前を取り戻したい患者が集っている。

 月曜日、いつものように医局で実習のスケジュールを告げられる六人。この科の実習には二週間が割り当てられている。そして大きな特徴としては、学生は一人ずつ指導医につくということ。教授回診やクルズスを除き、班員たちはそれぞれ個人プレーで実習することとなる。昨年末念願の班飲み会も実現し一体感をさらに深めた彼らも、ここではバラバラ…毎朝恒例の学生ロビー集合もなしだ。
 もちろんもう自分だけでもできる、院内での立ち振る舞い方やレポートの書き方だって身についている。それでも彼らは単身で臨む実習の日々にどこか物寂しさを感じていた。自分だけで指定された場所に行き、自分だけで見学し、自分だけで許可をもらって帰宅する…ただそれだけのことがとても落ち着かないのだ。しかし本来はこれが当たり前。来月末には14班も解散…そうしたら誰もがまた六人から個人のリズムに戻らなくてはならない。
「はあ…」
 検査室前の廊下に立ち彼女は溜め息を吐く。壁に背中を預けて腕時計を見ると午後3時半…指定された時刻からすでに30分が過ぎている。これまでだってこんな待ちぼうけは何度もあった。しかし、一人だと何倍も長く感じる。狂ったリズムを元に戻すことに一番苦労しているのは実は彼女だった。
 四年間教室で常に最前列に座り、居眠りも無駄話も一切なし。同級生たちが賑やかにランチに出掛けていく中、自分は一人持参したお弁当。部活にも所属せず、放課後は自宅や図書室で自習。そんな日々の引き換えとして…いや、結果として手にしたのは四年間連続特待生という快挙。
「みんなは…今日は何してるのかな」
 ついそんな独り言がこぼれる。これまで特に孤独や退屈を感じていたわけではない。それでも14班で過ごす毎日は彼女にとって新鮮の連続だった。何気ないおしゃべり、六人で取り組む課題、カレーを食べながらあーだこーだと議論することの面白さは講義や自習の比ではなかった。
「あ、ごめんごめん」
 やがて廊下の向こうから指導医が姿を見せる。
「待たせちゃったね、秋月先生。じゃあさっそく筋電図検査を見学してもらうから」
「はい、よろしくお願いします」
 背筋を伸ばし礼をする。そう、どんなに仲間との日々が楽しくても彼女がそれに甘えて勉強や実習を怠ることはない。心の羅針盤はリズムを狂わされてもけして揺るがず、常に一点を指している。

 まりかファンのみなさんお待たせしました!今月はいよいよ我らが班長の物語です。

 水曜日午後4時半、外来で実習終了を告げられた彼女は神経内科の病棟に向かう。22階の一室、実はここに高校時代の後輩が入院している。そう、クリスマス・イブの夜にも会いに行った相手だ。これまでも機会を見て顔を出してはいたのだが、神経内科の実習が始まってからは毎日足を運んでいる。
 彼の名前は明石篤(あかし・あつし)。まりかが所属していたアーチェリー部の一年下。寒空が広がる大きな窓の個室、彼はベッドで上半身を起こして本を読んでいた。
「失礼しま〜す!」
 元気よく入室したまりかに彼も「いらっしゃい!」と威勢よく返す。
「これはこれは先輩、また僕に会いたくなったんですか?」
「ばーか、今日の実習終わったから顔見に来てあげたのよ。どう、調子?」
 そう言いながらベッド脇に歩み寄る。
「相変わらずつれないですね。まあ調子は特に変化なしです。今週の土日は外泊の予定ですし」
 まりかは「そうなんだ」と壁のカレンダーを一瞥する。
「よかったね。じゃあ体調管理をちゃんとしないと。あんたよく肝心な試合の前になると風邪引いてたから」
「それでも試合ではバッチリ決めちゃうんですよね〜僕って」
「そっちこそ天才気取りは相変わらずだね、アカシア」
 アカシア、というのは彼の高校時代からのニックネーム。明石篤を縮めてアカシア。
「僕みたいな優秀な後輩がいて、先輩は幸せですね」
「はいはい、勝手に言ってな」
 聡明な読者ならまりかの様子がいつもと違うことに気付かれたかもしれない。実はこれが以前の彼女、医学部では封印してきた自然体の彼女なのである。
 高校時代、彼女はもっと明るく社交的だった。けして派手ではなかったが、放課後は友人との買い物やカラオケを楽しんだり、大会を目指して部活に汗を流した。その真面目さを買われ、アーチェリー部では女史部員をまとめる副キャプテンにも任命されている。そんな彼女が医学部に進み勉強以外の物を遠ざけたきっかけには…実はこのアカシアが大きく関わっている。
 彼女はそこでふと彼が読んでいた雑誌を見る…『月刊アーチェリー』。
「あんたも弓が好きだね」
「ええ…やっぱり好きなものは好きみたいで」
 彼は少し寂しそうにそう言ったが、すぐに笑顔に戻り「それに、この天才が引退した後の動向を確認しておかないと」と雑誌を振った。まりかも合せて笑ったが…その胸中には複雑な思いが込み上げる。
 出会いは彼女が高校2年の春。部活見学の新入生の中でも一番弓に興味を示していた彼は即日入部を宣言した。初心者であった彼にアーチェリーのいろはを教えたのもまりか、彼女の指導の賜物か彼はすぐに才能を開花する。1年生の夏の大会でもさっそく好成績、冬休みも自主練習に励み三学期が終わる頃には部の主力選手に数えられていた。
「いやあ思い出しますよ、あのお正月の猛特訓。僕がやりたいって言ったら先輩も付き合ってくれて。一日で300本は射ちましたかね、さすがに指がしびれましたよ」
「一応あんたの指導係りだったからね」
 そしてまりかが副キャプテンとなった3年生、明石も2年生となり後輩を指導する立場となった。一緒に過ごす時間は減ったが、活躍する彼を遠目に見ながらまりかも誇らしかった。そして彼は夏の大会でも先輩を脅かすほどの成績を残し、当然のように次期キャプテンに推される運びとなった。そして正式な任命を目前に控えた秋…彼は発病したのだ。
 最初の症状は普段の部活に現れた。百発百中のはずの的さえ外すようになり、周囲から「天才にもスランプがあるのか」と笑われ彼もおどけていたが…実際は自分の身体に起こっている変化を確実に感じ取っていた。まずは近くの内科クリニックに受診、すぐに総合病院の神経内科に紹介されそこで病名を告げられた。彼を蝕んだのは、少しずつ身体の自由が奪われる進行性の難病であった。
「でも懐かしいですね、あの青春時代。ほら、あの合宿の時のこと憶えてます?」
 想い出を話すその笑顔に、まりかはどうしても悲しい陰を見てしまう。
 自分の病気を知ってからも彼の明るさは同じだった。病名も部活の仲間や友人には自分から公表し、リハビリに集中したいからと次期キャプテンは辞退した。相変わらずおどけたり甘えたり、そんな様子から多くの者がそれほど深刻な状況とは考えていなかった。そして誰にも相談せず彼は3年生から養護学校に転校する手続きをしていた。まりかがそのことを知ったのは彼が去ってもう一ヶ月が過ぎた頃である。
「合宿恒例のロケット花火が僕の方に飛んできちゃって、もうびっくりでした」
「あんたあの時私の後ろに隠れたでしょ。まったく、男のくせに情けない」
「だって怖かったんですよ〜、可愛い後輩を守るのも先輩の役目じゃないですか」
 こんな甘えん坊のキャラクターなのに、彼は養護学校への道を選んだ。多少日常に困難が生じても、周囲の助けを借りればあのまま普通高校を卒業することもできただろう。それだけの人徳もあった。しかし彼はそれを選ばなかった。その胸中はいかなるものだったのか…まりかは今でも考えてしまう。
 やがて養護学校を卒業した彼は、定期的に病院に通いながらリハビリと資格試験の勉強の日々を続けている。昨年秋からすずらん医大病院に入院したのは、最近少し症状の進行が速まってきたため検査と薬の調整を行なうのが目的である。
「でも僕、アーチェリー部に入って本当によかったですよ。メチャクチャ楽しかったです」
 病室の隅の車椅子が目に入り、まりかは彼の現状を思いながらも明るく返す。
「私はもうあんな面倒くさいスポーツごめんだけどね」
「またまた先輩…あんなに熱く教えてくれたじゃないですか。それに、僕って一度好きだと思っちゃうとその気持ちを変えられないんですよ」
「あ、そう」
 彼女は少し素っ気なく窓の方を向く。そんな様子を見て明石は微笑む。
 ちなみにこの二人、今も昔も恋愛関係はない。むしろその逆。彼が2年の時の夏の大会の後、彼女に想いを伝えた。「返事は急がないですけどよろしくでーす」といつものおどけた様子で笑った後輩男子。一方連日寝不足になるほど悩んじゃったのは先輩女子。自分の卒業後の進路にさえまだ迷っていた彼女、人生で初めての愛の告白はあまりに意外で突然だった。とりあえずつき合ってみようかな、なんてことはできない性格。一ヶ月間考えに考えた結果、彼女にとって彼は可愛い後輩以上の存在ではなかった。そのことを伝えた後、返されたのは「残念ですけどしょうがないですね。じゃあ今後もご指導よろしくです!」という明るい声。そして彼の病気が判明したのはその直後であった。
「まったく〜先輩は冷たいなあ」
「なんで私があんたに優しくしなくちゃいけないのよ」
 振り向いて口を尖らせるまりか。こんな仕草、教室ではもちろん14班の中でも見せたことはない。
「そのわりに、よく会いにきてくれますよね。クリスマス・イブの夜だって」
「あれは当直の実習で病院にいたから…暇潰しよ」
 そこで明石が「イブに淋しいですね」とからかい、まりかが「うるさい!」と怒る。
「ダメですよ、今更僕に振り向いても」
「誰が振り向くかっての」
 一緒に弓を射ていた頃からこんな感じが二人の距離。恋愛ではなくても、先輩・後輩としてここには確かな絆がある。
「ハハハ、きついなあ。先輩って大学じゃどんな感じなんですか?」
「別に…普通だよ」
 …毎年特待生は明らかに普通ではないぞ。
「そうですか?なんか髪型とかも昔より地味だし、コンタクトじゃなくてメガネだし。回診で教授と一緒に来た時も、すごく真面目な感じだったじゃないですか」
「そりゃあんた、実習中なんだから当たり前でしょ」
 高校時代、制服のスカートを短くしたり薄いメイクをしたり…そんな人並み程度のオシャレはしていた彼女。しかし医学部に入ってからはメガネに黒髪・ロングスカートで通している。
 彼女が告白を断ったすぐ後に彼は発病した。もちろん病気と告白には何の関係もない。負い目に感じることは何もないし、それは彼女にもわかっている。それでも理性的なまりかでさえつい考えてしまう…もし自分がOKしていたら彼の運命は違っていたのかもしれない、なんてことを。そんなとりとめのない疑問に答えを探すように、彼女は自らの進路に医学部を選択したのだった。部活やオシャレを封印したのも、友情や恋愛を遠ざけたのも…そんな気持ちの表れなのかもしれない。

 ゆっくりと日が暮れていく病室、二人は談笑を続けた。最近の出来事、興味を持ったニュース、仲間たちの近況…明石はおどけながら本当に楽しそうに話す。もし病魔が彼を選ばなければ、彼はアーチェリー部のキャプテンとして活躍し3年生の大会でも記録を残していただろう。大学に進んでもクラスやサークルのムードメーカーだったに違いない。
 しかしそう思っても、まりかはけしてそんなことは言わない。『もしも病気じゃなかったら』…病人にとって、そんな仮定は存在しないのだから。
「じゃ、私…そろそろ行くね」
 腕時計を見て彼女が言う。
「え〜淋しいなあ、可愛い後輩を置いて帰っちゃうんですか?」
「忙しい中会いにきてるんだから、感謝しなさい」
「はーい、光栄に思ってまーす」
「じゃあまたそのうち来てやるよ」
 そんなやりとりをしてまた笑い合う。そして彼女がベッド脇から離れようとした時、明石は少しだけ真面目な口調で言った。
「あの…秋月先輩?もしよかったらでいいんですけど」
 足を止め、「どうしたの?」と返す。
「今度の外泊中、一度食事でも行きませんか?」
 一瞬の沈黙。まりかが答えに窮したのは彼にもわかっただろう。
「う〜ん、考えといてあげるよ」
 そう冗談っぽく返すことでかろうじて沈黙を払うと、彼女はまた出口へと歩き出した。
「本当に…できたらでいいんで。じゃあ…え〜と、一応楽しみにしてまーす」
 そう気を遣って言う患者に「うん、じゃあまたね」と告げて部屋を出ていく医学生。その閉まったドアを見ながら、ベッドの上の青年は呟いた。
「僕は卑怯ですかね…まりかさん」

 翌日木曜日の昼休み、14班は申し合わせてキーヤンカレーに集合した。
「なんか、みんなでこうやって集まるの久しぶりだね」
 カレーをほおばりながら嬉しそうに美唄が言う。
「そうかな?たったの何日かぶりだよ、相変わらず大げさだな美唄ちゃんは」
 と、井沢。続いて長が「まあでも、たまには一人でポリクリってのも感じ変わって新鮮だよな」と水を飲む。
「確かに、一人でじっくり考えるのも意味がありますよね」
 同村がしみじみと言った。彼が指導医からレポート提出を求められた症例は、生まれつき痛みを感じることのできない少女。痛みがわからないということは、物を握る力加減も触ってはいけない危険信号もわからないということ。少女は何気ない日常動作の中で怪我や火傷をくり返している。
 それを思い出して少し暗くなる彼に、井沢が「一人で考えるんじゃなくて、美唄ちゃんと考えるんだろ?」とからかう。また赤くなって「実習中は一人だろ!」と返す主人公。その場に笑いが起こる。
「確かまりかちゃんは将来神経内科に興味あるって言ってたよね?実際に回ってみてどう?」
 笑いがおさまってから美唄が大きな瞳を班長に向けた。
「うん…勉強になってる」
「神経内科ってすごく難しいよね。どこが障害されるとどこに麻痺が出てとか…私なんか何回憶えても頭がこんがらがっちゃう」
 それに対して同村が「確かに遠藤さんは論理より直感って感じだもんな」とコメント。
「何よ、同村くんだって理系より文型じゃん。まあ確かに私は苦手だけどさ…それが得意なまりかちゃんはやっぱりすごい!」
「そんな得意とかじゃないよ。それに神経内科ってもちろん神経学も大事だけど、すごく患者さんの気持ちを考えてあげなくちゃいけない科だって気がするのよ。治らない病気も多い中で、それを抱えながら生き方を見つけるのって…すごく難しいと思う」
 まりかはそう答えて明石のことを思い出す。他の五人もそれぞれが関わっている患者のことを考えたのだろう…数秒会話が止まった。そこでまりかが明るく言う。
「それより同村くん、普段美唄ちゃんのこと何て呼んでるの?」
「え、何、急に…」
 戸惑う男に向島が「あ、それ僕も知りたい」と身を乗り出す。井沢も「白状しろ、同村!」と追い討ちをかける。慌てふためく同村を美唄はクスクスと笑いながら見ていた。
「だから、別に普通だよ。『遠藤さん』って呼んでるよ」
「うそつけー!」
 井沢がパンチの真似をする。
「本当だって。あ…そうそう、下の名前の漢字が読めなくて」
 同村の下手なギャグに長が「そんな馬鹿な!」とツッコミ。
「な〜んか、今の許せないな」
 口を尖らせてそっぽを向く美唄。もちろん怒ったふりなのだが…やっぱりこういう仕草は残念ながら女性だけの特権。さらに慌てて弁解する主人公、それを見てまたみんなが笑った。
 ちなみに、彼は本当に二人の時でも『遠藤さん』と呼んでます。

 全員の皿が空き食後のコーヒーが運ばれたところで、進級試験対策医院が切り出した。読者のみなさんはご記憶かな?昨年の3月末、14班が誕生したポリクリオリエンテーションの日に班長はまりか、副班長は長、卒業アルバム委員は美唄…といった具合で決まった各人の役割を。6年生になるために突破しなくてはいけない進級試験、その対策医院が…同村くんである。
「この前委員会があって、各班からクルズスの時のノートを集めることになりました。そこから情報をまとめて、試験資料としてみんなに配ります」
「進級試験…いよいよその時期か」
 と、井沢が頭を掻く。頷いて同村は説明を続けた。
「集めるノートはもちろんコピーで構いません。あと、過去問も先輩からもらってきて、試験資料として一緒に配る予定です。資料は印刷代だけ自己負担でお願いします」
 そして同村は整形外科・精神科など、14班がノートを提出する担当となった科を告げた。
「というわけでこの班からもノートを出すんだけど、誰のがいいかな?俺のを見返してみたんだけど、所々抜けてるみたいなんだ」
「俺は字が汚いからなあ…」
 と、長。続いて向島も「ごめん、僕はクルズス決行サボってたから」と謝る。それに美唄が「MJさんのはダメですよ、ノート音符だらけですもん」と笑った。
「やっぱり、まりかちゃんのノートじゃないかな?全出席でビッシリ書いてるもん」
 美唄の提案に井沢が「俺もそう思う」と同意。
「確かに秋月さんは字も綺麗だし…どうかな?」
 同村に問われて特待生は嫌がる素振りもなく「わかった、了解」と快諾した。
「でもちょっと待ってね。せっかくだからちゃんとまとめてから渡すから。そうね…明日の朝でいい?」
 そう言って彼女は店内のカレンダーを見た。そうだ、アカシアに昨日の返事をしなくちゃ…でもどうしよう。そんな気持ちが揺れる。
「ありがとう秋月さん。明日だなんて急がなくても、来週でも全然構わないから」
「大丈夫よ。じゃあその代わり…ってわけじゃないけど、今日ちょっとだけ美唄ちゃんに時間もらっていい?」
 同村に代わって美唄が嬉しそうに答える。
「もうまりかちゃん、時間なんてそんなのいくらでもあげるよ。別に同村くんの許可なんていらないって。放っておいていいから」
 また笑いが起こる。まりかは美唄に礼を言い、後で連絡することを伝えた。笑いの中で今度は長が言う。
「おい同村、そのコピーとか整理とかする作業、俺も手伝うよ」
「え、でも長さん…悪いですよ」
「俺、今のところ何の仕事もしてないし。ほら、班長が優秀だから副班長の出番がないのさ。だからせめてみんなの雑用手伝うよ」
 同村は少し考えてから、お願いしますと返した。まあ実際のところ長はその存在だけで十分に14班に貢献しているのだが。
「進級試験委員からは以上です」
「じゃあ、次は優秀な班長からです」
 彼女もたまにはこんな冗談を言う。美唄が「どうぞ、まりかちゃん!」と合いの手。
「これまでも言ってきたように、2月の第1・第3土曜日にはいよいよポリクリ発表会があります。第1土曜日っていうのはつまり明後日ね。まあでも14班の発表は第3の方だから、まだあと二週間準備期間があります」
 まりかは学務課から伝えられた内容を要領よく説明する。発表会には実際に発表する班はもちろん、その日はしない班も必ず参加。場所は教育棟のいつもの教室、ポリクリで回った各科の教授もその場にいる。一班ずつ正面に出て持ち時間20分で発表、教授や学生からの質疑応答も受ける。発表内容はどこかひとつの科に絞ってもよいし、一年間を通してのものでもよし。そしてこの発表の評価も成績に反映される…などなど。
「ああ、せっかくの土曜日が」
「井沢くん、わがまま言わないの!それに、みんなの前で発表なんて面白そうじゃん」
「僕、音響やろうか?効果音とかBGMとか…」
 盛り上がりを見せる音楽部コンビを長が「コラコラお二人さん、ライブではないぞよ」とたしなめた。
「まあそんなわけなので、そろそろテーマは決めておかないとね。みんな、考えてみましたか?」
 まりかにそう言われ一応各人がアイデアを挙げる。彼女は手際よくそれをメモした。しかしこの場では絞り込むとまではいかず、決めるのは明後日に実際発表会を見てからという結論となった。まりかが「私からは以上です」と話題を終える。
「じゃあ、卒業アルバム委員から!」
 そこで美唄が挙手。
「写真はどんどん貯まってます!今度六人で集合写真も撮りましょう。どれを卒業アルバムに載せるかもみんなで選ぼうね」
「美唄ちゃん撮りまくってるもんなあ。俺、アルバムより美唄ちゃんの撮った写真を全部欲しいくらい」
 と、長がコーヒーを飲み干して言う。
「いつでもあげますよ。あ、そうだ!」
 そこで手をポンと打つ。おいおい、今度は何を思いついたんだ?
「せっかくだから、この店でも撮ろうよ!ここは14班のホームグラウンドだもんね。店員さんに頼んでさ、今撮ろう!」
「い、今?」
 同村がそのノリノリ具合に焦りを見せるが、「そう、今!カメラもあるし」と彼女の中では完全に決定事項。
「どうしてカレー屋がホームグラウンドなんだ?」
 向島がそうツッコミを入れるが、彼女歯それも聞かず立ち上がる。そしてあっという間に店員さんにシャッターを頼んでいる。
「まあ、ちょうどお客さんも少ないし…いいんじゃない?」
 まりかが微笑む。アタフタする同村に、「お前も大変だな」と井沢が考え深く頷いた。そしておそらくは強引にカメラを渡された店員と美唄が戻ってくる。
「それではいいですか?みなさん、もっと寄り添って!」
 バンダナのあんちゃんはカメラを構えてムードを作ってくれる。…お手数かけます。美唄も「さあ、みんな笑って笑って!」と大はしゃぎ。ここは修学旅行の観光スポットか?
「遠藤さん…」
「ほら、同村くんも!いいの、思い出を残すのが悪いことなわけないじゃない!」
「はい、チーズ!」
 …パシャ!
 こうして、いろんな意味で貴重な一枚が出来上がったのでありました。

 同日夕方、それぞれの実習を終えたメディカルガールズは約束どおり病院近くの喫茶店で落ち合った。まりかが美唄に相談したかったこと…それはやはり明石に誘われた食事について。美唄は秘密は守ると約束し、いつになく真剣な友人の話を頷きながら聞いていた。まりかも少し恥ずかしそうに自分に好意を持ってくれた後輩のことを打ち明け、彼の現状についても説明した。
 …明石が自由に動ける時間はどんどん減っていく、それを考えれば今のうちに少しでも幸せな思い出を残す手伝いをしてあげたい。でもそれは逆に相手に対して無礼なことではないのか?もし彼が求めているものが恋愛感情であるならばなおさらだ。相手を普通の一人の人間として見るなら、気持ちには応えられないとはっきり伝えるべきなのかもしれない。でも障害のことを考えれば優しくしてあげたい気持ちもある。食事に行くのがよいのか行かないのがよいのか、どっちが彼のためなのか…どれだけ考えてもわからない。そんな気持ちを彼女は語った。
「医学部に入って勉強して、実際にポリクリで患者さんに接しても…未だにこんなことがわからないの、私」
 そう言って言葉を止めたまりかに、美唄はゆっくりと話し始めた。
「こんなこと、じゃないよ…まりかちゃん。とっても難しい問題だよ」
 言葉を捜しながら話す美唄。
「障害のことなんか気にせずに、なんて言ったって現実問題それは無視できないよね。好きになって、想いを伝えてデートしてっていう当たり前のことだって健康な人のようにはいかないし。優しくしないのが差別なのか、優しくするのが差別なのか私も時々自分でわからなくなるよ。逆に障害を持った立場から言えば、迷惑をかけないことが相手への優しさなのかなって思うこともあるし」
 それを聞いてまりかは「美唄ちゃん、私別に…」と顔を上げる。
「いいのよまりかちゃん、わかってる。私もアカシアくんと同じ進行性の病気だから相談してくれたわけじゃないよね。友達として頼ってくれたんだよね。でも…いいの。病気も含めて私だし、この目のおかげで気付けたことがいっぱいあるから…それが誰かの役に立つなら嬉しい」
 そこで美唄は紅茶を一口飲む。
「私もね…すっごくもどかしかったの。見えないわけじゃないけど見えるわけでもない、見えるわけじゃないけど見えないわけでもないっていうのをどうやったらわかってもらえるのかって」
「…うん」
「でもわかったの。もどかしいのは自分だけじゃない、そばにいてくれる人もそうなんだって。私がどんなふうに助けてもらえばいいかわからないのと同じで、周囲もどんなふうに助ければいいのかきっとわからなかったんだよね。だから…何が言いたいかっていうと、そのアカシアくんもきっと今悩んでるよってこと」
 美唄は微笑む。
「障害を持つ自分が好きな人を食事に誘った…すっごい勇気と後悔だったと思うな」
 まりかは彼女の洞察に心底驚く。その言葉は自分の心を、それを通じて会ったこともない後輩の心さえ優しく包み込んでみせる。まりかがフフッと笑ったので美唄が「え?」と返した。
「ごめん美唄ちゃん、いやあすごいなあと思って。同村くんが惚れるのがわかる」
「も〜何よそれ」
 照れる友人を見ながらまりかは思う。彼女が同村との交際を決断したのも、きっと様々な葛藤の果てのことだったんだろうなと。明石も…きっといくつもの葛藤を乗り越えながら生きてるんだろうなと。養護学校に進んだ時、彼は仲間たちに迷惑をかけたくなくてそうしたのかもしれない。あるいはアーチェリーの天才として活躍する姿のまま仲間たちの記憶に残りたかったのかもしれない。そんな彼と自分はこんな形で再会した。そして車椅子になって前よりもっと人の助けが必要となった彼が、食事に行こうと誘ってきたのだ…。
「ねえまりかちゃん、同村くんもよく言ってくれるのよ。自分にできることないかなって。でも…ないんだよね、正直言って」
 美唄はそこで窓の外を見て言った。
「ないんだけど…嬉しいの、とっても。そう思ってもらえるだけでさ。だから、アカシアくんもそうじゃないかな。まりかちゃんが一生懸命考えて出した答えなら…どっちでも嬉しいと思うよ」
「ありがとう…」
 心から友情と尊敬を込めてそう伝えた。
「もう水臭いなあ。こんなことしか言えないけど…」
「ううん、十分だよ。本当にありがとう。やっぱりすごい、美唄ちゃんって。もし自分が患者だったら私、絶対美唄ちゃんに診てもらいたい」
「あれ?それいつだったか私がまりかちゃんに言ったセリフじゃない?」
「バレたか、フフフ…」
「アハハハ…」
 女の友情、成立…してるでしょう!
 もうしばらく談笑してから二人は店を出る。そして別れ際、ガッツポーズを贈ってくれた親友にまりかもガッツポーズを返したのだった。

 その足でまりかは明石の病室を訪ねた。彼はまたベッドで本を読んでいたが、彼女の登場に嬉しそうな笑顔を見せた。いつもの感じでいくつか言葉を交わした後、まりかはさっそく本題を切り出す。
「それでアカシア、風邪は引いてない?外泊の方は大丈夫そう?」
「はい、元気ですよ。車椅子の練習もバッチリです」
「そう…」
  そこで彼女は元気な声で言った。
「じゃ、行こっか、おいしいもの食べに」

 翌日金曜日、午後4時。各自の実習を終えた同村と美唄は、学生ロビーのいつものソファでまりかから預かったノートを整理していた。まず近所の印刷屋で一通りコピーし、それを各科のクルズスごとに仕分けしていく。周囲は同じように実習を終えた白衣姿の同級生たちで賑わっている。話題はこの時期やはり3月の進級試験のことだ。どこがヤマだとか、どの先生がどんな問題を作ったらしいぞとか…まあ信憑性はともかくとして噂が飛び交っている。そんなざわめきに同村は少し辟易した表情を浮かべた。
 以前より彼は試験期間というものが好きではない。もちろん勉学は学生の本分、勉強するのは仕方ないとして彼が嫌っているのはそのムードである。試験が近付くと学生たちはピリピリし、学内の雰囲気もギスギスしてくる。特に昨年度末の4年進級試験の時は尋常ではなかった。毎年平均して十五人前後が留年になる試験、落ちればもう一年4年生をしなくてはならない。学費が余計にかかるのはもちろん、待っているのはこの先後輩たちと過ごす居心地の悪い孤独な日々。なんだそんなことぐらい…と思われるかもしれないが、ここは私立の医学部。いるのは挫折に免疫のない世間知らずたち。実際に留年をきっかけに大学を去ったり、命を投げ出したり…という事例も起こっている。その意味では毎年血で血を洗う受験戦争をしているようなものだ。
 勉強のストレスでイライラしている同級生たちを見る度に彼は空しくなる。留年が怖いのはわかる、医者になるために膨大な知識を頭に入れなければならないのもわかる。でもこの試験期間のストレスは、医学生から医者として大切な物を奪っているように同村には思えてならない。「俺の成績はあいつらより上だから大丈夫だ」「今年落ちるのは三人だから…あいつとあいつとあいつじゃないかな」「おい、今度の試験の答え、医局からこっそりコピーしてきた奴がいるんだってよ。絶対買い取ろうぜ」…そんな話を聞くと医学部とは一体何なのかわからなくなる。
「ほら同村くん、手が止まってるよ」
「あ、ごめん」
 美唄は楽しそうに作業をしている。彼女だって家で教科書とにらめっこしている時はイライラもする。それでもみんなの前ではそんな姿を見せたくない…それが遠藤美唄の信念である。
 ちなみにこの二人がいまや恋人関係にあることは、同級生たちも知っている。別に公式発表したわけではないがそんな情報はすぐに行き渡る…私立医学部とは井の中より狭い世界なのだ。まあ5年生にして同級生でカップル成立というのはかなり遅咲きだが…もともとはみ出し者の二人、くっつこうがどうだろうが大してセンセーションにはならない。そんなことより進級試験!…今はそんな時期である。
「まりかちゃんのノートって本当にすごいね。クルズス中にこんなに綺麗に書けるなんて」
「先生が大切だって言ったことは完全網羅だもんな。多分、クルズス中に速記して…家で清書してるんじゃないかな。ほら、読んでばっかいないで今度は君の手が止まってるぞ」
 感動している彼女に同村が言う。
「はーい、了解です」
「お邪魔かな、御両人」
 ふいに後ろから長が現れた。
「長さん、お疲れ様です」
「いや〜ごめんごめん、手伝うって言ったのに遅くなっちゃって。なかなか実習終わんなくて。…まだやることある?」
 そう言いながら腰を下ろす。
「ええ、今コピーを仕分けしてます。じゃあ長さんは外科系お願いできますか?」
「OK同村、任されよ。いやあすごい量だな」
 長もコピーの束を手に取る。
「本当にすごいですよね…秋月さん。ちゃんと今日の朝、俺に渡してくれたんですよ。一応他の班のと照らし合わせて試験資料を作るんですけど…もうこのまま秋月さんのノートだけでもいいかも。そのくらいの完成度です」
「まりかちゃん、時々自分でまとめのページとか作ってるし…本当にすごい!よーしじゃあ三人で一気にやっちゃいましょう、エイエイオー!」
 学生ロビーに響く声。冷たい視線も集まるが…いいんです、これが心を貧しくしないための彼女の試験対策なのですから。

 午後5時半、時々談笑で立ち止まりながらも作業は無事終了した。
「みなさん、ありがとうございました」
 進級試験対策委員がお礼を言う。「いやいや」と副班長が笑った。
「楽しかったよ。また写真も増えたし」
 美唄は作業中もパシャパシャ撮影していた。試験も近いのに何をはしゃいでるんだと苦々しげな同級生もいたが、まあこれもご愛嬌。日も完全に暮れ、いつしか学生ロビーは同村たち三人と他若干名が残るのみとなっていた。
「さて、では帰りますか」
 立ち上がる同村。「お二人はこれからデートかな?」とからかいながら長も腰を上げる。
「やだ、違いますよ。それに明日もポリクリ発表会で学校じゃないですか。ちゃんと帰りますよーだ!」
 と、美唄がピョンと飛び跳ねるように立ち上がった。
「ハハハ、こりゃ失敬。ん?同村、どうしたんだ?」
 見ると彼は立ち上がったはいいが、何かを探すように床をキョロキョロしている。
「…同村くん?」
「ここに置いておいた、秋月さんのノート、知らない?」
「えっ?それってコピーした元のノートのこと?」
 美唄の瞳に少し不安の色が浮かぶ。
「そうだよ。秋月さんに返さなくちゃいけないから、ここに紙袋に入れて置いておいたんだけど…」
 同村は座っていたソファのすぐ横、手を伸ばせば届く場所を示す。
「ないのか?」
 長もその辺りを確認した…が、ない。
「おかしいな、そんな馬鹿な!」
 同村は少しヒステリックになって机やソファを動かす。美唄がまだ残っている同級生たちに「ねえ、ここに置いてあった紙袋知らない?」と呼びかけた。しかし返ってきたのは「え、知らなーい」「そっち行ってねーし」と素っ気ない返事のみ。彼らはどうやら勉強しているようで、すぐまた教科書に視線を戻してしまった。
「見つからないの?同村くん」
「ああ…弱ったな、どうしよう。一体どういうことだ?誰かが間違って持っていっちゃったのかな?」
「そんな…」
 さらに不安を強める美唄。長は再びソファに腰を下ろし、腕を組んで何かを考えていたが…やがて低い声で「同村、ちょっと座れ」と言った。彼はそれに応じ、美唄も従う。
「これは恐らく…盗まれたな」
 長が他の同級生たちに聞こえないよう小声で告げた。「まさか」と、同村も小さく返す。
「それ以外ないだろう。勘違いして持って行ったんなら、すぐ返しに来るはずだし…。学生ロビーにはたくさん人がいて、さり気なく持って行けば誰も気が付かないよ」
 長はとても厳しい瞳で同村を見た。
「そんな…なんでそんなことを…」
 とても信じられない、というふうに美唄が言う。
「俺たちが話してるのを聞いてれば、あれが秋月さんのノートだってのはわかっただろう。特待生のノートだ、欲しい奴はいっぱいいる」
「でも、盗むなんて…」
 そう呟いた美唄を見て長が続ける。
「別に珍しい話じゃないよ…残念だけどね。この学年でも、今までも試験資料がなくなったり、特定の人にしか回らなかったり、試験日時変更の情報が隠されたこともあったかな」
「そんな…ふざけてる」
 憤る同村。
「同級生にそんなことをする奴がいるなんて…悲しいことだけどね。この大学の留年事情を考えれば有り得ないことじゃない。進級のためならそんなこともするさ」
 そう言って浪人生のボスは溜め息を吐いた。
「俺もソファの横の紙袋は確かに見た。それが一時間の間に勝手に消えるわけがない、…やられたよ」
「そんなの…」
 美唄は何か言いかけたがそこでやめる。状況を踏まえれば、長の推測以外考えられないではないか。同村は「くそっ」と吐き捨てがっくりと項垂れた。
「同村、落ち込むのはまだだ。冷静になれ、とにかく探そう。とりあえずこのコピーは大事に保管して、みんなで探そう!」
 腰を上げると、二人にロッカールームや教室を探すよう指示する。
「俺は近くの印刷屋とかコンビニを回ってみる。盗んだ奴がコピーしてるかもしれないからな」
「わかりました、お願いします」
 そう言うと同村は走り出す。美唄も後を追い、長は急いで駐車場のバイクに向かった。
 見つかってくれ…どうか、見つかってくれ。心の中で何度もそう祈りながら。

 午後6時過ぎ。三人は再び学生ロビーに集合した。残って勉強していたグループも帰ったヨウで、その場にはもう彼らしかいない。
 一縷の望みを託し思い当たる場所全てを探し回ったが…、まりかのノートが入った紙袋が見つかることはなかった。
「ごめん…私のせいだ」
 言葉を失くした二人に、美唄が震える声で言った。
「だってあの紙袋…私の座ってた位置から一番よく見えたもの。私の目が悪いから…視野が狭いから…」
「何言ってんだ!そんなの関係ない!俺の責任だ、俺がちゃんと持ってりゃよかったんだ」
 怒鳴る同村。美唄は俯いて黙る。長が「そうだよ、君は全然悪くない」と無理に明るく言った。
「悪いのは盗んだ奴だ。そいつが全部悪いんだ。だから同村、お前も自分を責めるな。お前は仕事をやってただけなんだから」
「でも…でも…畜生っ!」
 同村が叫んだ。その声は夜の学生ロビーに悲しく響く。
「くそ、何だよ、医学部って…何なんだよ、勉強って…」
 彼はそう言いながら床に座り込んだ。…泣いている?そう、泣いているのだ。
「そこまでして進級したいのかよ、それで医者になって満足なのかよ!」
「同村…」
 彼の純粋さを改めて痛感する。
「畜生、畜生、俺、情けないよ。そんな奴が同級生にいるなんて…情けないよ!ウ、ウウウ…」
「同村くん、もう、やめて…」
 美唄も涙声になっている。
「ほら同村、立てよ。彼女の前でみっともないぞ。…幸いコピーは無事なんだから、明日秋月さんにそれを返して三人で謝ろう。な、同村!そんな思い詰めんな!」
 同村をなだめ、二人をそのまま帰路に着かせる。彼らより人生経験が多い分、こんなことも少なからず味わってきた長。人間なんてそんなに綺麗なものじゃない…医学部だって同じだ。他人を蹴落としてでも進級したい、バレなければ不正をしてでも医者になりたい…そんな連中だってたくさんいる。わかっていたはずだった。
 14班の居心地のよさに忘れかけていたことを…この日はっきりと彼は思い出したのであった。

 翌日土曜日、午後1時から教育棟4階の教室でポリクリ発表会が行なわれた。現在正面に出て発表しているのは3班。スクリーンに画像や図表を映しながら、消化器外科で学んだ術式を紹介している。
 前列の席には各科の教授陣が並び、後ろには学生たち。基本的に座席は自由のため、同村は山田の隣に座っていた。
「俺、改めてがっかりしたよ…医学部に」
「まあしょうがねえべ」
 昨日の出来事を聞かされた山田は、白衣を腕まくりしてから言う。
「今までだってそんなことばっかだったしよ。カンニングなんて当たり前だし、情報隠したり嘘を教えたり…。そんなことやっても別にたいした成績じゃねえしよ、そういう連中は。そんなレベルの低い奴らなんて放っておけ、ドーソン」
「でも今こうやって座ってる教室に…盗んだ奴がいるんだぞ」
「考え過ぎるなって。今回のことはお前に一切責任ねえべ」
 山田はそう言ってすっかり元気をなくした親友を見る。
「でも…秋月さんのノートが」
「一晩中、学ロビで見張ってたんだろ?十分償ったべ」
 作や一度は美唄と帰路に着いた同村だったが、実は気になって一人また大学に戻ったのだ。もしかしたら良心の呵責に耐えかねた犯人がこっそり返しに来るかもしれないと…。朝までねばったが、結局誰も現れることはなかった。
「山さんはそういうの気にならないの?試験資料盗む奴がいても」
「別に気にならねえよ、勉強って結局自分でやるもんだしよ。自分でしっかりやって試験受けて落ちたんなら悔いねえべ」
 山田は言い切る。相変わらずの自信と歯切れのよさが同村には心地よかった。そういえばこれまでの試験でもそうだった。山田は自信を持って問題を解くと見直しもせず誰より早く試験会場を出ていく。逆に同村は終了時刻ギリギリまで座席に残り考え続ける。他の大多数の学生は出るか残るか、みんな周囲の動向に合わせて動く者ばかりだった。
「山さん…君はかっこいいな」
「何言ってんだ、気持ち悪いべ」
 山田は照れたように鼻を掻く。今日は実習ではないので髭も剃られていない。
「まあなんだな…みんな結局無難に行ければそれでいいって思ってるんだよ。この発表会だってそうだ、誰も発表なんか聞いてねえべ。みんな進級試験の勉強で問題集やってる」
 同村は周囲を見る。確かに多くの学生が下を向いて内職していた。
「発表してる連中だって俯いて原稿読んでるだけ。別に聞いてほしくもねえのさ。さっさと終わらせて、自分らも勉強したいんだろ」
「でも発表の後、質疑応答をしなくちゃいけないだろ?」
「そんなのあらかじめ仲のいい奴に頼んであんのよ。仕組まれた質問でなきゃ答えられねえからな。かといって質問が出なかったら評価が下がっちまうし」
 同村は溜め息。
「ハア…終わってんなあ。じゃあ俺とかが急に質問したらどうなるの?」
「もちろん後で総スカンだろうな。質問に答えられなかったら、それはそれで評価が下がるし…本当の質問なんて迷惑なだけだべ」
「ますます終わってんなあ…」
 そこで山田も溜め息。まあこれは成長のない親友への呆れだった。
「大学がやれって決めたからやってるだけなんだよ、みんな。逆らっても意味ない、卒業証書は大学がくれるんだから。お前もいい加減慣れろよ…っていうか割り切れ」
 教室には黙々と問題集を解く学生たち、そこには誰も望んでいない発表の声が舞う。
「教授たちは…これでいいって思ってるのかな」
「言ったろ、無難に終わればそれでいいんだって…みんな。じゃあ俺、寝るべ」
 そう言って山田は机に伏した。やがて質疑応答という名の下手な演劇が行なわれる。
「はい、ありがとうございました。では3班は下がってください。次は4班、お願いします」
 会の司会進行は学務課の喜多村。彼に促され次の班が正面に出た。そしてまた誰も聞いていない原稿を読み始める。同村はぼやくしかなかった。
「ああ…超不毛だなあ」

「え?秋月さん帰っちゃったの?」
 午後4時過ぎ、発表会の終わった教室で同村は美唄と話していた。
「うん、なんか洋服買いに行くからって急いで帰っちゃったの。私、隣に座ってたんだけど、昨日のこと言い出せなくて…」
「う〜ん、まいったな。ノートのこと謝らなくちゃいけないのに」
 まだ元気の出ない同村に、美唄は謝るのは月曜日にしようと提案した。
「せっかくの土日に嫌な気持ちにさせても悪いでしょ。私たちもずっと悩んでてもよくないしさ、図書室で自習してから晩ご飯でも行こうよ」
 美唄はいつもの明るさで彼の腕を引っ張る。同村も気を取り直し、「よし、そうするか」と自らに喝を入れる。
「じゃあごはんはどこに行こうか」
「決まってるじゃない、元気の秘訣、キーヤンカレーよ」
「…やっぱりそうなのね、遠藤さん」

 そして翌日日曜日、午後3時半。北新宿中央公園は穏やかな日差しに包まれていた。区民の憩いの空間となっている広い敷地、その中心には名のある芸術家がデザインしたという巨大噴水がある。春にはピクニックで賑わう野原がそれを囲み、さらに野原の外周は整備された散歩道となっている。
 その上をゆっくり歩きながら、まりかは明石の車椅子を押していた。2月初頭の風はまだ冷たく、彼女も大きな水色のマフラーを巻いている。少し遅めのランチを共にし、二人はその足でここにやって来たのだ。かれこれもう一時間近くグルグルと園内を回っている。
「アカシア、寒くない?」
 今日の彼女はメガネではなくコンタクト、メイクも服装もいつもより少しオシャレだ。
「僕は大丈夫です。先輩こそ大丈夫ですか?」
 明石は穏やかな表情で幸せそうに言う。
「大丈夫よ、あんたとやったお正月の特訓に比べたらこんなのヘッチャラ」
「…ですよね、フフフ」
 空気は冷たいが二人には暖かな時が流れている。天気にも恵まれ、すれ違う散歩者やその愛犬にも声をかけながらゆっくりゆっくり公園を回る。思い出を辿りながら、未来を思いながら、彼らの時間は螺旋を描くように優しく流れていく。
「もうじき夕方だね。風邪引くといけないからそろそろ帰ろうか」
 そう言ったまりかに、彼は「そう…ですね」と少し残念そうな声を返した。
「じゃあ、もう一周だけいいですか?もう一周だけ」
「可愛い後輩の頼みだ、叶えてあげましょう」
「やったー!」
 車椅子を押している彼女からは明石の表情は見えない。でもそれが逆に話しやすくもあった。
「じゃあ最後の一周、初デートをしっかり噛み締めます!」
「思い上がるなっての、デートじゃないよ」
 まりかがいつもの調子でそう答えると、後輩は一瞬の沈黙を置いて「じゃあ、何ですか?」と返した。甘えた口調ではなく、それは厳しい声だった。
「デートじゃないなら…介護、ですか?」
 そう呟いた明石の後頭部を見ながらまりかは固まる…が、すぐにポンとそれを叩いて笑顔を作った。
「バーカ、何言ってんの。たまには後輩とご飯でも食べようってただそれだけのことでしょ。仲間と会うのにいちいちややこしいこと考えてないって」
 そこで明石も振り返り、いつもの調子に戻って「あ〜、先輩が可愛い後輩をぶったあ」とおどけた。…せつないね、お互い。

「先輩、あそこの木…ニセアカシアですよ」
 改めて散歩道を半周したところで、明石が丘の上の一本の木を指差した。日も傾き、木々に囲まれたやや闇の濃い一角に二人はさしかかる。
「へえあれがそうなんだ。私、木とか全然わからないから。ニセアカシアか…じゃあ、あんたのニセモノだね」
「ハハハ、そうですね。やっつけないと」
 車椅子を押すのを止め、彼女は「ここから何メートルくらいかな?」と問う。
「う〜ん、ざっと55メートルってとこじゃないですか」
「あんたならアーチェリーで仕留められるね」
 思わずそう言ってまりかははっとする。
「…ごめん」
「やだなあ先輩、そんなの気にしないでくださいよ」
 彼の声は明るかったが、実際にどんな顔をしているのかまりかには見えない。
「まったく…先輩は相変わらず肝心なことがわかってないですよ。そりゃあ、僕はもうアーチェリーはできないし一緒に歩けないですけど…」
 不思議なほど落ち着いた声で彼は続ける。
「先輩の声は聞こえるし、先輩の顔も見えます。こうして一緒に出かけることだって…まだなんとかできてます」
 そこで振り返って彼は言った。
「僕が幸せを感じるのには…それで十分なんですよ?」
 そこには屈託のない笑顔があった。それが強さなのか弱さなのかわからなかったが、彼女は心からこの後輩を愛しく思った。そう、それが恋愛ではなくても。
「アカシア…」
 まりかが言葉をかけるよりも先に彼は前に向き直り、腕だけで弓で的を射る真似をしてみせた。見えない矢はあのニセアカシアの木を狙っている。
「僕ね…あの頃、まっすぐ前ばかり見てました。部活で活躍して、大学でも色々なことに挑戦して、やりがいのある仕事に就いて…そんなふうに一直線に未来に飛んでいけると思ってました」
 そこで彼は弦を離すジェスチャーをした。
「でも…矢は予想外の方向に飛びました。まさにアーチャーズパラドックス、まだまだ修行が足りません」
 それは的の中心に矢を向けて放つとそこには当たらない、矢は予期せぬ力の影響で思わぬ方向に飛んでしまうことを表すアーチェリーの専門用語。
「でも先輩、大丈夫です。ご存知の通りの天才ですから、パラドックスも利用してちゃんと未来を射抜いて見せます」
 そう笑った彼の両肩に手を置き、まりかも力強く言う。
「うん…あんたならできるよ。何しろ私の自慢の弟子なんだから」
「はーい、了解でーす」
 そこで二人合わせて笑う。
 …色々考えたけど今日やっぱり一緒に出かけてよかったな、とまりかは思う。自分にできるのはほんの小さな優しさをかけてあげることだけ、でもそれがほんの僅かな彼の希望になるのなら…。
 穏やかに過ぎた一日。あとはこのまま帰路に着くだけ…しかしここでも希望の矢はアーチャーズパラドックスに見舞われてしまう。二人の幸福の時は、突然終わりを迎えた。

「なあお二人さん…見せ付けてくれるやんけ」
 突然木の陰から現れたのは、派手なシャツにパンチパーマのいかにも柄の悪そうな男だった。片手に酒ビンを持ち、不安定な足取りと焦点の合わない目で近付いてくる。
「さっきからグルグルグルグルと何周もイチャつきやがって!おいにーちゃん、ずっと女に椅子を押してもらってええ身分やのう!」
 …最低の人間だった。酔いのせいか呂律もはっきりしない。まりかは車椅子を引いて数歩後ろに下がる。その手が震えていることは明石にも伝わった。
「おうにーちゃん、金貸してくれや。持っとんやろう?それともそのねーちゃんでもええわ。そんな可愛いカッコして、男を誘ってるんやろ!そんな歩けん男より、俺が相手しちゃるわ」
 人間のクズは突然襲いかかってくる。彼女は車椅子を押して逃げようとするが、焦りもあってなかなかうまく進まない。
「先輩、僕はいいから逃げてください!」
 明石が叫んだ。まりかは「そんなわけにいかないわ!」と必死に車椅子を押そうとする。それを見かねたように明石は彼女の手を振り払った。
「何するの!」
「いいから、逃げて!」
「できるわけないでしょ!私はあんたの…」
 彼はまりかの言葉を遮り、「お願いします!」とさらに強く叫ぶ。
「今は関係ないです、先輩とか後輩とか」
 彼女の瞳を見つめながら彼は懇願した。男はすぐ後ろまで迫っている。
「僕があなたを守ります。だから逃げてください、お願いします、お願いします!」
 男の手がまりかに届く寸前、明石は車椅子を飛び出した。そして次の瞬間、静かな公園に響いたのは彼女の悲痛な絶叫であった。

 午後7時、日曜だというのに同村は大学にいた。学生ロビーの隅で自習しながら、誰かがまりかのノートを返しに来るのを待っていたのだ。時々ロッカールームなども見回ってみた。山田には割り切れと言われたがどうしてもあきらめ切れない…医学生の良心を。医学部の体制に疑問や嫌悪を抱きながらも、もしかしたら誰よりも医学部を信じていたいのかもしれない。しかしそんな彼の願いは届かず、結果は同じだった。
 勉強も一区切りつき、同村は深い溜め息とともに腕時計を見る。
「もう…こんな時間か」
 独り言の癖は相変わらずだ。「もう無理かな。明日、秋月さんに謝らなきゃ」と腰を上げたところ…彼はひとつの可能性を思いつく。
「そうだ、もしかしたら学務課に…」
 教育棟やその周辺の落とし物・忘れ物は学務課に集められる。つまりあの紙袋を誰かが拾って届けているかもしれないのだ。
 残された望みを信じ、彼は隣の建物にある学務課を目指した。足早にそのドアの前に立ったが、ノックする寸前にふと気付く。今日は日曜日…大学が休みなので学務課も当然休み。
「ハア…何やってんだ、俺」
 脱力してその場を離れようとしたその時、室内から怒鳴り声が聞こえた。
「まったく、大変なことをしてくれましたね!」
 それは鼻息を荒くした喜多村だった。同村は反射的に中の様子に聞き耳を立てる。
「…本当にすいませんでした」
 謝罪する女性の声には聞き覚えがあった。この声は…。
「秋月さん…?」
 小声でそう呟き、ドアに耳を当てる。
「今、院長と学生部長が家族に謝罪に行ってます。まったく…特待生の君がどうしてこんなことを」
 同村は一瞬、ノート盗難事件のことかと考えた。しかしそんなはずはない。まだまりかに伝えていないし、そもそも彼女は被害者だ。じゃあ一体、どういうことだ…?
「日曜だってのに、私も呼ばれて今大学は大騒ぎです。わかってますか?事の重大さが」
 普段の様子からは想像もつかない喜多村の怒号。彼女は謝罪の言葉をくり返すのみ。
「幸い患者はたいした怪我じゃないそうだけど…君を庇って酔っ払いに殴られた?医学生の君が、こともあろうに実習中の科の患者を連れ出して危ない目に遭わせたんですよ!これが病院にとってどういうことかわかっていますか?」
 その声は同村のいる廊下にまで響いている。あまりのことに主人公はただその場に立ちつくすしかなかった。
「学生の質が落ちたと言われる中、君は四年間ずっと一番の成績でした。だから先生法も私たちも期待していたんですよ。それなのに…結局君も同じか。自覚に欠けているというか、考えが甘いというか」
 詳しいことは何もわからないが、同村は喜多村の言い草に苛立ちを感じる。仲間に対してあんまりの侮辱だ。しかしここで自分が飛び込めば、それこそ彼女を追い詰めることにもなりかねない。
「とにかく、明日からの神経内科の実習は当然中止!その後のポリクリについても処分が決まるまで自宅謹慎すること。…処分は決まり次第連絡します」
「…わかりました」
 まりかの素直な返事。
 …おいおい、これはまずいんじゃないか?同村の背筋に冷たいものが走る。
「君は14班の班長だったね。今後事務連絡は副班長に行ないますから」
 喜多村はそこまで言い切ると、少し冷静な声になって続けた。
「まあ大丈夫…退学にまではならないと学生部長もおっしゃっていました。でも、今回の進級はあきらめてもらうことになると思います。それは覚悟しておいてください」
 同村の心臓が大きく脈打った。ドアの向こうのまりかはただ申し訳なさそうに「はい」と答えている。

 …特待生留年。
 こうして、ポリクリも残すところあとわずかというところで14班に…いや、5年生全体に激震が走ったのである。

2月、14班の最終決戦に続く!果たして彼らの運命は?

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