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コラム2024年09月「魔法の言葉」
いつからだろう。テレビのコメンテーターでも、仕事の話し合いの場でも、発言の際に「個人的には」と言い添える人が増えた気がする。そもそも個人の見解を話しているのだから個人的なのは当たり前なのだが、何故あえてそのことを言うのだろう。「個人的には」という言葉にはどのような意味があるのだろうか。
例えば地動説が迷信とされた時代の中で「それでも地球は回っている」と主張したガリレオのように、大多数の見解がどうであっても自分の意見はこうなんだという勇気の言葉だろうか。
正直そんな感じはしない。勇気よりもむしろ弱気、「あくまで個人的な意見ですので違うかもしれません、気にしないでください」という逃げ口上のニュアンスが強いように思う。「個人的には」と言ってしまうことで、せっかくの意見が勢いを失い、聞いている側もまともに取り合うべきなのか戸惑ってしまう。
慎みを重視する日本の文化においては、確かに激しい自己主張は好まれない。特に今は一言発すれば激しいバッシングを受けかねない時代、責任を持って意見を言うことに逃げ腰になるのもわかる。「個人的には」の呪文はメールにおける「(笑)」と同様、雰囲気を和らげたり、身を守ったりする効果があるのだろう。
しかしながら、しっかり意見を闘わせてこそ見えてくることもたくさんある。「個人的には」とお茶を濁すことで、発言なのか独り言なのか曖昧にし過ぎると、せっかくの議論の畑を不毛の地にしてしまうのである。
ただしこの呪文、けっして日和見と保身だけの言葉ではない。誰かに対する応援で「個人的には」の言い添えが輝く時もたくさんある。立場上大っぴらには肩を持てない相手に「個人的には君の味方だから」とそっと伝えたり、健康を害するリスクを負ってでも夢を叶えようとしている患者さんに「医者としては反対だけど個人的にはあなたを支持するよ」と励ましたり、そんな場面ではこの言葉はとても優しくあたたかいのだ。毒にも薬にもなるというのは、まさにこのことだろう。
クリニック開院以来、毎月書いているこのコラム。確かに医者としての責任や法人の職員という立場を多少負ってはいるものの、ここで綴っているのは全て自分の意見である。賛否両論はあって当然。共感でも反感でも、読んでくださった方がそれぞれの探し物を見つけるヒントになってくれたら嬉しい。
(文:福場将太)