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コラム
2019年7月「財前の選択、最善の選択」
1.不朽の名作
今年テレビでまた『白い巨塔』がドラマ化された。『忠臣蔵』や『犬神家の一族』のようにもはや定期的にリメイクするのが恒例となっているが、ストーリーを知っていても惹きつけられてしまう魅力をこの作品は持っている。今回の新作も楽しませてもらった。 何度もドラマ化されてきた中できっと世代によってどの版が印象に残っている科は異なるだろう。僕の父親のように一番最初に製作された白黒映画版が焼き付いている人もいれば、今回の新作が初体験という人もいるだろう。 僕が一番熱中したのは2003年から2004年にかけて放映されたいわゆる平成版。ちょうど医学部で病院実習していたタイミングでしかもうちの大学が製作協力していたこともあって、同級生たちと毎週テレビにかぶりついていた。当然録画して当時少なく見積もっても二十回は見返したと思う。ドラマの真似をして、あえて教授と一緒にエレベーターには乗らずに階段を駆け上がって勝手に巨塔気分を味わったりしていた。
2.財前の過失
今回の新作を見て改めて感じた。平成版とそれ以外の版には決定的な違いがある。それは裁判における判決理由だ。主人公の財前は優秀な腕を持つ外科医だが独断的な癌手術により一人の患者を死なせてしまう。そして遺族より訴えられ、一度は勝訴する物の最終的には敗れる。 平成版以外においては、敗訴の理由は明らかな誤診や医療過誤であった。今回の新作でも行なうべき検査を財前が怠ったことを糾弾された。しかし平成版においては、確かに勧められた検査をしなかったのは事実だが、通常想定し難い可能性のために検査をするよりも早期に手術に踏み切った方が癌の根治を望めるとする医学的妥当性も示されたのだ。 ではどうして財前は敗訴したのか。裁判長は言う、「治療行為そのものは平均的水準を上回るものであり誤りとは言えない。しかし全ての治療行為がリスクを伴うものである以上、患者にはその説明と同意が必要不可欠となる」と。つまり財前は確かに最善と呼べる治療方針を選択したが、その選択を患者本人や家族を含めずに医師のみで行なってしまったことが過失とされたのだ。
これは衝撃だった。財前も判決に対して「患者を救おうとしたんだ、何が悪い?」と反論していたがその怒りもわかる。平成版の財前は自分の技術に自信を持ち、専門用語を並べて患者に不安を与えるよりも大丈夫だから任せなさいと安心させて治療するスタンスをとっていた。これはけして医者としておかしな姿ではなく、むしろ一昔前なら当たり前の頼もしい姿だったように思う。財前のライバルとして描かれる里見は「大丈夫と断言するなんて医者の傲慢だ」と忠告するが、財前は「治せないかもしれないなんて言ってる医者に命を預ける患者がいるか?」と返す。これも一理ある言葉で、だから平成版の財前はそれ以外の版とは印象が異なる。野心家で高利主義で割り切る男ではあったけれどけして悪ではなかった。だから最期の瞬間も彼は他の版のように後悔や懺悔ではなく、「僕は間違っていたのか?わからない」という迷いの中にあったのだ。
インフォームド・コンセントという言葉が知れ渡ってもう随分経つ。医者には説明の義務があり患者には知る権利と選ぶ権利がある。治療は患者の同意を得た上で行なわなければならない、主人公は医者ではなく患者だということだ。平成版の財前は自分が主人公の医療をしてしまったことが過失だったのである。まさに時代を反映した判決であり、原作小説を見事にアレンジした脚本と言えるだろう。
3.主人公
改めて自分の胸に手を当てて考えてみる。治療の主人公は患者、精神科医療もそれは例外ではないが僕はちゃんとそんな治療をしているだろうか?あえて言うが、自分自身への戒めも含めてまだまだ日本の心の医療はそうはなっていないと思う。患者が弱い立場に置かれ続けたという長い歴史の影響は色濃く残っていて、自分が主人公だと勘違いしている医療者も多く、また自ら主人公になることを放棄してしまう患者も少なくない。 そして難しいのは、精神科では病気のせいで患者の判断力が大きく低下してしまい主体性を持とうにも無理な時があることだ。その場合は治療を受ける・受けないの判断を医者と保護者が代行できる法律がある。もちろんこれは患者の生命を守るためにやむを得ない制度なのではあるが、こうなってくるとますます本人が治療の主人公という意志気が医者にも患者にも薄れてしまう。 また不安や迷いが強い患者では選択肢を提案し過ぎると逆に混乱を呼んでしまうこともある。それこそ財前のように大丈夫だから任せなさいとある程度医者が道筋を決めた方が回復に繋がる場合もあるのである。
何が最善なのか、これは本当に難しい。特に精神科医療においては、治療方針の選択は患者の生き方の選択に密接に関わってくる。その選択の重みについて僕はいつも考える…生き方を選ぶのに必要な判断力とはいかほどのものだろうかと。 物事を判断する時、人は知識・経験、時には直感を頼りにする。しかし知識や経験なんて人によってバラバラだ。安易にどちらが上でどちらが下なんて決められない。 タバコを吸わない人は喫煙をめぐる論争においては判断力不足だろうか。独身の裁判員は結婚を巡る事件において判断力不足だろうか。候補者を見た直感で投票する人は政治学を学んで投票する人より判断力不足だろうか。目が見えなくなった人、歩けなくなった人…彼らは健康な人よりも判断力に乏しいのだろうか? そんなことはない。誰にでも長所と短所があるように、得手不得手があるように、充足と不足があるように、人間はみんな異なる。病気や障害があったとしても、それが判断力不足とする理由にはならない。にもかかわらず、精神科の患者は安易に「判断力がない」とされてしまいやすい現状がある。確かに病状が重たい場合、冷静に考える力は低下しているかもしれない。しかし生き方を選ぶ力まで失っていると果たして言えるだろうか。
4.医療のプロでも人生のアマチュア
確かに医師は医療の専門家だ。最善の治療法を提案するのが職務である。しかし生き方の専門家ではない。むしろ世間知らずで一般常識に疎く金銭感覚もずれていることだって往々にしてある。医者が患者の生き方にまで口を出すなんてのはおこがましくておごりもはなはだしい。最善の治療が最善の人生とも限らない。患者のため患者のためと言いながら患者の人生を変更させて、それで患者が不満を抱き医者だけが満足していたら何のこっちゃなのである。
やっぱり患者本人に選んでもらうしかない。責任放棄しているわけではなく、だからこそ医者は患者と話し合うことを惜しんではならないということだ。患者が主人公になれるように、自分で治療方針と生き方を決められるように、できるだけのサポートをしたい。そのため患者にもぜひお願いしたい、話し合うこと、一緒に考えることからは逃げないでと。「わかりません」「どっちでもいいです」なんて言わないで、わからなくても決めなくてはいけないこともある。他の誰でもなくこれはあなたの人生の話なんだから。
5.最後に
自分で生き方を選ぶことこそ人間の誇り。僕はそう信じている。
(文:福場将太 写真:カヤコレ)