コラム

2019年4月「好きと嫌いと差別と平等」

好きと嫌いと差別と平等

 人はみな平等であるべきという考え方は正しいと思う。大切なのは「みんなが同じ」という見かけ上の平等ではなく、個人差はおおいにあってこその本質的な平等だ。
 病気や障害、特殊な境遇、そういったマイノリティというものは差別や偏見の原因になりやすい。だからそのことはなるべく口にせず閉じこもって人目を忍ぶ…となってしまう当事者も少なくない。
 だが一方で近年は様々なマイノリティの当事者が声を上げ、権利や理解を求める活動を行なうようになってきた。障害を隠さずむしろ目立つ場所に出る人も増えてきた。昨年目の不自由なお笑い芸人がそのことを盛り込んだネタで注目されたが、精神科の当事者の中にも講演の舞台に立ち自分の体験を面白おかしく語る人たちが登場している。
 そういった活動が生きがいになり、障害を受け入れて明るく生きていけるのであればとてもよいことだと思う。まだまだ偏見は多いとはいえ、時代は着実に変わってきているのである。

 閉じこもるのではなく目立つ場所に出ていく、自分の苦労や弱点を公開する…立派だと思う。ただ当事者の方みんながその生き方をしなくてはいけないのかというとそうではないとも思う。苦しみをユーモアをもって語れることは大きな回復であるが、誰もがそんなエンターテイナーを目指さなくてはいけないわけではない。それを聞く人たちも、話を好む人もいれば好まない人もいるのが当然だ。好き嫌いはあって当たり前、差別や偏見を払拭することとそれは別問題である。

 例えばこういうこと。今やアニメはジャパニメーションと呼ばれるほどの一大産業となりアニメファンも自ら「アニオタです」「腐女子です」なんて宣言できるくらいに市民権を得たが、かつてはアニメファンに対してネガティブなイメージがあった。引きこもりや犯罪者の予備軍のように扱われた時代があった。これは差別であり偏見であるから払拭しなくてはいけない。
 しかし、だからといってアニメやアニメファンを好きにならなくてはいけないという話ではない。好き嫌いは自由。差別や偏見を持たずともやっぱり生理的に好きになれないのならそれはそれでよいのである。

 例えばこういうこと。かつては視覚を失った者は按摩師しか選べる職業がなかった。医者も当たり前のようにその生き方を患者に進めていた。しかし実際には様々な業界で活躍している視覚障害者はたくさんおり、按摩師しかやれないというのは差別であり偏見であるから払拭しなくてはいけない。
 しかし、だからといって按摩師をやってはいけないという話ではないのだ。按摩師が好きならどんどんやればよいのである。

 つまり人前に立って話すのが好きな人はどんどんそうすればいいし、したくない人はしなければいい。しないのはよくない、間違ってるなんて言ってしまったら行き過ぎだ。そしてもちろん障害者だからといって善人とは限らないし、当事者だからといって嫌ってはいけないという話でもない。それは逆差別である。本質的に同じ人間であるという感覚さえ持っていれば、好むも嫌うも心は自由である。

 差別・偏見の話と好き・嫌いの話を混同してはいけない。感情も理性と同じくらい大切な人間の心だ。どんなにいい人だと説得されても愛せないものは愛せない。どんなにそれが幸福だと説得されてもしたくないものはしたくない。精神科医としては明るく苦労を語れることを回復として喜ぶが、個人としては一切語らず孤独をまとっている人が魅力的に見えてしまうこともある。不公平かもしれない。でも好き・嫌いとは理屈を超えたところにある不公平な感情であり、だからこそ価値があるのだ。

 差別や偏見を払拭するということは、プラスにもマイナスにも特別扱いをせず当たり前の見方をしてもらうということ。当たり前に好かれたり嫌われたり、当たり前に褒められたり怒られたり、当たり前に評価されたり批判されたりすることだ。
 好き嫌いという不公平な感情をちゃんと許されること、平等とはそういうことだと僕は思う。

(文:福場将太 写真:カヤコレ)

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