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コラム
2018年3月「普通な人」
普通って何だろう。当たり前って何だろう。
どこにも基底なんかないのに、この世の中には『普通』がかなりの影響力を持ってのさばっている。「こんなの普通でしょ」「普通そうだろ」なんて言われて自分がそうじゃなかった時、人は大きな不安を感じてしまう。「普通になりたい」「普通が一番だよ」なんて言葉もよく聞く。でも普通って何ですか?当たり前って何ですか?
おそらく大多数と同じであること、平均値に入っていることを人は『普通』と呼ぶ。でもみんなそんなに普通だろうか。「みなさんご存じの」なんて言われても知らないことは多々ある。「視聴率50パーセント」だって国民の半分は見ていない。ミリオンヒットのレコードだって持っているのは130人に1人くらいだ。
職場や仲間内でも、「普通なのは誰?」なんて話題になるとたいてい答えに窮する。「あいつは癖があるし、こいつはキャラが濃いし」なんて考えた挙句、ようやく「強いて言うならあの人が普通かな」と答えが出る程度だ。おいおい、そこらじゅうにたくさんいるのが普通のはずなのに、普通な人が希少ならちっとも普通じゃないではないか。むしろ「うちは個性派だらけだからね」なんて言ってる方が多い気がする。
一体どうなってんだ?『普通な人』はこんなに市民権を得ているのにどうしてどこにも姿が見えない?
もしかしたら普通な人なんてどこにもいないのかもしれない。普通に感じるのはただ単に相手をよく知らないからそう思うだけで、よくよく知れば誰もが普通じゃないのかもしれない。職場や仲間内に普通な人がいないのはそれだけ相手を見て聞いて知っているから、ただそれだけのことなのかもしれない。
確かに、この世界で自分だけが誰とも違う異質な存在なのだと感じることはある。神様に間違って造られたんじゃないかと思うことがある。でもこの世界のことをどれだけ知っている?誰もがどうこうと言えるほど誰のこともきっとわかっちゃいない。
だからまずはお互いを知ろう。語り合おう。触れ合おう。それをせずして相手や自分が普通だとかそうじゃないとか決め付けるのは傲慢だ。わかり合うことはできなくても知り合うことはできる。そうすればきっと『普通な人』の正体が判明するんじゃないかな。
確かお釈迦様の伝記にもあった。「死んだ我が子を生き返らせてください」と懇願してきたある母親に、お釈迦様は「誰も死者が出ていないお家を見つけてその庭のケシの実を持ってきなさい。そうすれば叶えましょう」と答えた。母親は町じゅうを訪ね歩いたが、どこにも不幸のない家庭などなかった。それを知ることで母親は誰もが普通じゃないこと、あるいは自分も普通であったことがわかったというお話だ。
平成29年度は語り合いをたくさん経験した一年だった。美唄すずらんクリニックでの色々なミーティングプログラム、江別すずらん病院での依存症勉強会、そしてなかまの杜クリニックでの支援者ミーティング。一つの机を囲んで言葉を交わすことの大切さを身に染みて感じた。
優れているということは劣っているということであり、持っていないということは持っているということ。手に入れることは手放すことであり、失うことは得ることでもある。誰かのコンプレックスが誰かにとっては憧れであり、誰かの問題が誰かにとっては答えである。誰かが一生追いかけても掴めないものを誰かは当たり前のように持っていて、誰かが血眼で闘っている勝負事が誰かにとってはどうでもいい。
そして悩みのない人なんていない。無傷な心なんて一つもない。そう、人間とはそういうものなのだ。
来年度も色々な人と机を囲んでみたい。色々な価値観や喜びや苦しみを知りたい。ぶつかり合う時もあるけれど、お互いが持ち寄ったパズルピースが不思議にはまり合う、そんな素敵な瞬間をもっともっと味わってみたいと思う。
そしてそれとは逆に、誰とも話したくない自分、黒い羊だと思い込んでいる自分が出てきた時には、それはそれで大切にしてやりたいと思う。
会ったこともない無責任な『普通な人』なんかに決められてたまるか。自分の頭で考えたことで、自分で見聞きし知ったことで、そして自分が出会った大切な人たちが教えてくれたことで、私は判断していきたい。
(文:福場将太 写真:カヤコレ)