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コラム
2018年2月「表現の不自由」
このコラムがそうであるように、インターネットによってその気になれば誰でも自分の意見を世間に発表することができる時代だ。それゆえ著名人の言動に対して、あるいはテレビ番組などの表現活動に対して、多くの感想や評価が寄せられる。その内容はもちろん感謝や賞賛だけではなく、批判だったり苦情だったり、時には訂正や謝罪を求めるものまである。特に最近は表現に対する賛否や是非が問われた事例を多く耳にしたように思う。今月はそんなことを考えてみようか。
表現活動を行なう際にそれを受け取る人の気持ちを配慮する、これは当然のことだ。誰かを傷付けるとわかっている表現をあえて行なうのは罪深い。しかし一方でこうも思う、誰一人傷付けない表現などあるのだろうかと。
ドキュメンタリー番組、バラエティ番組、テレビドラマ、映画、園芸、文芸、音楽、写真、絵画、そして新聞報道や雑誌記事と表現の形は色々ある。それらの中で、生死・病苦・貧困・戦争・性別・事件・災害といったテーマはどうしても扱われやすい。笑いを目的としたものであれ感動を目的としたものであれ、こういったテーマは人間の本質に触れ入り心を揺さぶる力を持っている。そして同時に誰かを傷付けうる要素も多く含んでいる。
だからこれらを扱う際は表現者は最大限の勉強をしできる限りの配慮をすべきであろう。ただ現実として世界中の文化や価値観、事情を勉強することは難しい。全人類の心を配慮することはできない。例えば私たちにとっては当たり前でむしろ幸福を呼ぶための習慣が別の文化圏では禁忌のおぞましい行為かもしれない。実際に事件に巻き込まれた人はサスペンスやミステリーは見るのがつらいかもしれない。アルコールやスイーツを制限している人にとってはそれらを特集した番組はストレスかもしれない。メガネを失くしておろおろする姿で笑わせるコントは視覚障害者にとっては不謹慎かもしれない。悲劇を描いたドキュメンタリーは実際に渦中にいる人にとってはそんなもんじゃないと思うかもしれない。
表現者がどんなに配慮してみても傷付く人はいる。傷付きましたと言われたら、そんなはずはないと否定することはできないのである。
果たして傷付ける側の問題なのか、傷付く側の問題なのか。結局これは人数で決まってしまう。多くの人が傷付き不快を感じたのならその表現は不適切。逆にごく少数の人だけが不快を感じたのならそれは勝手に傷付いた側が悪いとされてしまう。じゃあ100人中99人に喜びを与え1人の人を傷付ける表現だったらどうだろう。99人の喜びを優先すべきという考えにも、1人を傷付けない方を優先すべきという考えにも、同じく説得力を感じる。
難しい問題だ。本当に誰一人傷付けないためにはもう何も表現しないようにするしかない。でもそれでよいだろうか?批判されることを恐れて当たり障りない表現しかしなくなった社会、毒にも薬にもならない表現ばかりが飛び交う社会がはたして繁栄していくだろうか。私たちの仕事でもそうだ。医師が保身にばかり気を取られ本当の気持ちやリスク覚悟の治療を提案できなくなったら、きっと医療は萎縮しやがて衰退してしまうだろう。
表現の自由、これは日本人に許された大いなる特権だ。そのせいで傷付くこともあるがそのおかげで救われている面も多い。インターネットの普及により表現活動が簡易になった分、無責任な発言も増えてしまったのは残念だが、それでも言いたいことが言えない社会にはなってほしくないと思う。
もちろん名も名乗らない無責任な輩にまで表現の自由を許す必要はないし、表現者は悪戯に人を傷付けない努力をしなくてはならない。でも表現すると決めたことは中途半端なオブラートに包まないで堂々と伝えてほしい。そしてそれを受け取る側も表現者の意図を汲み取る努力、無闇に傷付かない努力をしっかりした上で、それでも不適切と思うのなら声を上げればいい。どちらも真剣で軽はずみでなければ、きっと議論は泥沼にはならず、むしろこれからのより良い表現活動に繋げていけるだろう。
私も書いていきたい。伝えていきたい。それが誰かを傷付けた時にはちゃんとその責任から逃げない覚悟で表現活動を続けたい。
ペンは剣よりも強し、そして人の噂も七十五日。
(文:福場将太 写真:カヤコレ)