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コラム
2012年09月★スペシャルコラム『刑事カイカン 支持的受容的完全犯罪(3)』
※このコラムノベルはフィクションです。
■飯森唄美の視点 その3
火曜日、正午過ぎ。クリニックで午前中最後の患者の診療が終わった。私はカルテを書き終えると椅子から立ち上がり大きく伸びをする。すると軽いノックの後田原が診察室に入ってきた。
「先生お疲れ様でした、午前はこれで終わりです」
「お疲れ様です。じゃあお昼休みに入っていいですよ」
私はカルテを手渡しながらそう答える。すると田原は少し声を小さくして言った。
「あの、昨日もいらっしゃった刑事さんがまた先生に会いに来てるんですが・・・」
・・・カイカンか。確かにまた話をしにきていいかと言っていたが・・・さっそくだな。
「そうですか。じゃあ、入ってもらっていいですよ」
私は内心の不安を悟られないように答える。原田は「わかりました」と言い診察室を出て行く。私がもう一度椅子に座るとすぐにカイカンが入ってきた。
「いやあ、すいません唄美先生。お疲れのところ申し訳ありませんが、どうしても確認したいことがありまして」
カイカンの風貌は昨夜と変わらずまたあのハットとコート。私は「構いませんよ、どうぞ」と笑顔で答え椅子を促す。
「すいません、失礼します」
カイカンはそう言って座ると私の顔を見る。長い前髪のせいではっきりとはわからないがまた少し微笑んでいるようだ。
「貴重なお昼休みにすいません、どうしても先生のご意見をお伺いしたくて」
「・・・ええ、いいですよ。それで、どのようなことでしょうか?」
また少し自分の脈が速くなるのがわかる。・・・大丈夫、落ち着け。
「昨日お話したドライヤーとUSBメモリーの謎・・・憶えていらっしゃいますか?」
カイカンはそう切り出した。もちろん忘れるわけがない・・・私が見落としたこの犯罪計画のほころびなのだから。しかし私は思い出すような口ぶりで答える。
「ええ、憶えています。確か・・・ドライヤーはコンセントに挿しこまれていたのにコードのプラグ部分に佐藤さんの指紋が着いてなかったんですよね?あと、USBメモリーが何故か壊れていた、と」
「・・・その通りです。その謎に私なりに答を出してみたのです」
カイカンはそこでまた右手の人差し指を立てる。私が「はい」とだけ返すとカイカンは続けた。
「突拍子もない考えかもしれませんが・・・。佐藤さんの溺死、これを事故や病気によるものだと考えるとどうしてもこの謎の答は出ないんです。しかし・・・これを事件だと考えると・・・解釈は可能です」
「事件・・・」
脈がさらに速くなる。落ち着け、今はとにかく聞くしかない。
「はい、つまり殺人事件です。もしこれがバスルームでの溺死を偽装した殺人だとすると犯人のとった行動はこうなります。
佐藤さんの部屋を訪れた犯人はスタンガンを使って相手を気絶させる。そして、服を脱がして浴槽に運び・・・お湯を張って溺死させる」
カイカンは前髪に隠れていない片眼で私を見ながら話す。私は何も言えない。私は今どんな顔をしているのだろう?
「つまり先生、USBメモリーはスタンガンの電流で壊れたんですよ・・・スーツの胸ポケットに入っていましたからね。そしてドライヤーはおそらく犯人が使ったのでしょう、自分の濡れた服か髪を乾かすために。犯人は当然手袋をしていたでしょうから・・・だから、指紋が残らなかったんです」
・・・何てことだ。カイカンは全てを見抜いている。あの日私がとった行動を、まるで見ていたかのように言ってのけた。
私は再び全身に染み渡っていく緊張を感じながら答えた。
「そうですね、確かに・・・理屈は通りますね」
カイカンはそこでまた少し微笑んで言う。
「これが私の答です。どうですか、先生?」
「そうですね、ええと・・・」
一体何を質問しているのだろうか。私が戸惑っているのを察したのかカイカンは続けた。
「私が先生にお伺いしたいのは・・・今お話したような犯罪が成立するのかどうかということです。・・・どう思われますか?お医者さんとして教えて頂ければ助かります」
・・・そういうことか。少し緊張が和らぐ。しかし完全にほぐれたわけでもない。昨日も感じたことだが・・・会ったばかりの私にこんな話をするのはやはり不自然ではないか?
「そうですね・・・」
私は慎重に口を開く。そう、客観的な意見を言えばいいんだ。
「おそらく・・・可能だとは思います。ただ、体力はもちろんですがかなりの精神力が必要でしょうね」
「と言いますと?」
「犯罪心理学は専門ではありませんが・・・もし刑事さんのおっしゃる通りだとしますと、この計画にはいくつかの段階がありますよね。部屋を訪ねる時、スタンガンを当てる時、お湯を張る時、そしてお湯がいっぱいになる時・・・このどこかで引き返すことが出来ればこの犯罪は達成されない」
自分で言っていて妙な感じだ。少なくとも私の殺意はあの時立ち止まらなかったのだから。
「さすが精神科の先生らしいご意見ですね。ナルホド、精神力ですか・・・」
カイカンはそう言って感心したふうにうなずく。まだ人差し指は立てたままだ。私はここであえて尋ねて見た。
「あの、刑事さんはどう思われてるんですか?」
「私・・・ですか。確かに精神力も体力も必要な犯罪だと思います。それに・・・手間も。気絶させて服を脱がせて浴槽に運んで、お湯がたまるまで待つなんて・・・手間も時間もかかり過ぎる」
私は「確かに」とだけ相槌を打つ。
「こういう言い方をするのは不謹慎ですが・・・もっと効率的でリスクの少ない方法はいくらでもあるような気がします。これはけして短絡的な犯罪ではありません、これほどの計画を立てた犯人だけに、何故こんな方法を選択したのか・・・先生はどう思われますか?」
再び質問されて私は言葉に窮する。答えられない・・・答えられるわけがない。
「すいません・・・私にはわかりません」
私は頭を下げた。カイカンはそこで人差し指を立てるのをやめ、穏やかな声で言った。
「こちらこそすいません先生、無茶な質問ばかりしてしまって。
謎に対して答を出したらまた新たな謎が生まれる・・・答が間違っているのかもしれませんし、新しい謎にもまた答が出せるのかもしれません。もう一度自分で考えて見ます」
「お役に立てなくて・・・」
「そんなそんな、こうやってお話してもらえるだけで助かってます」
今度はそう言ってカイカンが頭を下げる。
・・・わからない、この刑事だけは。いったいどこに本心があるのだろうか?
※
一瞬の間をおいて、カイカンが頭を上げて言った。
「ところで先生は佐藤さんとは親しかったのですか?」
突然の質問に落ち着きかけていた脈がまた速くなる。やはりこの刑事、油断してはいけない。私は慎重に答える。
「そうですね・・・特に親しいということはありませんよ。仕事上MRさんとはたくさんお会いしますが、誰とも個人的な付き合いはしていませんので」
これは本当のこと。調べられても嘘はない。しかし、私の返答にカイカンは不思議そうな顔をする。
「そうですか・・・だとしたら、やっぱり不思議だなあ」
カイカンは独り言のように呟く。・・・何だ?
「あの、刑事さん・・・?」
「すいません先生、また考え過ぎかもしれませんがちょっと引っ掛かってしまって」
カイカンはそこで座り直してから言葉を続けた。
「先生は確か昨日おっしゃいましたよね、仕事柄警察に会ったことは今までにもあると」
「ええ、その通りですが・・・」
「それはどのような場合ですか?」
「ええと、まあ大抵は通院されている患者さんについての問い合わせですね。患者さんに関わることで、捜査に必要な情報や意見を求められたりしました」
話が見えてこない。何が引っ掛かるというのか。
「そうですか・・・。実は昨日ここに伺った時、先生を待っている間に受付の百木さんに先週の予約表を見せてもらっていたんです。あ、これはお話しましたね。
その予約表を見てたら、先週金曜日に『佐藤次郎』という患者さんが受診されていました。もちろん亡くなった佐藤さんとは何の関係もありません、『佐藤』というのはよくある苗字ですからね」
カイカンは何を言おうとしているのか。私は黙って聞く。
「先生、憶えてますか?昨日初めてお会いした時、私は最初に『金曜日にここに来た佐藤さんのことをお伺いしたい』と言ったんです。そうしたら先生はMRの佐藤さんの話をされました」
気がつけばカイカンの顔から微笑みは消えている。先ほどあんなに穏やかに感じた声が今は厳しく響いている。
「先ほど先生がおっしゃったように警察がお医者さんに問い合わせるのは大抵患者さんのことです。それなのにどうして先生は『佐藤さん』と聞いて患者ではなくMRの方を思い浮かべたのでしょう・・・特別親しかったわけでもないのに」
・・・私は昨日の段階で失敗していたのか!しかも最初の最初で・・・!カイカンはそれに気付いていたのに今までそのことに触れずにきたというのか?
落ち着け、落ち着くんだ。そう簡単に心を揺さぶられる私ではないはずだ。私は心の中で深呼吸し、少し切り口を変えて答える。
「刑事さんってやっぱりすごいですね・・・正直びっくりしました。まさか最初の会話で引っ掛かりを感じていらっしゃったなんて」
カイカンは黙っている。私は続けた。
「もしかしたら精神科医と刑事さんの仕事は少し似ているのかもしれませんね。相手の言葉を聞きながら、そこにある傾向や矛盾を見つけ出しその裏にある心理を読んでいく・・・。まあ、悪い癖ですが」
カイカンはそこで「同感です」とだけ言った。しかしその片眼は私の返答を待っている。私は高鳴る鼓動を悟られないように出来るだけ明るく答えた。
「ですが、先ほどの刑事さんの質問には・・・たまたまとお答えするしかありませんね。確かに不自然かもしれませんが、どうしてあの時患者の佐藤さんを思い浮かべなかったのか・・・私にもわかりません。
フフフ、指紋が着かないのには論理的な理由が必要でしょうけど・・・心が思い付かないのには理屈じゃ説明できない場合もあります。これじゃ答えになりませんか?」
少し苦しい説明だ。しかし・・・これくらいしか言えない。私が犯人だから、警察に対してつい自分が手にかけたMRの佐藤を考えてしまったなんて言えるはずがない。
診察室には一瞬の沈黙が流れる。
「そうですね・・・たまたまですね」
カイカンは少しだけ穏やかな口調に戻ってそう言った。私はもう一度「すいません」と伝えたがカイカンはそれには反応せずまた厳しい口調で次の質問をした。
「ところで先生は先週の土曜日、ムナカタグランドホテルの講演会に行かれたんですよね?」
「はい、第2部だけですが」
私がそう答えるとカイカンは間髪居れずに言葉を続ける。落ち着け、落ち着くんだ!
「第2部は確か午後6時から9時まででしたね。実は佐藤さんの死亡推定時刻は7時から8時までとわかりました・・・ちょうど第2部の最中です」
カイカンはそこで一呼吸おき、さらに厳しい声で言った。
「先生は講演会の間・・・ずっと会場にいらっしゃいましたか?」
・・・これは今までで一番核心を突いた質問だ。私を疑っていなければするはずのない質問だ。予想はしていたが・・・はっきり言われると想像以上にダメージが大きい。
脈がさらに速く、そして強くなる。膨らんだ不安がまるでポンプのように全身に緊張を行き渡らせる。
・・・私は逮捕されるのかもしれない・・・初めてその恐怖に机の下で足が震えた。
「刑事さん・・・私を疑っていらっしゃるんですか?」
「申し訳ありません。ですが、どんな小さな可能性も疑わなくてはいけないのが私の仕事なんです。・・・お答え頂けますか?」
真剣な眼差し・・・私はそれから視線を逸らさずゆっくりと答えた。
「わかりました。私は・・・ずっと2階の会場で講演を聴いていました・・・間違いありません」
「講演は1時間ずつ3つあったとお聞きしましたが、3つとも内容を憶えていますか?」
「はい。1つ目は記憶障害、2つ目は睡眠障害、3つ目は気分障害の講演だったと思います。詳しい内容もお話した方がいいですか?」
実際には聴いていなかった2つ目の講演ももちろんボイスレコーダーで確認済みだ。大丈夫、こんな時のためにアリバイを作っておいたんじゃないか!
「いえ、そこまでは」
カイカンは急に微笑んで穏やかにそう言った。もっと糾弾されるかと思って身構えていた分、やや表紙抜けだったが私も合わせて微笑んでみせる。
「刑事さん・・・私のアリバイは成立ですか?」
私が冗談めかしてそう言うと、カイカンも笑って答える。
「はい、バッチリです。本当は目撃者もいれば完璧なんですが・・・まあ会場には300人くらいのお医者さんがいたわけですし、講演の最中は会場も暗かったわけですからね。この際目撃者はよしとしましょう」
「ありがとうございます」
私がそう返すとカイカンはゆっくり立ち上がって言った。
「先生、不愉快な思いをさせてしまいすいません。先生がずっと講演会の会場にいらっしゃったのなら犯人であるはずがありません」
やや含みのある言い方ではあるが、私は「いえいえ」と答ながら立ち上がる。
「刑事さん、少しびっくりしましたけど・・・プロの仕事というものを拝見させて頂きましたよ」
「そう言って頂けると救われます。さすが先生ですね。あの・・・またお話に来てもいいですか?」
正直もう来てほしくないが・・・そうもいかない。
「ええ、構いませんよ。ただ、診察時間を避けていただければ」
「わかりました。先生、ちなみに明日もここで勤務ですか?」
「いえ、水曜日は別の病院で非常勤をやってるんです。そのまま当直もしますので」
カイカンはそこで「それはお疲れ様です」と言いながらコートから手帳を取り出した。
「忘れないように書いておきますね。え〜と、あれ?」
どうやらペンが見つからないらしい。そこで私はふと思い出す。
「刑事さん、ちょっとお待ち下さい」
私は机の横のバッグを探る。確かここに・・・あった!そう、あの日の講演会でもらったボールペン。
「これをどうぞ」
私はまだ箱に入ったままのそれをカイカンに手渡した。カイカンは嬉しそうな顔で「いいんですか」と返す。
「もちろんです。これはあの講演会の受付でもらったものです。これで証拠になりますか?」
私がまた冗談めかして言うとカイカンは箱から取り出したボールペンで手帳に書き込みながら答える。
「まいったなあ・・・もう勘弁してくださいよ」
先ほど私を追い詰めていた時とは別人のようにお茶目な言動。・・・何だかなあ。
「ええと先生、水曜日は他の病院ですね。では、木曜日は・・・」
「午前中は往診に出ている時間もありますが、午後にはまたここで診療してます」
カイカンが書き込むのに合わせながら私は続ける。
「金曜日は一日中ここで診療してます。そして・・・」
「診察後にMRさんと面談、ですよね?」
カイカンはまた少し含みを持たせてそう言う。私はあまり反応しないように「ええ」とだけ答える。
一通り書き終えるとカイカンは手帳とペンをコートにしまった。そして明るい口調で「先生、貴重なお昼休みにありがとうございました」と言うとそのまま診察室を出て行った。
・・・カイカンは私のことをどう考えているのだろう?事故ではなく事件だと見抜いたあの刑事は、私をどこまで疑っているのだろう?
時刻は午後0時40分・・・脈と震えはようやく落ち着いてきたが、緊張と疲労でとても昼食はお腹に入りそうもない。
■ムーンの視点 その3
火曜日、午後2時。警部と私はメロディアス製薬東京支社を訪れていた。私達は2階の応接室に通され、ソファで永島が来るのを待っていた。
大きな窓からは控えめな秋の陽光が差し込み、この8畳ほどの部屋にとっては照明はそれで十分だった。室内にはいくつかの観葉植物が置かれ、また棚の上にはヴァイオリンやコントラバスといったオーケストラの楽器のミニチュアが並べてある。
「ねえムーン、監視カメラに写っていた謎の男性の身元はわかった?」
しばらくとなりで沈黙していた警部が突然そう言った。
「いえ・・・わかりません。当日12階に宿泊していた客には全員問い合わせましたが、誰も知らないんです」
「そう・・・」
警部はまた黙ってしまう。
そういえば、警部が午前中に訪ねたあの女医はどうだったのだろう?そう、アカシアメンタルクリニックの飯森唄美院長。先ほど警部からドライヤーの指紋とUSBメモリーのことからこれは殺人事件だという推理を聞かされた。警部の推理力はいつもながらすごいが、仮にこれが本当に事件だとして犯人はその飯森医師なのだろうか。
確かに彼女はあの日あのホテルにいた。しかし、講演会には300人もの医者が集まっていたわけだし、それ以外にもホテルには不特定多数の人間が居たわけだ。警部が彼女に目を付けているのなら、何か理由があるはずだ。
「あの・・・」
私がそのことを警部に質問しようとした時、正面のドアがノックされた。そして、スーツに身を包んだ永島が姿を見せる。その手には3人分の飲み物を乗せたトレイを持っていた。
「お待たせしてすいません、刑事さん」
永島はそう言いながら警部と私にコーヒーを振舞う。そして最後に自分のカップを持つと対面のソファに腰を下ろした。
「こちらこそお忙しいのにすいません」
と、警部。
「いえいえ、佐藤のためですから・・・協力出来る事があったら何でも言って下さい」
先日と違い、永島の口調は快活だった。数日が経過し、ようやく友人の死を受け入れてきているのだろう。まあそれと警部の風貌にも慣れた、というのもあるかもしれない。
「あの、永島さん・・・」
警部がコーヒーに口をつけながら言う。
「MRというのは・・・どんな人が就く仕事なんですか?向き・不向きがありそうなお仕事だと思うのですが」
永島もコーヒーを飲んでから答える。
「そうですね、確かにたくさんのドクターに会ってお薬の営業をするわけですから・・・ストレスの多い仕事だと思います。でも、製薬会社に入職した人間のほとんどは最初MRをやらされます。そのままずっとやる人間もいれば、いずれ経営とかの部署に写る人間もいます」
「ナルホド」
警部は興味深そうにうなずく。永島は続けた。
「私も佐藤も入社以来ずっとMRです。最初の頃はなかなかドクターとうまく会話が出来なくて・・・よく先輩に怒られましたよ。度胸をつける訓練だとか言われて路上で歌を歌わされたり、女性をナンパさせられたり・・・」
「大変ですね」
警部は微笑んでそう言う。確かに・・・営業なんて仕事、私にはきっと無理だろうな。
「しかもMRは営業成績がしっかり出てしまいますから・・・その意味でもストレスが多いです」
永島はそう言ってカップを口から話す。すると警部はカップを机に置き、コートからいつもの物を取り出して口にくわえた。
「あの、すいません。車内は禁煙なんです」
永島が少し慌てて止める。しかし警部がくわえているのはタバコではない。
「すいません、これ、おしゃぶり昆布なんです。どうもこれはやめられなくて・・・」
「あ、そうですか。どうも」
と、戸惑う永島・・・そりゃそうだ。しかし、その原因の非常識人間は気にせず会話を続けた。
「やっぱり製薬会社さんってのは禁煙なんですね」
「ええ、この仕事はイメージが命ですから。社員も禁煙を指導されていますし、たとえ喫煙者であってもMRはドクターの前では絶対タバコを吸いません。病院でお会いする時はもちろん、お食事会の席でも吸いません。MRの基本マナーです」
「ナルホド」
「私も入社してからタバコはやめました」
永島はそう言って微笑む。警部はおしゃぶり昆布をくわえたまま質問する。
「ちなみに佐藤さんは、タバコは・・・」
「あいつは・・・もともと吸っていなかったと思います」
「ナルホド」
警部はそこで昆布を飲み込むと、少し座り直してから言った。
「ところで永島さん・・・先日佐藤さんのお話を伺った時、あなたはこうおっしゃいました・・・『できるMRは1日に数十人のドクターに会う』と。
佐藤さんと比較して『できるMR』とおっしゃられたということは、佐藤さんは・・・あまり成績が良くなかったのですか?」
・・・その質問に永島はすぐには答えなかった。彼は微笑みを消すと視線を膝の上に持っているカップに落とし、答えるかどうか迷っているようだった。
しばしの沈黙が流れる。そこで私は「秘密は厳守します」と言った。永島は一瞬私に視線を向けた後、カップを机に置いてからゆっくり話し始めた。
「佐藤は・・・確かにここのところ成績不良でした。MRとしてのマナーや言葉遣いとかはちゃんとしてるんですけど・・・どうも時々強引なところがあるみたいで。それで、一部のドクターからは出入り禁止を喰らってました。それに・・・」
警部も私も黙って次の言葉を待つ。永島は声を小さくして続けた。
「それに・・・会社の交際費を使い込んでるって噂もあって・・・。もしそうだとしたら相当追い詰められていたと思います。実は講演会の後一緒に飲みに行こうと誘ったのも・・・そのことで相談にのろうと思ったからなんです。
ですから、浴槽であいつを発見した時・・・一瞬自殺じゃないかと思いました」
「・・・そうでしたか」
警部は優しく言う。そしてまたしばしの沈黙が訪れる。
・・・営業成績不良に会社の金の使い込み・・・。これらの情報は確かに事故でも事件でもなく自殺を連想させる。しかし・・・薬物の反応も出なかったし、あの状況でさすがに自殺は有り得ない。
「刑事さん、佐藤はどうしてあんなことになったんですか?」
そう沈黙を破ったのは永島だった。警部は答える。
「まだ・・・はっきりとはわかりません。でも・・・必ず解明してみせます」
「よろしくお願いします」
永島はそこで頭を下げた。
※
午後2時半過ぎ、3人のコーヒーもなくなった頃に警部が切り出した。
「いやあすいません、すっかりのんびりしてしまって、そろそろ失礼します」
「いえいえ、いつでもまた来て下さい」
警部が立ち上がるのに合わせて永島もソファを立つ。私もそれに続く。
「あ、永島さん、最後にもう1つだけ質問させて下さい」
警部がハットを触りながら言う。
「はい、何でしょうか?」
「個人的な興味なんですけどね、さっきから気になってたんですよ。棚の上に置いてある楽器のオブジェ、何か理由があるのですか?
・・・実はこの応接室に来るまでの間にも社内でいくつか見かけたもので」
「さすがは刑事さん」
永島はそこで嬉しそうに説明した。
「実は我が社の創設者は音楽愛好家でして、それで社名も『メロディアス製薬』にしたそうです。ですので我が社が発売するお薬の名前も音楽用語をもじった製品がたくさんあります。
その雰囲気を出すために、社内にもヴァイオリンとかコントラバスとか・・・そういった楽器のオブジェが置かれてるんです。社内にはいくつも素人楽団もあって、定期演奏会まであるんですよ」
「そうですか、いいですね」
と、警部も微笑む。
「私も一度先輩命令でビオラを練習させられました。まあ、ストレスの多い仕事ですから、音楽で少し心にゆとりを持とうっていう感じですかね」
「素晴らしいじゃないですか」
警部はとても満足そうにそう言い、ゆっくりとドアに向かって歩き出す。まあ・・・楽器のオブジェの謎は解けたけど・・・肝心な事件はまだ謎だらけだ。それとも・・・ここでの会話の中で警部は何かヒントを掴んだのだろうか?
「それでは永島さん、本当にありがとうございました」
警部はそう言って部屋を出て行く。私も永島に会釈し警部の後ろについて部屋を出た。
社内の廊下を少し歩いたところで私は警部に尋ねてみる。
「警部、永島さんとのお話で・・・何かヒントを掴まれましたか?」
「まあね。でもヒントと言うよりはまた新しい謎が見つかったんだけどね」
「謎、ですか」
私にはわけがわからない。まあ・・・いつものことだけど。
そんな私の心中など気にする様子も泣く、警部は言った。
「そこでムーン、君にもうひと仕事頼みたい」
■飯森唄美の視点 その4
火曜日、午後5時40分。私は本日最後の患者の診療に当たっていた。患者は本日初診の28歳女性・有田。彼女は夫の浮気が発覚してから元気が出ないのだという。
昔と違って今は心の医療は少しずつ身近なものになってきている。もちろん元気が出ない人みんなが病気、というわけではない。そもそも健康な心とはどういうものなのか、どこからが病気なのか・・・それは誰にも決められないだろう。そんなことを考えていると私は時々迷ってしまう・・・精神科医の仕事はいったい何なのだろうか、と。ただ患者は何かを求めてここに足を運んでくれる・・・せめてその悲しみや苦しみを受けとめたいと思う。
・・・過ちを犯した私にそんなことを思う資格はもうないのかもしれないが。
「先生、私は本当に夫を愛していたつもりです、それなのに」
有田はそう力なく言う。彼女の端正な顔立ちは理性や知性の存在を強く感じさせるが・・・今は感情がそれらを凌駕してしまっているらしい。
「そうですね・・・あなたのその思いは間違っていないと思います」
「どうしても・・・信じられなくて」
「お辛いと思います。信じられないのもわかります」
「先生、私はどうすれば・・・」
彼女はそう言ってうつむいてしまう。悲しみや苦しみをこらえられなくなるのは、何も弱い人間だけではない。むしろ強い人間、世の中の汚さに屈さない真面目で純粋な人間だからこそ悲しみや苦しみが多い。彼女も・・・ただ純粋に夫を愛していたのだろう。
「有田さん・・・」
「先生、もうどうしたらいいかわからなくて」
「そうですね、でもわからなくてもいいんですよ。今は、急いで答を出そうとしなくてもいいのではないでしょうか」
「ありがとうございます、先生。でも、ああ、夫に言い寄ってきた女が許せない・・・」
「人を好きになる気持ちは・・・仕方ないですよね」
彼女に言葉をかけながら、私は自分の疲労も感じていた。昼休みはカイカンとの面会の後、結局昼食は喉を通らなかった。でもさすがに食べていないと・・・きついな。しかし今は診察中だ、手を抜くわけにはいかない。
・・・よし、もうひとふんばりだ!
※
午後6時、診療が終了し有田は部屋を出て行った。ああ・・・疲れた。私は座ったままで大きく伸びをする。と、そこに田原が入って来た。
「先生お疲れ様でした、今の患者さんで最後です」
「お疲れ様、有田さんにお薬の処方はありません。また来れる時に受診してもらって下さい」
「わかりました」
と、そこで少し不安がよぎる。まさか・・・またカイカンが会いに来てるんじゃ・・・。私はさり気なく尋ねてみる。
「田原さん、もしかしてまた刑事さんいらっしゃってる?」
「いえ、いらっしゃってませんよ」
・・・よかった。さすがに今カイカンと対決する余力はない。
「そう・・・。じゃあ私は有田さんのカルテを書いてから帰りますから、田原さんと百木さんは上がって下さい」
「ありがとうございます。先生もあまりご無理なさらずに・・・ちゃんとお休みもとって下さいね」
田原はそう微笑んで出て行った。
お休みか・・・そうだな、明日は当直だし今夜はゆっくり休まないとな。そうだ、先週金曜日は行けなかったあのレストランに行こう!お気に入りの夕食をとればきっと元気も出る。
私はそう決めると、少し急いでカルテの記載を始めた。
※
午後8時30分、レストラン『アルル』にて私は食後のコーヒーを楽しんでいた。まあレストランというよりは喫茶店規模の店だが、静かで穏やかなこの店は学生時代から私の憩の空間だった。
お気に入りの手作りハンバーグセットを堪能し、食後のコーヒーをゆっくり口に運んでいると・・・まるで時間までゆっくり流れているような気がしてくる。閉店は午後9時・・・優しいクラシックがかすかに流れる店内はもう客もまばらで、厨房からは少しずつ後片付けの音が聞こえてくる。
・・・カラン。
入り口の鈴の音。こんな時刻に新しい客かと何気なく視線を送ると・・・そこにはカイカンの姿があった。
「あれ?唄美先生、こんばんは」
カイカンはそう言って笑顔を見せる。・・・どうしてこんなところまで。
「あ、刑事さん、どうも」
私は他の客の迷惑にならないように少し声を落として返事する。カイカンはテーブルにぶつからないように気をつけながらここまで来ると、「ご一緒してよろしいですか?」と小声で言った。
「どうぞ」
私はそう言って微笑む。
・・・ああ、これで休息の時間は終わりか。・・・仕方がない、こればかりは受けて立つしかない。私はコーヒーを置いて気を引き締める。
「刑事さん、ここでお会いするなんて思いませんでしたよ」
「なんか先生に付きまとってるみたいですいません」
カイカンはそう言って腰を下ろすと、近くの店員にコーヒーを注文した。そして穏やかな声で続ける。
「実はクリニックの受付の百木さんに教えてもらったんですよ、先生のお気に入りの店だって。だから、私も一度来てみようかと思いまして」
「そうですか。ええ、確かにここはお気に入りなんです。学生時代から通ってます」
「学生時代・・・じゃあ思い出の味、ですね」
「そうですね。試験勉強や部活で疲れた時はよくここでコーヒーを飲みました」
私はそう答ながら少しあの頃を思い出す。学生時代・・・派手なことは何もなかったけどやっぱり懐かしい日々。
「先生は何の部活をやってらっしゃったんですか?」
「陸上部です」
私はほとんど無意識にそう答えてしまう。今のは少しまずかったかな。私の頭にホテルの非常階段を駆け上った時の映像が浮かぶ。
「陸上部、そうですか・・・青春ですね」
カイカンはそこで嬉しそうな笑顔を見せる。私は続けた。
「まあ・・・医学部でしたからどうしても勉強が最優先にはなっちゃうんですけどね。それでも夢中で走ってましたね・・・あの頃の情熱って不思議です」
カイカンは笑顔のままで私の話を聞いている。
「その情熱を取り戻したいっていうのもあるかもしれません。医者になってもこの店に通い続けているのは・・・」
「先生は立派にやってらっしゃるじゃないですか」
「ありがとうございます。でも私だって、嫌になったり逃げ出したくなったりするんですよ」
「フフフ、刑事も同じです」
カイカンはそう言って笑う。しかし次の瞬間急に厳しい声で尋ねた。
「ところで先生、先週の金曜日はどうしてここにいらっしゃらなかったんですか?」
突然そう言われて私は一瞬言葉に迷う。カイカンはさらに続けた。
「実はここに来る前に電話で店員さんに聞いたんですよ。先生は金曜日の夜にここにいらっしゃると・・・でも先週はそうじゃなかった。そして火曜日の今夜いらっしゃったのは・・・何故でしょう」
・・・やはり油断してはいけない。カイカンはそれを確かめにここに現れたのか!
先週の金曜日・・・私は佐藤に脅迫を受け、そのままクリニックに残ってあの犯罪計画を立てていた。もしあの脅迫がなければいつも通りここに来ていただろう。しかし・・・そんなこと言えるはずもない。
「刑事さんって本当に・・・色々なことを気にされるんですね」
「すいません、人がいつもと違うことをする時には・・・どうしてもそこに何かヒントがある気がするんです」
「お気持ちはわかりますよ。私の仕事でもヒントになることがあります。確かに・・・先週は金曜日にここに来ませんでしたね。でもそれは・・・疲れていたから来なかっただけです。必ず毎週来ているわけじゃありませんし。
フフフ、また同じ答えになっちゃいますけど・・・たまたまです」
「では・・・本日は?」
「何となくここのハンバーグが食べたくなって・・・おかしいですかね?」
「いえいえ、おかしくありません。おいしいですよね、ハンバーグは・・・フフフ」
そう言ってカイカンも微笑む。そこで店員がカイカンのコーヒーを運んできた。カイカンはお礼を言ってそれに口をつける。
・・・カイカンはどこまで私を疑っているのだろう?
※
1分ほどの沈黙が流れた。猫舌なのか、カイカンは少しずつコーヒーに口をつけている。私も再び自分のカップを手にする。
「先生、あれから色々考えていたんですよ」
と、カイカンが口を開く。また事件の謎解きだろうか・・・。私は「何をでしょうか」と相槌を打った。
「今日のお昼にお会いした時、先生はおっしゃいましたよね・・・『精神科医と刑事の仕事は少し似ているかもしれない』と・・・。そのことを考えていたんです。確かにそうかもしれません」
話題が事件のことではなかったことに私は少しほっとする。私もコーヒーを一口飲んで答えた。
「そうですね・・・心という謎のかたまりを相手の言葉や行動から推し量ろうとするわけですから」
「フフフ、でも精神科のお医者さんに会いたい人はいても刑事に合いたい人はいません」
「大変なお仕事ですよね、刑事さんって・・・」
「まあ・・・でも、好きでやってますから」
カイカンはそう言うとまた少し微笑んだ。そしてまた沈黙が流れる。このまま黙っていてもよかったのだが、私の口は開いた。
「でも刑事さん、私たち精神科医もただ人気があるだけじゃだめなんです。患者さんに必要とされるのは嬉しいことですけど・・・」
「と言いますと?」
「ほら、人間って1人に気持ちが集中するとまるで相手が自分のためだけに存在しているような気がしちゃうじゃないですか。確かに精神科医は患者さんに優しさを持って接しますが、その優しさはけしてその患者さんにだけのものじゃありません。他の多くの患者さんにも同じ優しさを注いでいるんです。
・・・患者さんは時としてそれを忘れてしまう、でもそれじゃあ治療はうまくいきません。そのドクターがいないと生きていけない、じゃあ困りますからね」
「ナルホド」
と、カイカン。私はそこで自分が少しおしゃべりになっていることに気付いた。
・・・わかっている、この刑事は警戒しなくてはいけない。気を許してはいけない。下手に言葉を続ければ小さな矛盾からまたいつ足もとをすくわれるかわからない。でも・・・私の心はカイカンと話をすることに不思議な心地良さを感じていた。
先ほどカイカンがこの店に現れた時、休息の時間は終わったと思った。でも・・・今ここには変わらずゆっくり時間が流れている。カイカンの異様な風貌さえもこの穏やかな空間に溶け込み、何の波紋も広げていない。それはこの店の持つ力なのか・・・まるで人生に疲れたあらゆる人間を優しく抱いてくれるゆりかごのように、全ては包み込まれていた。
「先生は・・・どうして精神科医になられたのですか?」
カイカンが穏やかに言う。私は応じた。
「そうですね・・・どうしてでしょうか。自分には向いているとは思いますけど・・・悪い意味で」
「悪い意味、ですか」
「ええ。お昼にお会いした時にも話しましたが、人の心を推し量るなんて悪い癖だと思うんですよ。実は私、その癖が幼い頃からなんです」
カイカンは黙って聞いてくれている。
「別に自慢とかじゃないんですけどね、私、昔から人の言葉や行動の矛盾にすぐ気がついちゃうんですよ。あれ?この人この前言ってたことと違うぞ、とか・・・あれ?この2人同じ隠し事をしてるぞ、とか・・・。そんなのがいつも気になって・・・それを下手に指摘したせいで友情を壊してしまうこともありました」
そこで私の口から自嘲の笑いがもれる。
「フフ、人間なんて誰だって少なからず嘘をついて生きてるんだから・・・本当はそんなことに気がつかない方が幸せなんですよね。でも私は気がついてしまう・・・そういう意味では悪い癖が生かされてるこの仕事は向いてるんだと思います」
こんなことを誰かに話したのは初めてだ。カイカンは「そうでしたか」と優しく言う。まずい、もっと話がしたくなってきた。これはカイカンの作戦なのか?
・・・危険なのはわかっている。でも、こんな仕事をしているせいか、時々無性に誰かに自分の話を聞いてもらいたくなることがある、特にこんな穏やかな夜には。
「刑事さんはどうして今の仕事を?あ、コロンボが好きだからでしたね」
私は微笑んでそう尋ねる。
「ええまあ、それもありますが・・・」
カイカンはそう言って少し照れながらコーヒーを飲む。
「すいません、刑事さんとお話するのが楽しくなってしまって・・・。同じ心を読む仕事をしているからでしょうか」
「そうかもしれません。私も唄美先生とお話するのは楽しいです・・・とても」
そこでカイカンは一気にコーヒーを飲み干し、少し厳しい声で続けた。
「でも私たちの仕事は・・・楽しいだけじゃいけないんですよね」
その言葉に私ははしゃぎすぎていた自分を恥じる。そしてカップを置いてから答えた。
「そうですね・・・すいません」
「でも先生」
と、そこでカイカンはまた笑顔。・・・この豹変がわからない。
「確かに先生の仕事と私の仕事は似ているのかもしれません。でも決定的な違いがあります。先生は相手を救うために心を読みますが・・・私は違います」
カイカンは席を立ち、私の顔を見ながら静かに言った。
「私は・・・相手を逮捕するために心を読んでいるんです」
カイカンはそう言うと「おやすみなさい」と小さく呟き、そのまま会計をして店を出て行った。
・・・カラン。入り口の鈴が鳴る。
カイカンは今夜何のためにここに来たのだろう。先週の金曜日に私がここに来なかったことを少し追及されたけど、その後はただ話をしていただけのように思えるが・・・。
・・・わからない。わかっているのは、カイカンは必ずまた私の前に現れるということだけだ。
TO BE CONTINUED.
(文:福場将太 写真:りゅうちゃん)