コラム

2012年08月★スペシャルコラム『刑事カイカン 支持的受容的完全犯罪(2)』

※このコラムノベルはフィクションです。

■飯森唄美の視点 その2

 月曜日。あれから2日経ったが警察からは何の問い合わせもない。ニュースでも特に報道されていない・・・無事に事故として処理されたのならよいが。私はそんなことを考えながらいつも通りクリニックでの外来診療に当たっていた。
現在午後5時50分、本日最後の予約患者が診察室に入って来る。「先生、またよろしくお願いします」と私の前に座った彼の名は山瀬・・・大学の若き研究者だ。
「お久し振りですね、山瀬さん。半年振りくらいですが・・・何かありましたか?」
 私はそう彼に微笑みかける。
「先生、また研究が行き詰ってしまいまして・・・それで少し眠りにくいんです」
 私は過去のカルテに軽く目を通す・・・彼は今までにも研究が大変になるとストレスをためこんでしまい、不眠を訴えていた。どうしてもそれが辛くなった時のみ、年に数回の頻度で通院している。
「そうですか・・・大学に残って研究をする、というのは大変なんですね」
「ええ・・・それで先生、また睡眠薬を少し処方して頂きたいのです」
 山瀬は力ない笑顔を見せる。確かにかなり疲れているようだ。
「そうですね・・・本当はあまり睡眠薬に頼るのは良いことではないんですが・・・」
 私はそう言ってカルテで過去の処方を確認する。今までにも同様の症状に対して、私は弱い睡眠薬を数回分処方していた。
「先生、それはわかっているんですが・・・どうしても眠れないと辛くて。弱いお薬でいいですから」
 山瀬のその言葉に私はふと思い出して提案する。
「そういえば新しい睡眠薬が出たんですよ・・・確か今週から薬局にも置いてあるはずです。弱い薬で安全性も高いですから、それを試されてみますか?」
「はい、ありがとうございます先生。出来るだけ頼らないようにしますので・・・」
「そうして下さいね」
 私はそこで机の引き出しから白紙の処方箋を取り出し記入しながら説明する。
「それじゃあ・・・『バイオスリープ』というお薬を1日1錠寝る前に、5回分だけ出しておきます。どうしても眠れない夜に使って下さい」
「はい、いつもありがとうございます」
 と、山瀬は微笑む。

その後は彼の近況などを中心に会話をする。この談笑がどれだけ彼の心を元気に出来ているのか・・・それは私にもわからない。ただ、精神科医の仕事が薬の調整だけだとは思いたくない。
午後6時を過ぎた頃、山瀬は礼を言って診察室を出て行った。私はカルテに記録すると椅子から立ち上がり大きく伸びをする。
・・・と、そこでドアがノックされ田原看護師が入ってくる。私よりも少し年上である彼は、手にした予約表を確認しながらいつもの穏やかな声で言う。
「先生、お疲れ様でした。今日の予約は・・・これでおしまいです」
「わかりました、ありがとうございます」
 私はそう答えながらカルテと処方箋を田原に渡す。そして一緒に診察室を出た。田原は処方箋を受付の百木事務員に渡す。
百木はまだ20代中頃の女性、最初こそその若さに不安もあったが今ではもうすっかりクリニックの顔として活躍してくれている。受け取った処方箋を成れた手付きでコンピューターに打ち込んでいく・・・そんな彼女の手が止まった。
「あれ?おかしいな・・・」
彼女が小声で言う。私は受付に近寄り尋ねた。
「百木さん、どうかしたの?」
「あ、先生すいません。先生が書かれたお薬なんですが、入力出来ないんです。新しいお薬ですか?」
今や病院事務もコンピューターの時代。まだ発売されていない薬や間違った量をドクターが処方箋に書いてしまっても、コンピューターがちゃんと指摘してくれる。
「確かに・・・新しい薬だけど・・・発売まだだったのかな」
そう答ながら改めて考えると自分の記憶に自信がない。特にここ数日は・・・あの佐藤の一件もあっていつもの精神状態だったとは言えない。
「ごめんね百木さん、多分私の記憶違いだわ。ちょっと待ってて」
 私は待合室に行き、座って会計を待っていた山瀬に声をかける。
「すいません山瀬さん、ちょっとよろしいですか」
「先生、どうされました?」
「先ほど処方するって言った新しい睡眠薬なんですが・・・すいません、まだ発売されていないようなんですよ」
「あ、そうなんですか」
 そう優しく答えてくれる山瀬、しかしその数列後ろの席に異様な人物が座っていることに私は気がついた。
室内だというのに薄汚れたコートとハット、長い前髪は顔を半分隠している・・・。明らかにクリニックの雰囲気から浮き上がったその人物は腕組みして床に視線を落としていた。前髪のせいで表情はよくわからない。
いったい何なんだ、この人は・・・。確かもう予約の患者はいなかったはず・・・。
「あの、それで先生・・・どうすればよろしいですか?」
謎の男に気を取られていた私に、山瀬が少し心配そうに声をかけた。
「あ、すいません山瀬さん。それで・・・そう、今回は前回処方した物と同じ睡眠薬を処方しようかと思うのですが・・・」
私は山瀬に視線を戻しそう答えた。ひとまずこちらを解決しなくては。
「わかりました、じゃあそれでよろしくお願いします」
山瀬が快く了解してくれたので私は一度受け付けに戻り、田原から先ほどのカルテと新しい白紙の処方箋を受け取る。そしてその場で記録を修正し、処方する睡眠薬も前回処方した『ヨーネレル』に変更した。
「じゃあごめん百木さん、こっちの処方箋でお願い。さっきのはシュレッダーしちゃって」
「わかりました」
彼女はそう言ってもう一度コンピューターに打ち込む・・・今度は問題なさそうだ。そこで私は彼女に尋ねる。
「ところで・・・あの、待合室に座ってる人は・・・何なの?」
答えたのは彼女ではなく田原だった。
「あ、先生ごめんなさい。先ほどいらっしゃった刑事さんです。お伝えするのを忘れていました」
一瞬背筋に冷たいものが走る。
・・・刑事?あの人が?
「刑事さん、そうなの・・・何かしら?」
 私は出来るだけ平静を装って答える。今度は百木が言った。
「何か先生にお伺いしたいことがあるとかで・・・1時間ほど前にいらっしゃったんです。先生は診察中でしたので、そうお伝えしたら終わるまで待つとおっしゃって」
「それにしても、ちょっと不思議な格好ですよね」
と、田原が笑顔で付け加える。私も少し無理に笑って言う。
「そ、そうね・・・私も驚いちゃった」
山瀬が会計を済ませ帰宅するのを待って、私は田原と百木には仕事を上がってよいと伝えた。2人がこの場を離れてから、私は再び待合室に向かう。
刑事は先ほどと同じ姿勢で床を見つめていた。
「あの・・・刑事さん?お待たせいたしました」
私がそう言うと刑事は顔を上げ、慌てた様子で立ち上がった。
「あ、飯森唄美先生ですね。突然すいません。あの、私、警視庁のカイカンという者です。少し先生にお伺いしたいことがありまして」
・・・カイカン、というのも不思議な名前だ。いつもの見慣れた待合室にこの謎めいた刑事がいる光景に・・・私は妙な違和感を感じていた。しかし、その言葉遣いからこのカイカンなる刑事が少なくとも常識的な会話が出来る人物であることはわかる。
「こちらこそお待たせしてすいません。では、こちらにどうぞ」
 私は笑顔でそう言い、先ほどの診察室を促した。カイカンも私の後ろについて入室する。
・・・刑事、いよいよ来たか。落ち着け、まだ何の理由で来たかはわからない。落ち着いて対応すれば大丈夫だ。
私はそう自分にくり返しながら診察室のいつもの椅子に座った。

 壁の時計は6時30分を指している。
「どうぞ、お座り下さい」
 私がそう促すとカイカンは机を挟んで私の正面の椅子に腰掛けた。そう、位置関係としては診察の時と同じ格好になる。
「いやあ、突然押しかけてしまってすいません」
カイカンはそこで愛想のいい笑顔を見せる。
「いえ、構いませんよ。こちらこそお待たせしてしまって・・・」
 私もそう言って笑顔を作る。
「いやあ先生、突然警察なんかがやって来て、びっくりさせてしまったのでは・・・」
「大丈夫ですよ。仕事柄、何度か警察の方にお会いしたことはありますから」
びっくりしたと言えばむしろこの刑事の風貌だ。
・・・改めて観察するとやはり異様極まりない。コートもハットもよく見ると所々破れたり穴が空いたりしている。この服装に何か意味があるのだろうか?顔の半分を隠す長い前髪も・・・正直不気味だ。顔の感じから年齢はおそらく30代・・・しかし見方によってはそれより年上にも逆に年下にも思える。それに『カイカン』という名前も・・・いったいどういう名前なんだ?
私は今までにもこの診察室で何人もの人間に出会ってきたが・・・これほどまでに何も感触を掴めなかったのは初めてだ。何て言うか・・・どこから手をつけていいかわからない感覚。

「それで・・・どういったご用件でしょうか」
 私はひとまずそう切り出す。
「ええ、実は先生にお伺いしたいことというのはですね・・・」
 カイカンの声が診察室に響く。待合室で話した時から思っていたが、とても低くてよく通る声だ。普通の言葉なのに、何か意味があるように感じさせられてしまう。
私はカイカンの次の言葉に集中した。しかしカイカンは急にキョロキョロ周囲を見回し始める。
「それにしても・・・いいクリニックですね。なんかこう、あたたかい感じがして」
「あ、ありがとうございます」
 突然の話題に一瞬戸惑うが、私は合わせて答える。
「ここは心のクリニックですから・・・出来るだけ患者さんにリラックスして頂ける雰囲気を心がけています」
「そうですか・・・それにしても唄美先生はすごいですね。その若さでクリニックの院長先生だなんて」
 カイカンに『唄美先生』と呼ばれ私はまた戸惑う。カイカンは特に意識した感じでもなく、子供のようにはしゃいでいた。私はとにかく返答する。
「ありがとうございます、でもそんなに若いわけでもないですよ」
「そうですか?この『アカシアメンタルクリニック』という名前も先生がお付けになったんですか?」
「いえ、実は私、2代目院長なんですよ。もともとは私の先輩が開院されたクリニックで・・・その先輩が3年前に海外に行かれることになって、それで私が引き継いだんです」
私の話にカイカンは興味津々という感じでうなずいている。私は続けるしかない。
「だから、『アカシアメンタルクリニック』という名前もその先輩が付けられたんですよ」
「そうですか・・・でも、いい名前ですよね」
「はい、私もそう思います。先輩はアカシア大学出身で、だからこの名前にされたそうですよ」
 私のその言葉にカイカンはさらに嬉しそうな顔をして言う。
「アカシア大学ですか。いやあ、確か広島県にある大学ですよね。母校愛が強いことで有名な・・・」
「ええ」
 ・・・いったい何の話をしてるんだ、私たちは?
そこで一瞬の沈黙が診察室に流れる。私はそれをきっかけに話題を戻した。
「それで刑事さん・・・私にご用件というのは・・・」
「あ、すいません。ついつい話しがそれちゃって」
「いえそれは構いませんが・・・」
「実はお話しというのはですね・・・」
 カイカンはそこで少し座り直してから言った。
「・・・佐藤さんについてお伺いしたいのです。確か先週の金曜日にここにいらっしゃったと思うのですが」
 その時すでにカイカンの顔から微笑みは消えていた。

 ・・・自分の脈が速くなるのがわかる。
落ち着け、大丈夫だ。冷静に対処すればいい。
「ええ・・・いらっしゃいましたよ。毎週金曜日は診察の後、MRさんとの面談にしていますので・・・佐藤さんとはそこでお会いしました」
 私がそう答えると、カイカンは小さく「そうですか」と呟いた。私は平静を装ったまま続ける。
「あの、佐藤さんがどうかされたのですか?」
「実は・・・お亡くなりになられましてね」
 カイカンは私の目を見ながらそう言った。私の脈がさらに速くなる。
・・・大丈夫。いつものように感情を相手に見せないように話せばいいだけだ。
「そんな・・・。一体どうなさったのですか?」
「土曜日の夜です。宿泊しておられたムナカタグランドホテルのお部屋の浴槽で・・・溺死されました」
・・・自分でやったことなのに、私にはそれがまるで他人事のように聞こえた。もしかしたら、心が無意識にそう思い込もうとしているのかもしれない。
「溺死・・・ということは事故、ですか?」
「それがまだはっきりしていませんでしてね、それで先生のところに来たのです」
「・・・どういうことですか?」
 これは本心からの質問だった。どうしてカイカンは私を訪ねて来たのだろう?佐藤と私がどうして繋がったんだ?
「実はですね・・・」
 カイカンはそこで少し表情をゆるめて話を始めた。
「いやあ、製薬会社のMRさんというのは大変ですね。亡くなられた佐藤さんの携帯電話のスケジュール帳を確認したんですが、何月何日にどの病院のどのお医者さんに面会に行くのか、その予定がビッシリでした」
私は黙ってカイカンの言葉を聞く。
「それでそのスケジュールを確認致しますと、佐藤さんが最後に面会したお医者さんが唄美先生なんです。そこでお伺いしたいのですが、その時佐藤さんに変わった様子はありませんでしたか?」
「そうですね・・・。変わった様子ですか・・・」
 私はそう言ってまた黙る。今はあまり自分から積極的に話すべきではないだろう・・・相手の意図がわかるまでは。
私が答えないのでカイカンが続けた。
「ええとですね、お伺いしたいのは、例えば先生がお会いになった時佐藤さんが体調が悪そうだったとか・・・そういう徴候がなかったかということです」
・・・そうか、カイカンは溺死の理由を探しているのか。確かにもともと体調不良であったとすれば溺死の裏づけになりうる。しかし・・・あの面談を思い出しても浮かんでくるのはあの憎らしいうすら笑いだけ。ここは、妙な嘘はつかない方が無難だろう。
「申し訳ありません・・・特に何も気がつきませんでした。私は体よりも心が専門ですし・・・それに診察として佐藤さんに会ったわけでもありませんので」
「そうですか・・・、ありがとうございます。いやあ、大の大人が浴室で溺死、というのがどうも気になりましてね」
「そうですね・・・確かに普通にお風呂に入っていて溺れるというのは珍しいですよね。例えば・・・心臓発作などの可能性はないのですか?喫煙はリスクを高めますから」
 私がそう言うとカイカンは「検死官によりますと・・・それもなさそうなんです」と残念そうに答えた。まあ、よくよく考えればそのくらいのことは警察がとっくに調べているだろう。
 私は「お力になれずにすいません」と頭を下げる。するとカイカンは気を取り直したように言った。
「気になさらないで下さい。それに、先生にお伺いしたいことは他にもあるんです」
「何でしょうか?」
「またスケジュール帳の話なんですけどね。佐藤さんが亡くなられた土曜日にそのホテルで学術講演会が行われていたんです。・・・先生はご存知でしたか?」
 一瞬迷ったが・・・この質問にも素直に答えた方がいいだろう。
「はい、メロディアス製薬主催の講演会ですよね?私も参加していましたから」
「ですよね、参加されたお医者さんの名簿に先生の名前もありましたから」
 カイカンはさらりとそう言う。少し落ち着いてきていた私の脈がまた速くなる。
・・・まさかそこまで確認していたなんて。やはり下手な嘘はつかない方がよさそうだ。
私の警戒心などお構い無しにカイカンは話を続けた。
「もしかして講演会のことは、佐藤さんから聞いたのですか?」
「はい、金曜日の面談の時に案内をもらいました。それで・・・せっかくなので参加してみようかと」
「そうですか・・・」
 カイカンはそこで少しだけ言葉を止めたが、すぐにまた話し始める。
「佐藤さんのスケジュール帳なんですけどね、の土曜日の欄には確かに講演会のスタッフとして参加することが記入されていました。それはいいんです。実際に佐藤さんが第1部のスタッフとして会場にいらっしゃったことは多くの同僚も確認しています。
わからないのはその後の記入でして・・・」
 私の背筋が凍る。
・・・・まさか佐藤は、私から200万円を受け取ることまでスケジュール帳に記入していたというのか?もしそうであれば、さすがに言い逃れが難しいぞ!
 私は全身を染み渡っていく緊張を何とか抑え込みながら、カイカンの次の言葉を待った。そして数秒の間をおいて、カイカンは言った。
「アルファベッドで『I・U』とだけ書いてあったんです。これはいったいどういう意味なのでしょうか?」
 私は何も言えない。言えるわけがない。
・・・それはおそらく私のイニシャルだろう。佐藤は講演会の後、部屋で私と会う予定を記入していたのだろう。くそ、こんなところに落とし穴があったなんて・・・。佐藤のあのうすら笑いが浮かんでくる。
 だが、幸いにしてただのイニシャルだ。私を示す決定的なものではない。いくらでも反論の余地はある!
 私は心の中で深呼吸し、カイカンの顔を見た。カイカンは表情を浮かべずただ私の返答を待っていた。
「すいません・・・私にはわかりません」
 私はそれ以上は言わず口を閉じた。言葉というものは積めば積むほどもろくなってしまう。するとカイカンは少し微笑みを浮かべて言った。
「そうですよね。実は私もさっぱりなんです。いやあ、困っちゃったな、何かの専門用語か業界用語かと思って色々調べたんですけどそれらしいのがなくて・・・。
誰かのイニシャルかとも思って、講演会の参加者名簿からホテルの宿泊名簿まで昨日一日中確認したんですけどね・・・それも空振りで」
 カイカンの言葉は同乗を求めるようにだんだんと砕けていく。
「せっかくの日曜日もそれで終わっちゃったンですよ。まったくもう・・・これが『U・I』だったらウタミ・イイモリで先生にビンゴだったんですけどね」
 カイカンの笑顔に私も合わせて笑いながら言った。
「確かにそうですね、フフフ」
「まあこの謎はもう少し考えて見ますよ」
 カイカンはそう言うと準備運動のように首を回した。私の脈がまた落ち着いていく。
 正直拍子抜けだった。もっと糾弾されると思ったのだが・・・考えすぎだったか。確かにイニシャルとしても逆さまだし、『I・U』だけで『飯森唄美が佐藤に脅迫されたから溺死を偽装した』なんてどんな天才でも結び付けられないだろう。・・・私は少しほっとする。
 カイカンは首回しを終えると、まだ少し砕けたままの口調で言った。
「実は・・・謎が多いんですよ。先生、心の専門家としてアドバイス頂いてもよろしいですか?」
「ええ、私に出来ることでしたら」
 私がそう答えるとカイカンはとても嬉しそうな顔で言う。
「よかった・・・いやあ、なんか先生話しやすいんですよ。話してるだけで癒されるというか・・・さすがですね」
「それは褒めすぎですよ。刑事さんだってとっても話しやすいですし」
「そんなそんな・・・私なんて。まあ私の話はいいんですけど、この溺死の現場には謎が多くてですね。ぜひ先生にご意見伺えたら」
「ええ、私で役立つかはわかりませんが」
「ありがとうございます。実はですね・・・」
 カイカンはそこでまた座り直してから続けた。

「佐藤さんはバスルームの浴槽で溺死されていました。私が引っかかってるのはドライヤーのことなんです」
 ドライヤー、という言葉を聞いて私はあの夜のことを思い出す。カイカンは身振り手振りも加えながら説明を続けた。
「実はですね、ドライヤーがコンセントに挿してあったんですよ。持ち手の部分には佐藤さんの指紋も付いていました。しかし、佐藤さんは今まさに服を脱いで入浴していたんです、何故ドライヤーがもうコンセントに挿してあったのでしょうか?髪を乾かすのはお風呂から上がってからですよね?」
 私は「そうですね」とだけ答える。カイカンは続けた。
「これが謎なんだなあ・・・先生、心の専門家として、佐藤さんの行動は説明可能ですか?」
 もちろん私はドライヤーが使用された理由を知っている。だが「私が髪を乾かしました」なんて言えるはずもない。私は慎重に答えた。
「そうですね・・・これは精神医学とかじゃありませんけど・・・こういうことは考えられませんか?人間の性格は色々ありまして、何でも先に準備しなくちゃ気が済まない几帳面な人もいます。お風呂から上がってすぐ使えるようにドライヤーを準備しておいたとか」
「ナルホド」
 カイカンは妙なイントネーションでそう言う。そして右手の人差し指を立てて言葉を続けた。
「確かにその可能性は考えられます。しかし、先に準備する性格だったとすれば・・・お風呂から上がって着る服もあらかじめカバンから出しておきそうなもんですが・・・それはしてませんでした。また脱いだ服もベッドの上にそのまま投げてありましたし・・・几帳面な性格とは、ちょっと思えませんね」
 カイカンの指摘は妥当だ。行動の痕跡からその人の性格を推し量る・・・もしかしたら刑事という仕事は少し精神科医のそれに似ているのかもしれない。私は不思議な親近感を感じながら言う。
「そうですか・・・では、ドライヤーはお風呂に入る前に別の目的で使ったのかもしれませんね。例えば・・・濡らしてしまった物を乾かしたとか」
「ナルホド、しかしそうだとしても謎があるんですよ」
「謎、ですか」
「そうなんです。実は指紋なんですけどね、確かにドライヤーの持ち手の部分には佐藤さんの指紋が残ってました。でも後から気になって調べたら・・・」
 そこでカイカンは立てていた指をパチンと鳴らす。
「ドライヤーのコードの先・・・コンセントに挿し込むプラグの握りの部分・・・あそこに指紋が付いてないんです」
 そこでカイカンは私の目を見た。
「先生、想像してみて下さい。どうやったって、あそこを握らずにコードをコンセントに挿せるわけがない。実際に佐藤さんの部屋にあった携帯電話の充電器のコードには、その部分にしっかり親指の指紋が残ってました」
 しまった、これは私のミスだ。正直そこまで考えていなかった。ドライヤーの持ち手の部分に佐藤の指紋を残しただけで安心していた。コードは私が手袋をはめた手で挿したから指紋が残っていないのは当然だ。
 ・・・警察はやはりプロだ、あなどってはいけない。それともこのカイカンという刑事が特別に優秀なのか。
「先生、指紋がないということはコンセントに挿した後で拭き取ったとしか考えられません。何故佐藤さんはそんなことをしたのか・・・説明は可能ですか?」
「すいません・・・思いつきません」
 ここはそう答えるしかない。カイカンはそんな私を気遣うように言った。
「あの、気になさらないで下さいね。私にも雲を掴んでるみたいにわからないんですから。それにわからない謎は他にもたくさんありまして」
 正直これ以上聞きたくなかったが・・・カイカンは続けた。
「佐藤さんの脱いだスーツの胸ポケットにUSBメモリーが入ってたんですが・・・USBメモリーってご存知ですか?パソコンで使うやつ・・・」
 私は「ええ」とだけ答える。
「実はそれのデータが吹っ飛んでしまってましてね。鑑識さんに調べてもらったら完全に壊れててパソコンに挿しても全く読み取れないんです」
 私は黙って話を聞きながら、また脈が速くなるのを感じていた。
「佐藤さんのノートパソコンを調べると、その日の午前中にもそのUSBメモリーを使っていた記録があるんです。何故突然壊れてしまったのか・・・謎でしてね。
・・・確かに壊れることはよくあるんですが、持ち主が亡くなった日に一緒に壊れてしまうなんて・・・」
 私はその理由に考えを巡らせる。まさか・・・。
「鑑識さんの話では、ああいった精密機器は電流などで壊れるらしいんですけどね。ほら、静電気とかです」
 カイカンのその言葉に私は確信した。
 やっぱりそうか!あのスタンガンの電流だ・・・私が佐藤の胸にスタンガンを当てた時、ポケットにUSBメモリーが入っていたんだ!皮膚には痕跡を残さないよう電圧を抑えたつもりだったが、精密機器には強過ぎたのだ。
 ・・・何てことだ。ドライヤーのことといい、私の全く気にしていなかったところからどんどんほころびが出てくる。でも・・・。
 私は気を取り直して言う。
「確かに不思議ですね」
「はい、本当に」
 と、カイカンは微笑む。
 大丈夫、大丈夫だ。どのほころびも私の犯罪を証明するものではない。そもそもまだ殺人事件として捜査されているわけでもないんだ。落ち着け、落ち着け。
 私は笑顔で言ってみせる。
「刑事さん、あまりお力になれなくてすいません。ただ1人の精神科医として言えるとしたら・・・世の中には不思議なことがたくさん起こるということですかね。変に思われるかもしれませんが、医者って意外と非科学的なんです。そういう経験をたくさんしてますから」
 その言葉にカイカンはただ黙って微笑みを返した。そして、ゆっくりと椅子から立ち上がって言った。
「唄美先生、本当に長い時間ありがとうございました。いやあ、先生とお話すると何か心が和んで・・・本当にすいませんついつい話しすぎちゃいました。」
「いえいえ、そんな」
 私もそう言って立ち上がる。
確かに言われて見れば・・・初対面の私にここまで捜査情報を話していいものなのだろうか?それは本当に話しやすかったからなのか・・・それとも・・・。

 カイカンと私は診察室を出て、受付近くまで歩いた。時刻はすでに午後7時を回ろうとしている。他に誰もいないクリニックは静寂に包まれていた。
「いやあ、やっぱりこのクリニックの雰囲気はいいですね」
 と、カイカン。私はまた「ありがとうございます」と返す。先ほどまでカイカンの言葉に何度も動揺させられた私であったが、今は不思議と落ち着いていた。そして、ずっと気になっていた疑問が今頃になって膨らみ始める。
 ・・・わかっている、相手に興味を持つということは自分の心に入り込まれる隙を作るということだ。わかっている・・・だが、どうしても私は自分の好奇心に勝つことが出来なかった。他のどんな感情は抑え込めたとしても、これだけは無理・・・だからこそ私はこんな果てのない仕事をしているのだと思うから。
「あの、刑事さん?」
 クリニックの仲をキョロキョロ見回していたカイカンに私は言葉をかける。するとカイカンは私の方を見てまたあの微笑みを見せる。
「あの・・・私からも最後に質問してよろしいですか?」
「はいもちろん。・・・何でしょうか」
 私は素直に言った。
「あの・・・お気に障ったらすいません。刑事さんのその・・・服装には何か意味があるのでしょうか?」
「ああ、この服装ですか」
 カイカンは特に機嫌を損ねた様子も泣く、むしろ照れたように答える。
「いやあこの服装・・・部下からも時々注意されるんですけどね」
 ・・・部下がいるのか。この刑事の部下・・・少し会ってみたい気もする。
「いやあ非常識な格好だというのはわかってるんですけどね、どうしてもやめられないんです。実は私・・・」
 そこでカイカンはハットを触りながら言った。
「インディ・ジョーンズが大好きでしてね。それで子供の頃親にせがんでこのハットを買ってもらったんです」
「そう・・・そうですか」
 正直予想外の返答だった。インディ・ジョーンズが好き・・・それは別に珍しくないが・・・。私はさらに尋ねた。
「じゃあ、その前髪を長くしていらっしゃるのも・・・誰かの影響ですか?」
「はい。私、ブラック・ジャックも大好きで・・・昔夢中で読んだものです」
 と、カイカンはあっさり即答。今度はブラック・ジャック・・・いや、わかるけど。となると・・・。
 私は半分答えを予想して尋ねる。
「ではそのコートはもしかして・・・」
「はい、恐れ多くもコロンボ警部からの借用です」
 カイカンは少し自慢げに言った。

・・・カイカンの風貌の理由はわかった。しかし、何と言うか・・・う〜ん。確かに幼い頃憧れのヒーローの格好を真似する、というのはよくあること。心理学でも確かそんなモデリングの心理は勉強した。しかし・・・それを大人になってもやっているというのはどうなのだろう・・・しかも公の仕事において。 
フフフ、変なの。
カイカンは私の分析などお構いなしといった感じでまたクリニック内を見回している。そして、私の方を見ずに言った。
「これが・・・心のクリニックなんですね。唄美先生はきっと人気があるんでしょうね」
「・・・そうだと嬉しいですけど」
「だって予約もいっぱいじゃないですか。実は待合室で先生を待っている間、受付の百木さんに先週の予約表を見せてもらったんですよ。そしたらたくさん患者さんの名前が入ってましたよ」
「そうですか・・・でも個人情報ですからあまり見ないで下さいね」
 私がそう言うと、カイカンはこちらを振り返った。
「ごめんなさい。実は百木さんにもそう言われてすぐ予約表を取り上げられちゃったんです」
「怒らせると怖いですよ、彼女は」
 私がそう言って笑うとカイカンも笑った。
「先生、今日は本当にありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
 カイカンはゆっくりクリニックの正面玄関に歩いていく。その少し後ろを私はついていく。
「先生、また何かあったらお伺いしても構いませんか?」
「ええ、もちろんです。またお話しましょう」
 私のその言葉は半分本心だった。今までに会ったことのないタイプのこのカイカンという人間に、精神科医として好奇心は尽きない。しかし犯罪者としては・・・もちろんもう関わりたくない。
「いやあ、今日は本当に来てよかったです。それでは」
 カイカンが玄関のドアを開けてそう言った。そして、最後に振り返って私を見る。
「先生・・・ご存知ですか?」
「何をですか?」
 そこでカイカンは今日話した中で一番低い声で言った。
「刑事コロンボの最初の犯人は・・・精神科医なんですよ」
 その声は静まり返った夜のクリニックに響いた。ハットの影と長い前髪でカイカンの表情はわからない。カイカンはそのままクリニックを出て行った。

 ・・・何だ、今のは?冗談なのか、それとも・・・。
 私の中で、1つの感情が確実に膨らんできていた。あの刑事と出会ってから好奇心と共にどんどん大きくなってくる感情・・・。その名前はよく知っている。
 ・・・『不安』だ。

私はカイカンが出て行った玄関を施錠する。ふと見ると、夜の東京には雨がちらつき始めていた。

■ムーンの視点 その2

 月曜日。午後9時30分、私は新宿の外れにあるあのカレー屋に向かって車を走らせていた。7時頃から降り始めた雨は少しずつ雨足を強めながら都会のネオンを滲ませている。
 私はいつもの場所に車を停め、雨を避けて足早に店内に入る。
本来であれば「いらっしゃいませ」の言葉に迎えられるところであるが、事情を知っている店員は私を見ると微笑んで「こんばんは刑事さん。いつもの席にいらっしゃいますよ」とだけ言った。私は軽く会釈し見せの奥に進む・・・すると、隅にある2人用席で警部がカレーを食べていた。一口食べるごとに苦しそうな顔をして水を飲んでいる。
 ・・・そんなに苦しいんなら激辛カレーなんてたべなきゃいいのに・・・といつも思うが、まあ今更そんなツッコミを入れても仕方がない。

「警部、お疲れ様です。また激辛ですか?」
「やあムーン、お疲れ様。君も食べるかい?」
「いえ、9時以降は食べないことにしてますので」
 私はそう答えながら警部の向かいの席に腰を下ろす。
「相変わらず厳しいね、君は。それでムーン、何かわかったかい?」
 警部はカレーを口に運びながらそう尋ねる。私は手帳を取り出してメモを確認しながら答えた。
「はい。ではまず・・・佐藤さんの死亡推定時刻ですが、正式に土曜日の午後7時から8時までと断定されました。これは携帯電話の通話記録とも一致します。それで・・・警部に言われたとおり第一発見者の2人のアリバイを調べてみました」
 警部は黙々と食べている。私は続けた。
「永島さんは確かに講演会の会場にスタッフとしていたことが確認されました。小西さんも他のホテルスタッフと一緒に仕事をされていたことが確認されました。この2人が死亡推定時刻に1215号室に行って溺死を偽装する、というのは不可能ですね」
 警部は小声で「そう・・・」とだけ呟いた。私はそれ以上言葉がないのを確認してから続ける。
「それと、警部に言われたとおり監視カメラの映像もチェックしました。12階のエレベーターホールのカメラですが、まず午後5時30分過ぎに講演会の第1部が終わって戻って来た佐藤さんが写っていました。
その後遺体が発見された11字までの間に何人かの人間がエレベーターに乗り降りする姿が写っていました。小西さんに確認してもらいましたが、そのほとんどは12階に宿泊していた客、あとはホテルのスタッフでした」
「・・・ほとんど?」
 そこで警部のスプーンが止まる。私は少しトーンを落として続けた。
「はい。カメラの映像の中に1人だけ・・・宿泊客でもスタッフでもない人物が写っていました。40代くらいの男性で、6時半にエレベーターで12階に来ました。もちろん映像はエレベーターホールだけですからこの男性が佐藤さんの部屋に行ったとは限りませんが・・・」
「となると、もしこれが殺人事件だとしたら・・・その男性が容疑者?」
 警部はスプーンを置き、座り直してからそう言った。私は自分の見解を述べる。
「いえ・・・この男性が何者かはわかりませんが、容疑者にはならないと思います。というのも、この男性は6時55分にはまたエレベーターに乗って1階に下りていくのがカメラに写っていましたので。1階のカメラも確認しましたが男性はそのままホテルを出て行きました」
「ナルホド、佐藤さんは7時に飲み屋さんに予約の電話をかけていたんだったね。つまりその時点では確かに生きていたわけで、この男性が7時前にホテルを去ったのなら犯人では有り得ない」
 と、警部は右手の人差し指を立てながら言う。私もうなずいてから言った。
「はい。この男性は、佐藤さんとは無関係かもしれません。12階に宿泊していた別の客に用事があったのかもしれません。今、当日の宿泊客に問い合わせて、男性が会いに来なかったか確認しているところです」
「そう・・・」
 警部はまた小声でそう言うと、指を立てたまま黙ってしまう。私も改めてこの事件を考える。
 ・・・事件、そもそもこれは事件なのか?状況的には一見単純なバスルームでの溺死事故に思える。しかし、警部に言われて調べた結果いくつかの疑問点が見つかった。確かにドライヤーはコンセントに繋がっていたが、コードを挿す時に握る部分に指紋が残っていなかった。そしてUSBメモリーは損傷していた。・・・これらはいったい何を意味しているのか?

 結局警部は立てていた指を戻し、スプーンを握ると再びカレーを食べ始めた。私は尋ねてみる。
「そういえば警部、どうでしたか?今日会いに行かれた飯森先生は・・・」
「うん・・・なかなかの美人だったよ」
 警部は冗談なのか本気なのか時々こういうことを言う。
「いえ、そういうことじゃなくてですね」
「そうだね・・・ちょっと気になる」
「だから警部、そういう話では・・・」
「ムーン、そういう意味じゃなくてね」
 警部は食べながら続けた。
「考え過ぎかもしれないけど、唄美先生の言動には・・・不自然な点があった」
「・・・疑っていらっしゃるんですか?」
 警部はまた黙々とカレーを食べる。そして、完食してから答えた。
「まだ・・・確信はないけど・・・明日もう一度アカシアメンタルクリニックに行ってみるよ」
「私もご一緒しますか?」
「・・・いや、それよりもカメラに写っていた男性の身元を引き続き当たってみて」
「わかりました」
 私はそのことを手帳にメモする。美人の先生に1人で会いに行きたいのか?、なんて邪推も浮かぶが・・・まあここは言わないことにしよう。
「あとムーン、明日もう一度永島さんに会いに行きたいからアポを取っておいて」
「はい」
 私はそれもメモすると手帳をポケットにしまい、立ち上がった。
「警部、私はこれで失礼しますが送っていきますか?」
「いや、大丈夫。私は食後の一服を楽しんでから帰るよ。・・・お疲れ様」
「では、お疲れ様です」
 まあ警部の一服というのはおしゃぶり昆布のことなのだが。私は足早にその場を離れ、店員にお礼を言って店を出た。雨脚はまた少し強まった気がする。

 ・・・飯森唄美、警部が不自然だとマークしたこの女医は果たして犯人なのだろうか?

TO BE CONTINUED.

(文:福場将太 写真:瀬山夏彦)

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