コラム

2010年3月スペシャルコラム『薬剤師探偵と雪の出会い(別れ編)』

※このコラムは愛する職場をモチーフにしたユーモアミステリーであり、フィクションです。

 白き衣を着せられた北の大地。その真ん中で足止めされた電車も2人の運命も、ゆっくりと動き出そうとしていた。
「む、邑上さん…?」
先ほどまでとはまるで違う、超然としたオーラをまとった女薬剤師に、青年はもう一度尋ねた。
「い、いったいどういうことですか?わかったんですか?ぼ、僕のこと…」
「ええ、わかりましたよ…全部」
 彼女は余裕に満ちた笑顔を見せる。
「え!?」
「馬渕さん…あなた、北広島市ご出身じゃありませんか?」
「そうですけど…それが何か」
「1つずつお話しますね。まずは…そう、これからいきましょうか」
 彼女は青年の持っている手帳を指差した。
「馬渕さんの身にいったい何が起きたのか…。もし大きな精神的ストレスのせいで馬渕さんが失踪し、記憶まで失ってしまったんだとしたら…そのストレスの原因は何か。それを解くカギが、この手帳にあります」
「ど、どういうことですか?この手帳に何が…」
 青年は改めて手帳をパラパラとめくる。
「馬渕さん…ギャンブルがお好きですよね?」
 青年の指が止まる。一瞬の沈黙の後、青年は感情のない声を絞り出した。
「は…はい、け、競馬を少々…。そ、それが何か」
「スケジュール帳の丸印がつけられた日付は…7月から9月の土日でしたよね。雪の降る北海道では、競馬のレースは7月から9月の土日…あなたはきっとレースの日をチェックしていたんでしょう」
「そ…そうだ、僕は競馬が趣味で…でも、それが記憶をなくしたことと何か関係があるんですか?」
「人間は自分を守るために辛い記憶を封印することがあるそうです。あなたが競馬の記憶を失っていたとすると、それは記憶喪失の原因となったストレスに競馬が関係しているからではないでしょうか」
 そこで彼女は一息つく。そして、青年の目を見つめながら厳しい口調で言った。
「これ以上は…思い出すのも辛いことかもしれませんが…よろしいでしょうか」
 青年は一瞬の躊躇の後、視線をそらさずにはっきりと答えた。
「はい、お願いします!」
 その言葉に彼女はゆっくりとうなずき、再び推理を続けた。
「馬渕さん、あなたは競馬に多額のお金を賭けるようになったのでしょう。勝った時の快感が忘れられず、どんどんお金をつぎ込むようになってしまった…。やがては借金までして…」
「…おっしゃるとおりです。借金もどんどん増えて…勝てば取り戻せると思ってまた賭けて…。でも、そんなに甘いもんじゃありません。バカですよね…気がついたら負債はとんでもない金額になってました」
「あなたはその負債を分割で毎月、月末に支払っていた…」
「はい…毎月何とか給料と貯金で支払ってました。でもどうしてそのことを…」
「スケジュール帳の毎月末日にあった『キムラ』の文字…あれは木村さんのことではなく、『払う』と書いてあったんですよ」
「そ、そうだ!毎月無事に支払ったら『払う』とメモしてたんです。すいません、悪筆で…」
「そのメモが10月まででなくなっていたということは…」
 彼女のその言葉に、青年は手帳を閉じてから力なく答えた。
「ご想像のとおりです。ついに首がまわらなくなって…。年が明けてまた新しい1年が始まると思ったらもうどうしていいかわからなくなって…着の身着のままで家を飛び出したんです」
「それがあなたのストレスだったんですね」
 彼女は優しく微笑む。それにつられて青年も無理に微笑んだ。
「でも邑上さん、どうしてわかったんですか…僕がギャンブル好きだと…。手帳のメモだけじゃ…」
「あなたがプロパーの話をしている時に使った『大穴』『熱い』という言葉…ギャンブル用語です。後ろから来る鈍行電車に『さされる』とおっしゃったのも、追突されるという意味ではなく、追い抜かれるという意味のギャンブル用語…」
「…なるほど」
 青年はそう言って大きくため息をついた。
「家から飛び出した僕は、どうしていいかわからなくて…何だかふるさとに行きたくなったんです。それはいったいどこだったんでしょう…それだけがまだ思い出せない」 「…広島ですよ」
「え?」
 即答した彼女に青年は驚く。見ると彼女は今までで一番優しい目をしていた。
「馬渕さん…おっしゃいましたね。おじいちゃん子で、よくおじいちゃんからおじいちゃんのおじいちゃんの話を聞いていたと…。私も前に広島出身のお医者さんと仕事してたから知ってるんですけど、馬渕さんが先ほど使った『布団をひく』『はぶてる』という言葉は、広島弁。道産子の馬渕さんが広島訛りなのは、もしかしたら…代々ご先祖から訛りを受け継いできたからではないでしょうか」
「広島弁…そうだったんですか。うちではみんな当たり前に使ってたので知りませんでした。でも、祖々々父も広島弁だったとすると…」
「ええ…もしかしたら…」
 彼女はまるでおとぎ話をする母親のようにゆるやかに言葉をつむいだ。
「維新後、明治政府によって廃藩置県がしかれ、江戸時代の藩はなくなり県となりました。そしてまた、全国から有志が集まり、北海道の開拓が行われました。この北の大地にいくつかの街が作られ、そしてその中の1つ…広島出身の有志達によって作られた街に、人々は『北広島』という名前をつけた。もしかしたら馬渕さんのおじいちゃんのおじいちゃんは…」
「そうです、今全て思い出しました。僕の祖々々父は、明治時代に広島から北海道に移住してきたんです。そして北広島と名づけられたその土地に、馬渕家は代々暮らしてきた…。、僕は祖父からそんな話を聞くのが大好きでした。何で、こんな大切な想い出まで忘れちゃってたんでしょう…」
 彼女は興奮気味に話す青年を黙って見守っている。
「そうだ、ギャンブルの借金でどうしようもなくなった僕は、馬渕家のふるさと…広島に行ってみたくなったんです。それで空港行きの電車に乗った…」
「全部つながりましたね…馬渕さん」
「はい…。でも、現状は何も変わりません。僕はもう…」
 再び大きな不安に陥りそうになる青年に、彼女は澄み切った声で言った。
「そんなことありませんよ、馬渕さん。開拓が正しいことだったのかどうか…それは私にはわかりませんが…」
 彼女は窓の外を見る。青年も視線を窓の外に向けた。空からの贈り物はいつしか弱まっている。
「この過酷な土地に街を作った勇者の血が、あなたにも流れていることがわかったじゃないですか。馬渕さん…今あなたの前に立ちふさがっている問題は過酷なものですが…あなたにもきっと切り開ける…私はそう信じています」
「邑上さん…」
 と、そこで車内放送がる。
「皆様、長らくお待たせ致しました。整備が無事完了いたしましたので、ただ今より終点・新千歳空港に向けて出発いたします」

*

終着駅のホームに2人は降り立っていた。
「邑上さん…本当にありがとうございました」
 深々と頭を下げる青年に、彼女は優しく答える。
「そんな、やめて下さい。私は何も…。それより、馬渕さんはこれからどうされるんですか?やっぱり広島に?」
「い、いえ…もうひとつのふるさとに帰るのは…また今度にします」
 青年は頭を上げてから、少し照れくさそうに言った。
「今の僕じゃ…ご先祖様たちに合わせる顔がないですし…、邑上さんに言われたように、今は目の前の問題を何とかしないと…」
「そうですか」
「それに…笑わないで下さいね。実は僕、薬学部の出身なんです。プロパーも嫌いじゃないですけど、…邑上さんに会って、何だか薬剤師になりたくなりました。借金返して、この夢を叶えたら、その時こそ堂々ともうひとつのふるさとに行きます」

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 青年の瞳には、確かな希望の灯が宿っていた。彼女はそっと右手を差し出す。
「いつか世界薬剤師学会でお会いしましょう、ミスター・馬渕」
 青年は力強くその手を握り返した。
「本当にありがとうございました、邑上さん。空も晴れてきて、九州行きの飛行機、飛ぶみたいです。確か明日からお仕事でしたよね」
「え、ええ…」
「じゃあ、お気をつけて」
 青年はそう言ってもう一度頭を下げると、北広島行きのホームへと去っていった。その後ろ姿を見ながら、彼女はそっと呟く。
「もうひとつのふるさと…か。私も大事にしないとな…」
 彼女は携帯電話を取り出した。
「あ、もしもしティヴェンヌ?あの、悪いんだけどもう一晩泊めてくれない?大丈夫、職場には雪で帰れなかったことにするから」

(了)

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