コラム

2009年3月スペシャルコラム『薬剤師探偵と消えたカステラ(解決編)』

※このコラムは愛する職場をモチーフにしたユーモアミステリーであり、フィクションです。

 午後2時、薬局にて謎解きが始まった。そう、この不可思議なカステラ消失事件を解き明かすのは、もちろん邑上さんだ。彼女はまるで来るべき時を待つかのようにしばらく沈黙を守っていたが、やがてあの赤い椅子からゆっくりと重い腰を上げた。
「では……説明を始めます」
 僕、峰岸くん、ティヴェンヌ、そして呼び戻された良夫が見守る中……彼女は静かに口火を切る。
「まず……犯人の条件を整理してみましょう。
 条件①、犯人はあの時間そこにカステラがあることを知っていた人物。
 条件②、犯人は鍵のかかった部屋の中にあるカステラを食べることができた人物。
 条件③、犯人はカステラを食べる強い動機のある人物。
 ……高岡さん、あなたは条件①はクリアじゃが、②や③に関しては微妙です」
「は、はい……」
 と、良夫が緊張した面持ちで答える。続いて8個目のハンバーガーを手にした峰岸くんが口を開く。
「でも、カステラのことを知っていて、部屋に侵入できる合鍵を持っているのは……事務員さんだけってことになるっスよ、邑上さん」
「確かに事務員さんなら条件の①と②はクリアじゃ。でも、事務員さんたちにはその時間事務所で仕事をしていたというアリバイがあります。カステラを運んだ水田さんを含め、事務員さんにカステラを食べるチャンスはないぞよ」
 確かに邑上さんの言う通りだ。それに、事務員さんならいつでも水田さんに頼んでカステラをもらえるはずだ。危険をおかして盗み食いする必要はない。でも、他に合鍵を使える人物なんて……。
「別に合鍵なんか持っていなくても、条件②はクリアできるのじゃ」
 邑上さんが僕の心を見透かしたようにそう言った。
「んなバカな」
 と、ティヴェンヌが声を荒げる。合鍵を使わずに鍵のかかった部屋に入るなんて……それは僕にも到底不可能なことに思えた。そんな僕の戸惑いを包み込むように、邑上さんは優しく言う。
「簡単なこと……最初から部屋の中にいればいいんじゃ。犯人は福橋先生と高岡さんが戻ってくる前から、あの部屋に隠れていたのじゃ」
「そんな、いったいどこに隠れてたって言うんスか?」
「あの部屋の奥には福橋先生の仕事用の大きなデスクがあった。人1人くらいその下に十分隠れられるでしょ、峰岸さん」
「でも邑上さん」
 僕も思わず問いかける。
「それはおかしいよ。あの時間水田さんがカステラを運んで行ったのはあくまで偶然だよ? それを予測してあらかじめ部屋に隠れてる犯人なんて……いるわけがない」
「犯人は別にカステラのために部屋に侵入したわけじゃないの、山田野さん。犯人の目的は他にあった。そう、それは福橋先生のデスクの書類やパソコンから、データを盗み見ることよ……。つまり犯人は産業スパイ」
 まさか……。邑上さんの語調が強まる。
「犯人はその時間福橋先生が確実に部屋にいないことを知っていて、なおかつ院内にいても怪しまれない外部の人間……つまりそれは……」
「……先に面会を終えたプロパーさんっス!」
 峰岸くんが叫んだ。邑上さんの眼が光る。
「そう……。一番最初に面会を終えたフィリップ薬品の一渡瞳さん……。彼女は自分の後2社の面会が応接室で行われることを知っていたわ。つまり、それから少なくとも20分は確実に福橋先生は部屋にいない。だから彼女は忍び込んだのよ……」
「そんな……」
 良夫がか細い声で呟く。邑上さんは推理を続けた。
「でも、思いがけないことが起こった。たまたまその時、事務の水田さんが部屋にカステラを持ってきてしまったんじゃ。水田さんのノックに驚いた彼女は、とっさにデスクの下に隠れた……デスクをあさっていた犯人なら難しいことじゃないわ。そして水田さんは部屋に誰もいないと思って手前のテーブルにカステラを置いた……」
 邑上さんの言葉は流れるように続く。
「犯人としては早く逃げたい。でも、さらに運の悪いことに水田さんと入れ替わりに福橋先生と高岡さんが部屋に戻ってきてしまった。応接室のストーブが壊れたせいで、高岡さんとの面会は部屋でやることになったからね。つまり、2人が部屋のソファで話している間、犯人の彼女はずっとデスクの下で息を潜めていたのよ……。
 内線が鳴らなかったのもその証拠。だって万が一デスクの上の電話が鳴ったら福橋先生が近づいてきて、隠れてるのがバレちゃうかもしれないでしょ? おそらく彼女はデスクの下から手を伸ばして電話線を抜いていたのね……」
 すごい……。バラバラだったパズルのピースがどんどんはまっていく……。
「でも邑上さん」
 そこで峰岸くんが反論した。
「その推理なら犯人は一渡さんとは限らないんじゃないっスか? 時間的にギリですけど、2番目に面会を終わったナイッシュ・バンバンの羽土宏道さんだって……同じことができるんじゃ……」
 う〜ん、確かに彼の言い分にも一理ある。しかし邑上さんはあっさりと答えた。
「だって……窓が開いていたじゃない。あれは犯人が開けたものよ……自分がデスクの下に隠れていた痕跡を消すためにね。長時間一箇所にいたら残ってしまう、女性特有の痕跡を……」
 女性特有の痕跡……?
「コロンの香りね。ま、私はバタークリーム派だけど」
 ティヴェンヌがそう得意気に言った。邑上さんは微笑んでうなずく。なるほど、そういうことか!
「そうじゃ、つまりこの事件の犯人は女性……、一渡瞳さんしかありえない。
  高岡さんと福橋先生が部屋を出て行った後、彼女はデスクの下から出てきて、コロンの残り香を消すために窓を開け、電話線を戻し、そしてカステラを食べた後、人目を盗んで部屋を出て行ったのよ……。部屋の内側からなら、当然鍵がなくても開錠できる」
「でも、それなら何故彼女はカステラを……」
 僕は静かにそう言った。そう、邑上さんの推理で条件①と②はわかったが、まだこの疑問が残されている。
 すると邑上さんは僕の問いには答えず、良夫の方を静かに見た。気がつけば良夫はとても青い顔をしている。まるで何かに怯えるように……。そして。その震える唇で言った。
「ぼ、僕が……面会の中で……ちょっとフィリップ薬品の薬に批判的なことを言ったから……。お、同じような薬でうちにはもっといいのがあるって……」
「やはりそうじゃったか」
 邑上さんは穏やかに言葉を継いだ。
「彼女はそれをデスクの下で聞いてしまった。だから、ただ立ち去るだけでは気がおさまらず、カステラを食べた……。あわよくば高岡さんに罪を着せ、スワンダンス製薬のイメージを悪くするため……。これが犯人の動機……条件③じゃ」
「そ、そんなつもりはなかったんだ。ただ、うちの薬を紹介しようとしてつい口がすべって、ああ、ああ……」
「以上、調剤完了じゃ」
 ……良夫の悲痛な嘆きの中、邑上さんはゆっくりとそう言った。きっと犯人の彼女も、ちょっと魔がさして部屋に侵入してしまったのだろう……薬に関するデータなどが欲しくて。
 薬は膨大な研究と臨床の中で生み出された人類の偉大な功績であり、病に立ち向かう希望である。僕たちはけしてそのことを見失ってはならない。

 こうして、甘いカステラから巻き起こった事件はちょっと苦い後味をもって終わりを迎えたのである。

*

イメージ あの事件の翌日、予定通り邑上さんはこの病院を去った。今では峰岸くんがしっかり後をついでくれている。ティヴェンヌも相変わらずだ。
 ちなみに、邑上さんが去った後でわかったのだが……。
 実はあの事件、すべて福橋医師の自作自演だったのだ。カステラをもう一個食べたいがためについた些細な嘘が大騒ぎになってしまったために、引っ込みがつかなくなってしまったらしい。
 彼は院長先生に呼び出されて行く途中で食慾に負けて引き返し、急いでカステラを食べた。窓はただ単にその時換気のために開けたのだという。内線が繋がらなかったのも、彼が外線を保留にして別の部署へ回す手順を失敗して混線させていたためだった。
 こうして条件①②③をあっさりクリアし、犯人は福橋医師本人だったというわけだ。
 はあ……、何だかなぁ。まあ愛するこの職場で、そんな事件なんて起こるわけがないんだよ、そもそも。水田さんのお母さんのカステラがあまりに美味しすぎたってことにしておこう。
 今度邑上さんに会った時、この真相を話したらいったいどんな顔をするだろうな。そんなことを考えると再会が今から楽しみでならない。

−了−

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