コラム

2008年9月『絆の意味』

 携帯電話が普及してもうどれくらいになるだろう。私が高校生の頃にはそんなこじゃれたものはまだ身近になく、友人とのコミュニケイションは専ら直接会って話をすることであった。家の自室では誰かに何かを伝える手段などなく、だからこそ「明日はこのことを伝えよう」「明日はこんな話をしよう」なんて楽しみにしていたものだ。また、どうしても話をしたい時は相手の自宅に電話をかけるしかなく、異性にかける時などは緊張してなかなか電話番号の最後の一桁が押せなかったり、やっとかけたと思ったら何故か最初から不機嫌そうな父親が登場したり……と、それが当たり前であった。
 それが今や携帯電話は日用品、どんどん軽量化し、カラーになり、メールやインターネットが備わり、写真を撮ったり音楽を聴いたり……と目覚ましい進化である。
 しかしながら、コミュニケイションの手段が便利になればなるほど、絆というものはどんどん希薄になっていく気がするから不思議だ。いつでもどこでもボタンひとつで相手の声が聴ける時代なのに、こんなに遠い気がするのは何故だろう?

 それはきっと、いくら手段が簡単になっても、人間関係というものはけして簡単にはならないからだろう。心の距離まで縮まるわけではないからだろう。
 アドレス交換が交友の始まり、数打ちゃ当たるで電話をかける、出たくない着信には出ない、言いにくいことはメールで済ませる、メモリーを消去して一方的に終わりにする、言い訳できるような曖昧な文面を工夫する……いつしかそんな方法に私たちは頼りすぎてしまっているのかもしれない。
 携帯電話を忘れただけで不安になったり、返信や着信がないから寂しくなったり、メールの文面の裏を読んだり、履歴で人を疑ったり……なんか滑稽でかっこ悪い話だ。
 着信拒否ひとつで終わる人間関係。メモリーを消去したって過去が消えるわけではないし、アドレスを変更したって事実が変わるわけでもない。操作がお手軽になって、出会いや別れまでお手軽になってしまったのか? 迷惑メールに悪戯メール、出会い系サイトに犯罪請負サイト、掲示板に無記名での誹謗中傷……愚かな時代である。携帯電話やネット世界が、まるで孤独や悪意の温床のようだ。

イメージ でも、アドレスなんか知らなくても、遠く離れていても、信頼できる人がいる。大切な人がいる。思えばそんな人たちとは、きっと携帯電話があろうがなかろうが繋がっている気がする。
 私たちは大人になればなるほど、出会いや別れを選んでしまう。損か得か……そんな基準で寄り添う相手を選んでしまう。でも、自分にとってプラスになる時には繋がっていてマイナスになると切れる……絆ってそんなに都合のいいものではないはずだ。
 誰かと知り合えば、その人のおかげで楽しいことや嬉しいことが増える代わりに、その人のせいで迷惑や面倒事もまた増える…それが絆というものだ。とばっちりも巻き添えも構いやしない……そんなふうにお互いを思えたなら……素敵でしょう。

 もちろん携帯電話やインターネットのおかげで助かることもたくさんある。広がるものもたくさんある。だからこそ、すべての手段や基準をそこから始めてしまう前に、絆の意味についてもう一度考えてみよう。

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