コラム

2008年3月『百の無駄骨と万が一の可能性』

 学生の頃、部活の主務をやっていたことがある。主務というのはまあマネージャーのようなもので、その部活においては主将、つまりキャプテンの相棒とも呼べる役職だった。主将の描く様々なプランを実現すべく、下調べをしたり見積もりをとったり準備したりしたものだ。そしてその業務の9割は直接的に役立つことはなく、調べてみた結果無理だったね……ということが多かった。

 そういうわけで一時期、この主務業務について悩んだりした。「やってもやらなくても結局同じじゃないか、やってることのほとんどは無駄骨じゃないか」と、自分の業務に価値を見失いかけていた。まあ暇な学生ならではのこんな悶々とした想いがあったわけだが、それはしばらく私の心に淀んだ霧をかけていた。しかしながら、自分の中で問題を意識して暮らしているとその解決のカギが落ちているのに気がついたりするもので、この迷いの霧はある日の出来事によっていともあっさりと晴れることとなった。

 ある夜のこと、立ち読みをしていたコンビニがいきなり数台の消防車に取り囲まれた。何事かと思って外に出ると、火災の通報を受けて出動してきたとのことだった。まあ結局何事もなかったわけだが、その時少しだけ消防士さんと話をした。
「いやあ、消防署へくる通報には誤報も多くてね、勘違いや悪戯だったりするんだよ。だから無駄骨の出動も多いんだ。でも、通報のたびに全力疾走で駆けつけないと、万が一の事態は防げないからねぇ、ハハハ……」
 消防士さんはそう笑って帰って行った。

 ……そう、つまりはそういうことなのである。万が一の可能性のためには、百の無駄骨が必要なのだ。いや、それでも足りないくらいなのだ。私たちが平穏に暮らしていられるのは、消防士さんたちの無駄骨があるからなのだ。
この一件で不思議に私の心の霧は晴れ、また主務業務が楽しくなったのであった。めでたしめでたし。

 今、医療の現場でもそうである。『念のため』という気持ちは、医療の基本だ。万が一の可能性のために検査を行う、予防的な治療を行う…結局何もなかったとしてもそれらは必要なことであり、何もなかったのならそれが何よりなのだから。
実際にドライバーが教習所で練習した心肺蘇生を行う現場に居合わせることは滅多にない、医学生が詰め込む数々の病気やその治療法の勉強……一生使わずに終わる知識のほうが多いかもしれない。しかし、万が一の可能性にもし立ち会ったときのため、学ぶことをやめてはいけない。それが私達の仕事というものでしょう。

 では最後に、白熱電球を発明するためにおよそ2000回も実験に失敗したあの人の言葉を。
「うまくいかなかった実験も無駄ではない。2000回に及ぶ実験の積み重ねが、ついにひとつの成功を生んだのだ」

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