旧美唄病院コラム

2012年3月『故郷は美唄』

 いよいよ別れのときが来た・・・この美唄病院で勤務するのも今月で最期だ。40年以上の歴史を持つこの美唄病院、私が知っているのはその中のほんの一部だがそれでもこの病院のことは生涯忘れることはないだろう。
 医学部の同級生たちとはすこし歩くテンポをずらし、これから先の人生をどうしようか考えあぐねていた2006年春・・・やっぱり働きたいという気持ちからあらためて始めた就職活動の中でたまたま紹介された病院の1つがここであった。縁もゆかりも無い北海道で医者をやる・・・そんな人生の選択肢があるなんて思いもしなかった。まあせっかくだからと半分観光気分で見学に来たのが2006年の夏のことだ。緑の小高い丘の上に立つ白くてどこかはかない建物・・・当時「希望ヶ丘病院」と呼ばれたその病院は私の知っている東京の大学病院とはなにもかもが違っていた。正直病院として当たり前でないところもたくさんあった。しかしそれを一概に批判する気はない。この病院が今の形に辿り着いたのにはそれなりの長い長い道のりがあったからだと思う。ただ自分の居場所がここにあるのだろうか・・・そんなことを思いながら私は院内を見学した。親戚も、知り合いも1人もいない北海道。その美唄市の山奥にある古い精神科病院・・・。決め手となったのは4階にあがったときに見た体育館だ。学校、というものが大好きだった私は病院の中にこんな大きな体育館があることにとても驚き、そして感動した。そして勝手に「これが精神科なんだ」と妙に納得した。そして思った・・・何か辛いことがあっても緑に囲まれたこの体育館のステージでギターを弾けば必ず元気になれるだろう、と。そんなわけで「職場に体育館があるから」というなんとも単純な理由で私は就職を決めた。そして思った。多くの同級生は都会の大学病院で働いている・・・どうせ同じ土俵で勝負しないのならむしろとことん同級生たちが経験できないことをしてやろうと。もちろん、冬に開院予定の美唄メンタルクリニックも、数年後に予定されている新病院も私の背中を押したのだった。

 そんなわけで2006年秋から就職。正直最初は寂しさもあったが、温かい人たちに助けられながら私は仕事を覚えていった。確かに高度な設備を備えた東京の大学病院じゃない。しかしここでしかできない経験をたくさんした。学位も名誉もここでは関係ない、目の前に居る患者に対してそこにいる治療者が今できることを努力するしかないのだ。そして、落ち込んだりストレスがたまったときには予定通り体育館でギターを弾いた。そして帰り道の通勤バスで、広大な大地に沈んでいく夕日を見た。一度しかない人生で、この景色に出会えてよかったと心から思った。

イメージ あれから5年半・・・本当にいろいろなことがあった。とても言葉では語りきれないくらい、嬉しいことも悲しいこともたくさんあった。そして全ては「学んだこと」であった。精神科医療の素晴らしい面、おそろしい面・・・ここで眼にした全てを記憶しておきたいと思う。

 来月からはいよいよ長年の夢であった新病院が始まる。その名は「江別すずらん病院」・・・立地も設備も美唄病院とは大きく異なる。もう建物の老朽化に悩むことも、カメムシと戦うことも、鳥たちのコーラスも、虫たちのオーケストラも、オバケに怯える当直ともお別れだ。長い間、患者さんと職員を守ってくれた美唄病院・・・本当にお疲れ様でした。
 私は美唄病院で医者になった。その恩はぜったいに忘れません。

 いつかこの建物が姿を消しても、患者さんや職員が世代交代しても・・・この丘に病院があったことを、覚えていたいと思います。そして理事長先生のお言葉をお借りして、最期に言わせて頂きたいと思います。

 新しい江別すずらん病院は、美唄出身の病院です。

(文:福場将太 写真:栢場千里)

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