コラム

2020年11月「沈黙の秋」

 人は言葉だけで意思疎通をしているわけではない。むしろそれ以外の部分が大きく、表情や声色や雰囲気を感じ取り、同じ空気と空間を共有し、その上で言葉を交わすからそこに込められた気持ちを察することができるのだ。言葉や文字だけで気持ちのやりとりをするにはよっぽどの信頼関係が必要であり、それもなしにラインやSNSだけで交流しようとすれば行き違いが起こるのは当然である。書き込みや発言に対して不適切だとすぐに批判するのが昨今の風潮だが、そもそも言葉だけを見て良いとか悪いとかいうべきではなく、そこに込められた気持ちをしっかり想像できているかが問題だ。お手軽にメッセージが発信できる時代になったのはいいが、受信する側の想像力が追いついていないように感じる。
 人間はみんな育ってきた環境も見てきた物も違う。世代によって当たり前も違う。それでもわかり合うためには、言葉だけでなく直接触れ合ってお互いの気持ちを想像し合わねば、それは成し得ないのである。

 そこにきてのこのコロナ情勢だ。直接触れ合う頻度を減らさなくてはならなくなった。しかもマスクをして、その気はなくてもお互い相手が感染者かもしれないと疑ってかからなければならない。顔の半分が隠れて表情も伝わらず、声色もわかりにくい。ライブ動画で繋がったとしてもやはり同じ空気や空間を共有しているわけではない。これでは相手の事情や心情を察するのが難しく、どんどん信頼が低下し、疑いが増幅するのは当然だ。言葉に込められた気持ちなんて想像できるはずもない。

 太宰治の名作短編『走れメロス』において、ディオニス王は誰も信じられなくなり、みんなが自分の命を狙っていると疑って周囲の人間を次々に殺していく。そして賑やかだった町は静まり返り、人々は緊張の中で沈黙して暮らすようになってしまった。
 今の日本社会はどんどんここに向かっているような気がしてならない。感染への恐怖、触れ合いの少ない生活、それによって徐々に人を疑う気持ちが強まり、自分の命を守るために疑わしい者を排除する思考に至る。感染した者やその疑いがある者に対する誹謗中傷、自粛下で外出する者への攻撃、マスクをするしないを巡ってのトラブル…。新型コロナウイルスが奪ったものは体の健康以上に心の健康、そして『人を信じられる』という社会の健康である。

 感染した時、正直肺炎になることよりも周囲から受ける仕打ちの方が怖い。ウイルスよりも人間の方が恐ろしい。これ以上お互いを信じられなくなれば、待っているのはディオニス王だらけの世界。お互いを処刑し合う世界。

 だから想像しよう。疑う前に、悪い奴だと決める前に、相手の事情を、苦労を、痛みを、気持ちを…ちゃんと想像しよう。
 きっとまだ間に合う。人間は取り返せる。自分が信じなければメロスは戻ってきてはくれないのだ。秋の夜長にこの名作文学をぜひ。

(文:福場将太)

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