コラム

2018年9月スペシャルコラム「刑事カイカン 空と毒薬(後編)」

*このコラムはフィクションです。

■第四章 Detectives

「け、警部、一体どういうことですか?」
 私は思わず問いかけた。
「よし、手短に説明するから君は空港出口に向かうんだ。ほら、急いで!」
 電話の向こうの低い声がまくしたてる。私は言われるままに、周囲の捜査員たちに会釈しながら機内客室の通路を抜けていく。
「いいかいムーン、この事件の最大にして根本的な疑問は『犯人はどうして飛行機の中で犯行に及んだのか』ということだ。確かに推理小説やサスペンスドラマではお馴染みのシチュエイションだけど、現実世界ではどうだろう。飛行機の中で殺人を決行するメリットがあると思うかい?
 容疑者も限定されるし、搭乗前には保安チェックで持ち物も確認される。機内でも防犯のために乗務員は常に目を光らせている。犯人にとってとても身動きの取りづらい状況だ。仮にその状況でも決行できる大胆不敵なトリックを思い付いたとしてもそこまでして機内での犯行にこだわる必要がない」
 確か似そうだ。電車や客船や飛行機の中で事件が起こるのはフィクションの世界の話。物語の舞台としては恰好だが、現実では全く合理性がない。私は「そうですね」と答えながら機外に出た。
「そこで私はこう考えた。犯人は何も機内での殺人を望んだわけではない。しかし仕掛けておいた毒がたまたま機内で発動してしまったのだと。
 では毒はどこに仕掛けられていたのか?被害者が機内で口にした物はアップルジュースと酔い止め薬。ジュースに毒が入っていたら味見した奈々さんもただではすまない。それに紙コップからも毒物反応は出ていない。よってジュースは関係ない」
「ではやはり酔い止め薬の錠剤ですか」
「そうだね。被害者は数種類の薬をジャラジャラ持ち歩いていた。その中の1錠に毒が仕込まれていた。そしてその1錠を引き当てて飲んでしまったんだよ」
「しかし警部、薬は被害者が自ら用意した物ですよ」
「スーツの左ポケットに入れていたんだったね。彼は座席に着く寸前まで上にジャンパーを着ていたのだから誰かがポケットに毒の1錠を放り込むことはできない。妻の奈々さんならジャンパーを着る前、あるいは脱いだ後に放り込むこともできたかもしれないけど、被害者に酔い止め薬を飲むように勧めたのは彼女自身だ。せっかく毒を仕掛けたのに自分の隣で死なれたら何の意味もない。彼女が犯人ならできるだけ自分と離れている時に飲んでほしいと思うはずさ」
「では、奥さんは犯人ではないと」
「そうだ。そしてCAの岡本仁美さんも違う。彼女には被害者のポケットに毒の1錠を放り込むチャンスはない。しかも急変した被害者に対して人工呼吸をしようとしていた。彼女が毒殺犯ならそんな恐ろしいことはしないだろう。薬の欠片でも口の中に残っていたら大変なことになる」
「そんな…」
 私は人影のない空港廊下を早足で歩きながら返す。
「では一体誰が…。もう被害者の関係者はいませんよ」
「もう一人いたじゃないか、君の報告の中に」
 そこで警部は耳に残る重い声で言った。
「犯人は中村由加さんだよ」

「中村さんが…?関係者といっても彼女は機内でたまたま出会っただけですよ。たまたま被害者の座席に間違えて座っていただけの…」
「座席を間違えたのはたまたまだろう。でも彼女と被害者は赤の他人じゃない。二人は顔見知りだった可能性がある。いいかいムーン、よく考えてごらん。彼女が間違った座席から移動する時、被害者が彼女のバッグを荷物入れから取ってあげたんだったね」
「はい、彼女の青いバッグを。しかしそれが何か?顔見知りじゃなくても荷物を取ってあげることはあると思いますが」
「そうじゃない。いいかい?問題なのは、どうしてそれが彼女のバッグだとわかったのかということだ。荷物入れには君のバッグも入っていたのに」
 私は思わず立ち止まる。そうだ…よくよく考えればおかしい。彼は彼女が返事をする前に率先してバッグを取ってあげた。まるでそれが彼女のバッグだと知っていたかのように…。彼が遅れて飛行機に乗ってきた時、他の乗客はもう着席していた。彼女のバッグを荷物入れに上げる場面を目撃できたはずはないのだ。
「旅行バッグを知っている関係…。ムーン、二人は親しい仲だったんじゃないかな。おそらく被害者が結婚する前に交際していたんだ。そしておそらくは悲しい別れ方をした」
 安土弘樹の顔を見て目を丸くした由加の顔が浮かぶ。あれは座席を間違えたことに気付いた驚嘆ではなく、かつての恋人に再会した驚愕だったのか。気持ちが追い付かないが頬に当てた携帯電話からはさらに推理が続く。
「だとすると、奥さんを連れた被害者を見て由加さんには殺意が生じた可能性がある。親しい関係だったのなら被害者がポケットに薬を入れて持ち歩く習慣を知っていてもおかしくない。そして彼女には毒の1錠をそこに放り込むチャンスもあった」
「いえ警部、そんなチャンスはなかったはずです。被害者がジャンパーを脱いだのは彼女が後ろの席に移った後ですよ」
「そう、だから彼女は被害者が着席した後でやったのさ。飛行機の座席には肘掛けがあるよね。つまり窓際席の椅子を後ろから見た時、背もたれは壁とぴったりくっついているわけじゃない。肘掛けの分だけ背もたれと壁の間には空間がある」
「まさかそこに手を突っ込んだと?」
 電話の向こうで警部が立てていた指を鳴らすパチンという音がした。
「そのとおり。由加さんは細身で腕も細長かったんでしょ?きっと突っ込めるさ」
「確かにそうですが…」
「被害者が大柄ならポケットには手が届きやすかっただろう。もしかしたら肘掛けの上にポケットが乗っていたかもしれない」
 想像してみる。後ろの席から手を伸ばし、背もたれと壁の隙間から前の席に座る男のスーツの左ポケットに錠剤を放り込む…。不可能ではないだろうが、あまりにも突拍子がない。
「しかし警部、そんなことをしていたら周囲の乗客に見られるかもしれません。先ほど警部もおっしゃいましたが客室乗務員だって乗客の不審な行動には目を光らせているでしょう。それに被害者自身も、誰かが自分のポケットに手を突っ込んできたら気付くのではありませんか?」
「フフフ…確かにね。でも誰にも見られずに、なおかつ相手にも気付かれずにやれるチャンスがあるんだよ。君は眠っていたから知らないだろうけど、夜のフライトでは離陸する時に客室を消灯するんだ。彼女はその闇の中でやったのさ。だから目撃されなかった。
 それに離陸の時は音も振動もすごい。被害者の意識も無事に飛ぶかどうかに向いている。気付かれるリスクはかなり低いと思うよ。
 ちなみに着陸の時も消灯するんだけど、君は乗務員控室にいたからね。ここでも客室の消灯を経験できなかったからまあ思い付かなくても無理ないよ」
 そういえば聞いたことがある。飛行機の事故は離着陸の時に最も多い。そのため外に緊急脱出する場合を想定して乗客の目をあらかじめ暗闇に慣れさせる、そのために客室を消灯するのだと。
 そうか…。警部の推理は徐々に説得力を増してくる。いや待て、やっぱり難しいんじゃないか?
「しかしですね、やはり無理がありませんか?背もたれと壁の間の隙間に手が入るかどうか、一体どのタイミングで消灯して何秒くらい暗いままなのか、正確にはわかりません。全てはぶっつけ本番になります」
「由加さんには正確にわかっていたのさ。隙間の大きさも消灯の時間もね」
「何故です?」
「だって彼女はCAさんなんだから」

 携帯電話を落としそうになった。なんだって?中村由加がCA…つまりは客室乗務員?
「私が彼女を疑ったもう一つの理由がこれだよ。彼女は身分を偽っている。君には喫茶店のウエイトレスと紹介したけど、実はCAなんだ。君が乗ったガーネット航空ではなく、ギザ航空という別の会社で働いている。いや、正確には働いて痛んだけど先月末に退職している。会社に確認を取ったから間違いない」
「どうして彼女の嘘がわかったんですか?」
「君の聴取で彼女が口走った『ギャレー』という言葉が気になってね、ビンさんに訊いてみたんだ。そうしたらギャレーは確かに厨房のことだけど普通の飲食店の厨房じゃない、飛行機の中でドリンクやフードを用意する場所を表す言葉だった。ギャレーでてんてこ舞いになってるCAさんのことを業界用語でギャレリーナなんて言ったりするそうだよ。
 これでスキップの謎もわかった。『お客様に水を配る時にスキップして怒られた』と彼女は言ったけど、そのスキップは飛び跳ねることじゃない。飛行機の客室で順番に飲み物を配る時に一列飛ばしてしまうことを表したCAの業界用語だよ」
 私は黙るしかなかった。確かに大の大人がスキップすることに違和感はあったが、まさか業界用語だなんて考えもしなかった。悔しいな、ヒントはちゃんとあったのに。
「由加さんがCAなら被害者との出会いも想像がつく。岡本仁美さんの証言を思い出してごらん。偽名を使ってCAさんをナンパするのが彼の手口だった。偽名を使う理由はわかるよね?いつでもドロンするためさ。
 由加さんもかつてその手に引っかかってしまい、騙された挙句に逃げられてしまった。捜そうにも見つけられず、ずっと恨みを募らせてきたんじゃないのかな」
 安土弘樹はその後利用する航空会社を変更してまた同じようなことをくり返していたわけか…。最低な男だ。思わず怒りと吐き気が込み上げる。あいつが機内でどこか居心地悪そうにしていたのも、妻との会話にためらいがちだったのも、自分の後ろに捨てた女が座っていたからなのだ。その憎悪の視線を背中に感じていたからなのだ。
 そして中村由加…ずっと憎んでいた男と再会した千載一遇のこのチャンスに彼女が殺意を実行に移したのも頷ける。飛行機を降りたらまたあいつを見失い、おそらくもう二度と会うことはないだろうから。そう考えたらどうしても決行するしかなかったのだ。もちろんあいつが毒の1錠をまさか機内で引き当ててしまうとは思わなかっただろうが。
「ねえムーン、ちゃんと出口に向かってる?」
 警部の声で我に変える。ダメだ、どうしてもこの手の話になると私は理性を鈍らせてしまう。陰性の感情に囚われてしまう。普段無感動なくせにこんな時だけ私は…。
「すいません、すぐ向かいます」
 そう言って再び足を進める。体を動かすと脳の刺激になるのか、階段を下ったところで新たな疑問が浮かんできた。
「あの、警部、一つ質問してよろしいですか?」
「どうぞ」
「警部の推理どおりなら、中村由加の犯行は突発的なものですよね。それなのにどうして彼女は毒の錠剤を持っていたんですか?」
「だから君に急いでって言ってるんだよ。殺人以外の目的で毒を持ち歩く理由は一つしかないじゃないか」
 背筋が凍る。私は全てを理解した。彼女が退職していること、今まで行きたかった場所を巡って旅行していること、そしてあのどこか儚さを帯びた笑顔…。彼女は自らの命を奪うために毒薬を持っていたのだ。警部の言った「自殺説もある意味で当たっていた」とはこのことだったのだ。
「はい!」
 叫ぶように答えると、私は全速力で暗いロビーを駆け抜ける。彼女はもうとっくに空港を出てしまっただろう。
「警部、もうじき出口ですが、出たらどうすればよいですか?」
「よし。北海道警の知り合いに車を回すよう頼んであるんだ。連絡したら、ちょうどこの事件の担当だって。北海道のことなら彼女が詳しい。君は彼女と一緒に由加さんを捜してくれ」
「了解しました!」
「頼んだよ。何かわかったらまた連絡するから」
 そこで通話は切れる。携帯電話をポケットに戻したところでちょうど空港出口に到着する。外に出るとまだ夏の終わりだというのに氷のように冷たい夜気が押し寄せた。私の乱れた息も白くなりそうだ。目の前には黒い4WDがエンジンを唸らせて停まっている。
 すぐに運転席が開き、一人の人物が颯爽と降り立った。緋色のコートにハット…一瞬警部が現れたのかと思ったがそうではない。シルエットは少しだけ似ているが警部より小柄で細身、動きにも切れがある。
「ムーン巡査ね、待ってたわ」
 透き通る声が言った。
「北海道警察の法崎よ。さあ乗って、由加さんを捜しに行きましょう」
 これが彼女…法崎さくら警部との出会いだった。

 私が助手席に乗り込むと法崎警部はすぐにアクセルを踏み込んだ。場合が場合なので、私は慌ててシートベルトをすると簡単な自己紹介だけで済ませる。
「ウフフ、それにしてもムーンなんていかにもな名前ね」
「…すいません」
 ちらりと隣を見る。女性警部は北欧人と見まごうほどに肌が白く、鼻の高い顔立ちをしていた。軽くウエーブのかかった髪を後頭部でまとめているが、左頬を撫でるようにそこだけワンポイントで前髪が解放されている。そしてその声はまるで洋画の吹き替えのようにはっきりとしている。
「別に謝らなくていいのよ。どうせカイカンくんが付けたんでしょ。あの人の下に就いてどれくらいになるの?」
「今三年目です。あの、もし言いにくかったら本名で呼んで頂いても…」
「あらそんなことないわよ。三年目か…まあ色々大変だろうけど、ミットの慣例は守らなくちゃね、ムーンちゃん」
 知的だがどこか幼さも感じる仁美で彼女は語る。
「うちの警部とは長いんですか?」
「お互いまだ警部補だった頃…もう五年くらい前かな、あの人が北海道研修の時に知り合ったの。わかってると思うけど頭にドが付く変人でしょ。まずは空港で不審人物として職務質問、あたしは空港警察まで迎えに行ったわ。それが出会いね。それからすぐに署内で噂になったわ、警視庁からとんでもない刑事が来たって。
 いくつか事件を一緒に捜査したんだけど、そしたら聞いてよ、いつの間にか署内であたしのことを『女カイカン』なんて言う輩が出てきたのよ。失礼しちゃうでしょ」
「それは大いに失礼ですね」
「ほんとにねえ。確かにあたしもコートとハットを着込んでるけどあの人みたいにボロボロじゃないし、もちろん職務質問も受けないし」
 そう言いながら彼女は胸ポケットから細く短い物体を取り出して口にくわえた。タバコではない。私はぎょっとする。
「こらムーンちゃん、びっくりしないの。別にあの人の真似してるんじゃないわよ。これは昔からの習慣なの。それにあの人がくわえてるのは安っぽいおしゃぶり昆布でしょ。あたしのは北海道限定販売のスナックなんだから」
「そうですか…」
 この人が女カイカンと呼ばれたのは実は妥当だったのかもしれない。警部と捜査したという北海道での事件簿も聞いてみたいが今はそんな場合ではない。
「ところで、これからどこに向かうんですか?」
 私が本題に戻ったので彼女も口元から笑みを消す。
「とりあえず腫瘍道路には検問を張ったからその報告待ち。じっとしてても仕方ないから札幌方面に向かって走ってるわ。電車、バス、タクシー…由加さんがどの手段でどこに向かったかがわからないから雲を掴むような状態だけどね」
「私は何をお手伝いすればいいですか?」
「彼女と直接会って話したあなたなら、彼女の行き先のヒントを何か持ってるかもしれない。だからゆっくり思い出して…彼女のこと。それがカイカンくんの指示」
 そこで車は日本一長い国道に入り、彼女はさらにアクセルを踏み込んだ。

 深夜2時を過ぎたが未だに中村由加の消息はわからない。どこかのホテルに宿泊しているのか、それともこの夜の中にいるのか。考えた句はないが、もしかしたらもう飛行機でも行けない天井の国へ旅立っているのかもしれない。
 機内での彼女の様子を色々思い返して見るが、何も見つからない。ひとまず法崎警部と私は道警本部の駐車場で待機している。
「早まらずに、あったかいベッドの中にいてくれればいいんだけどねえ…」
 スナックを口元で動かしながら運転席の女性警部が言う。
 そうですねと返そうとしたところで私の携帯電話が鳴った。失礼します、とそれに出ると東京の変人上司。
「ムーン、そっちはどうだい?」
「すいません、まだ見つかりません。ホテルや民宿も当たってるんですけど…」
「そう…。実は今、中村由加さんの借りてた部屋に来てるんだ。会社から住所を教えてもらってね。ビンさんにパソコンを調べてもらったらいくつかわかったよ。インターネットの闇サイトを使って彼女は毒の錠剤を購入してた。君が推測したように青酸系の毒物だ。
 航空チケットの購入履歴も調べた。彼女は日本中を南から北へ色々旅行してるけど、北海道から先のチケットはない。もちろん東京に戻るチケットもね。それに…机の上に遺書もあった。彼女が北海道のどこかで命を終えようとしてるのは間違いない」
「あの、遺書の内容に何かヒントはないですか?」
「ないんだよ。自分を騙した男性への恨みと、他にはご両親やお友達への感謝が綴られているだけで」
「そうですか…。あ、今隣に法崎警部がおられますがお話されますか?」
 そう提案したが、警部の返事を待たずに女カイカンは「結構です」と却下。電話口からは「相変わらずだね」と本家カイカン。そして「じゃ、頑張って」と通話が切れる。
 車内には微妙な沈黙が流れた。しかしそこでふと、警部との会話で一つの記憶が蘇る。
「そういえば…」
「ん?何か思い出した?」
 法崎警部がこちらを見る。
「はい。まだ離陸の前ですけど、由加さんとこんな会話をしました。彼女は南から北へ旅行してたんで、『渡り鳥みたいですね』って私が言ったら、彼女は『渡り鳥の最終居留地に向かってるんです』って。その時は北海道が旅行の最後の場所だからそう言ったんだと思ったんですが…」
「渡り鳥の最終居留地…」
 女性警部の口元がどんどん綻んでいく。
「あの、何かヒントになりますか?」
 答えるより先に彼女はイグニッションキーを回す。4WDは威勢よく嘶いた。
「あ、あの…」
「さっすがムーンちゃん!噂どおり、カイカンくんの着火剤ね!」
 褒め言葉なのか?警部はこの人に私のことをどう紹介したのだろう。それにしても突然の頭脳の活性化…やっぱり女カイカンだ。
「かっ飛ばすわよ、振り落とされないでね」
 くわえていたスナックを一気に飲み込むと、女性警部は目を輝かせてアクセルを踏み込んだ。

■エピローグ

 その沼は北海道のちょうど中ほどにある。普段の景観も十分に美しいものだがそれほど来訪者はいない。しかし特定の時期にはカメラや双眼鏡を抱えた愛好家たちがたくさんここに集まってくる。そう、この沼は渡り鳥たちの日本の最終居留地として知られているのだ。その時期には無数の鳥たちが水面と空を覆いつくす。その圧倒的な光景は優雅で雄大。そしてしばし羽を休めたら鳥たちは国外へと遠い陸を信じて飛び去っていくのだ。

 今はその時期ではない。鳥たちの姿はなく、水面も空も静まり返っている。他の生命たちは漂う静寂を乱さぬよう密やかに息づいている。
 波のない沼のほとりに佇むのは一人の女。彼女はかつて愛した男を殺害した。本当の名前も、本当の心も、何一つ教えてくれなかった男。捧げた物も、預けた物も、何一つ返報することなく姿を消した男。男の正体に気付いた時、彼女は死に物狂いで男を捜した。しかし全ては徒労に終わり、彼女は失っただけの世界を生きることを強いられた。仕事に没頭して何もかも忘れようともしてみた。しかし男との出会いを思い出させる職場は彼女にとって地獄にも匹敵し、忘れたい記憶は忘れられない傷跡となって彼女を苦しめ続けた。
 世界から去ることを決めた彼女は、文明の利器を利用して素姓も知らぬ相手から毒薬を入手した。それが本物の毒なのか、偽物なのかも彼女にはわからない。わからなくてもどうでもよかった。麻痺した頭で遺書を書き置き、仕事も辞めて、せめて今生の思い出にと彼女は最後の旅行に出発した。
 運命はどうして時々意地悪をするのだろう。二度と会いたくない男に彼女は最後の航路で出会ってしまった。男の傍らには彼の愛を受けている女の姿もある。二人の後頭部を見ながら彼女は自分の感情と向き合っていた。うらやましいのか、恨めしいのか、もうわからない。どうでもいいというのがやはり一番近いかもしれない。そして彼女は、たいして臆することもなく、男に毒薬を仕込んだ。
 そして男は死んだ。嘘と偽物ばかりの世界で毒薬だけが本物だった。

 今彼女は空を見つめている。別にこの場所に深い思い入れがあるわけではない。ただ雲の上のまだ見ぬ陸地へ旅立とうとしている彼女が渡り鳥たちの最後の居留地を何となく見てみたくなっただけだ。
 ポケットから1錠の薬を取り出す。彼女にとって唯一本物だったあの毒薬だ。しばしそれを見つめた後、彼女はおもむろにそれを口に運ぼうとする。

 錠剤が唇に触れた瞬間、全ての静寂を引き裂いて一台の車が現れた。驚きで思わず薬が指から落ちる。車は乱暴に停止し、二人の女が飛び出してきた。二人のうちの一方は彼女が最後の航路で出会った相手だった。

 言葉で、腕で、そして心で彼女は抱きとめられる。ここにいるのは誰もが消えない傷を負った女たち。自らの命と肉体を何度も憎んだ女たち。

 日が昇る。それでも空は彼女たちに新しい太陽を与えたのだ。

The end.

■あとがき

 古典的な名作推理小説から昨今の推理漫画にまで見られるように、飛行機内というのはミステリの舞台として魅力的な素材です。自分も一度は書いてみたいと飛行機に乗る度にアイデアを考えていましたが、今年1月の旅でようやく思い浮かびました。
 ちなみに美唄には渡り鳥の最終居留地の沼が実在します。その時期に行くと本当に素晴らしい自然の芸術が味わえますので、みなさんぜひどうぞ。

平成30年9月5日 福場将太

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