コラム

2017年5月「言葉の重み」

 人間は言葉を交わす動物である。もちろん言葉だけでコミュニケイションしているわけではないが、やはり気持ちを伝える上で言葉の占めている役割は大きい。気持ちを言葉にして伝えるというのはとても大切なことである。
 日本には『言霊』なんていう概念がある。言葉には見えざる力が宿っており、例えば「お前が雨が降るなんて言ったから本当に降ったじゃないか」なんて言ったりする。もちろん科学的には単なる偶然なのだけど、「口は災いのもと」なんて言うように、言葉には何か力を感じてしまうものだ。
 中には軽はずみに口にしてはいけないと教えられた言葉もある。子供の頃、「死ね」「殺す」などは冗談でも言ってはいけないとしつけられた。「正義なんて言葉は口に出すな、一生胸に秘めておけ」なんて刑事ドラマの常套句もある。
 あるいは宗教によっては安易に神の名を語ってはいけないとされる。欧米の人は滅多に「oh my god」と口にすることはなく、「oh my」と略したり「oh my gosh」と濁したりすると昔英語の授業で習った。モーゼの十戒の一節にも、軽はずみに神の名を語ってはいけないと記されている。そういえば映画『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』では秘法を手に入れるための最後の難関の一つに「神の名のアルファベットを順に踏んで歩け」というのがあった。他の試練に比べるとやけに簡単だなと子供心には思ったが、そこに息づく信仰を思えば実はとても厳格な行為だったのだと今は感じる。ただの文字の羅列に過ぎなくても、神の名とは恐れ多いものなのである。

 ところがどうだろう。昨年の流行語大賞には「神」だの「死ね」だのが余りにも簡単に登場している。神の名も生き死にの言葉もずいぶん安っぽくなってしまったものだと感じた。言霊信仰は日本人の心から失われてしまったのだろうか。

 言葉は気持ちを表現する手段ではあるけれど、厄介なのは必ずしも気持ちどおりではなくても言葉は使えるということだ。反省していなくても「ごめんなさい」とは言える、愛していなくても「愛している」と言える、友情がなくても「友達です」と言える。そう、気持ちが伴わなくても言葉だけで何とでも言えてしまうのだ。口先だけの軽い言葉なんてたくさん世間に飛び交っている。

 だからこそあえて言いたい。言葉を大切にしようと。言葉の持つ力を重んじようと。たった一つの言葉が心を破壊したり、たった一つの言葉が人生を救ったりする。人間は言葉を生み出し、そして言葉によって生かされる。口でなら何とでも言えるけど、だからこそ何でも言うんじゃなくてちゃんと言葉を大切にして口にしよう。

 僕の大切にしている言葉は「好き」。単純な気持ちを表す言葉だが、これは責任も伴う言葉だと僕は思っている。別に好きと言ってはいけないという話しではない。本当に好きならどんどん言えばいい。ただ言った以上そこには責任が伴う。相手が物であれ人であれ、好きと言った以上簡単にそれを覆してはいけない、裏切ってはいけない。
 …考えすぎかな?でも僕はそう思っている。

 精神科医は何のプロだろう。病状を見極めて診断するプロか?安定剤を調製するプロか?精神保健福祉法に従って入院の可否を判断するプロか?
 もちろんそれらもできなくてはならないが、一番はやはり言葉のプロでなくてはならないと思う。最善の言葉で最良の対応ができれば治療はとてもうまくいく。本来精神療法の持つ力は薬物療法の比ではない。医者だけでなく心の医療に携わる全てのスタッフは、何よりもまず言葉のプロでなくてはならないのだ。
 しかしながら、なかなかそこで勝負するのは難しい。だって話をすること自体は誰にでもできることだから。言葉を扱うのに免許なんて要らないから。実際大学時代に「最善の言葉の選び方」なんて講義は全くなかった。だからつい診断とか薬の処方とかそういった免許がなければできない行為で医療者は自らの存在価値を守ろうとしてしまうのだろう。
 でもやっぱり忘れてはいけない。心の医療者は何よりもまず言葉のプロなのだ。言葉という誰でも使える身近な物の、免許なんかいらない領域のプロなのだ。

 日本語には美しい言葉がたくさんある。愛おしい言葉がたくさんある。今年度はもっと言葉を大切にしたい。言葉の重みを感じたい。
 ピアノで音を出すことは誰にでもできるけれど、心を癒す旋律を奏でられるのはやっぱりピアニストなのだから。

(文:福場将太 発案:瀬山夏彦 考察協力:なかまの杜の精神科医T&心理士A 写真:カヤコレ)

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