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コラム
2016年2月「永遠の記憶」
我が家にはまだまだビデオテープがたくさんある。その多くは好きだったテレビ番組を録画したものだ。幼い頃は毎週好きな番組が放送される日をワクワクしながら待っていた。そして当日は時計と睨めっこしながらビデオデッキの録画ボタンを押すタイミングにドキドキしていたものだ。どうしても親戚の家に行かなければならない場合などはビデオテープを持参し、わざわざその親戚に頼んでまで録画してもらったりした。だってそのチャンスを逃したらもう二度と手に入らない物だったから。
しかし大人になってからはそんな苦労をすることは全くない。DVDレコーダーなんて便利な機器が登場したおかげで、見たい番組を登録しておけば毎週自動的に録画してくれる。放送時刻が変更されても録り逃すことはない。中には過去一ヶ月の全てのチャンネルの全ての番組を録画しておいてくれる機種まであるらしい。つまり後から「あの番組見たかったな」と気が付いても、それが叶ってしまうのである。
さらに、もし録画できなかったとしても現在は大抵何とかなる。番組の多くはヒットしたしなかったに関わらずソフト化されるのでその発売を待てばよい。しかもDVDショップまで行って探さなくても、パソコンで検索・注文すれば自宅にいながら購入やレンタルができるお手軽さだ。
さらにさらに、録画も失敗してソフト化もされない場合でも何とかなる方法がある。そう、インターネットの無料動画サイトだ。DVDになっていない番組でも、とっくに廃盤になったソフトでも、どこかの誰かがサイトにアップロードしていてくれればそれが見られるのである。
すごい、本当にすごい。かくして現在は録画に躍起にならなくても、見たい番組はほぼ見られる時代なのだ。見逃したことをずっと悔やむことも、頼んでおいた録画ができていなくて親に泣いて怒ることも、同時刻に二つ見たい番組があってどちらを選ぶか葛藤することもない。本当に便利な時代である。
しかし、しかしである。じゃあ昔と今とどちらが良かったかと問われればどうだろう。確かにかつては見逃すことも多かった。予定と重なって泣く泣くあきらめることも多かった。でもだからこそ価値があった。その時しか見られないからこそ夢中で見入っていた。もう二度と見られなくても、その映像は永遠の記憶として私の心に残っている。また家族旅行のためにテレビを見るのをあきらめなくちゃいけなかったことも、欲しい物両方は手に入らないという大切な教訓だ。だからこそ選んだ家族旅行の方を全身で楽しもうとしていたように思う。
みなさんにもそんな経験がありませんか?例えばラジオからたまたま流れたタイトルも歌手名もわからない曲。たった一回聴いただけでその後一度も再会できないその曲が、今でも心に流れていたりしませんか?そんな永遠の記憶がありませんか?
最近の私はどうだろう。とりあえず録画しておこうといって溜まったDVDがどれだけあることか。とりあえず保存しておこうといってダウンロードした曲がどれだけあることか。そして何度でも再生できるはずなのに、一度もしていない。むしろたった一度しか味わえなかったあの頃の作品の方が、詳しくそして鮮やかに記憶に残り続けている。
全て手に入るということは、何も手にしていないということなのかもしれない。全てを知れるということは、何にも知らないということなのかもしれない。
出会いと別れもそうだ。今はソーシャルネットワークサービスのおかげで、昔の同級生の消息がわかったりする。携帯電話を使えば、どこにいてもボタンひとつで話ができる。でも実際はどうだろう。会おうと思えばいつでも会える、なんて思いながらずっと連絡を取っていなかったりする。しょっちゅう電話しているくせに何も思い出が残っていなかったりする。
昔はきっと「ここで離れたら二度と会えない」という別れがたくさんあった。人生の中で訪れる出会いの数も今よりずっと少なかった。でもだからこそ、一つ一つの出会いと別れがとても重たかっただろう。一人一人をもっと大切にしていたんじゃないだろうか。ハードディスクなんかなくても、一緒に過ごしたという永遠の記憶を刻めたのではないだろうか。
ある俳優がこんなことをおっしゃっていた。「舞台の役者は一瞬一瞬で消えていく、でもその一瞬がお客さんの心に残れば嬉しい。DVDで何度も見てもらえることよりも、そちらの方が永遠」と。
数は少なくてもいい。これからもっと、心に永遠の記憶を刻んでいきたい。
(文:福場将太 写真:カヤコレ)