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コラム
2015年04月「慈善の報酬」
僕の好物はおしゃぶり昆布だ。みなさんおしゃぶり昆布を知ってますか?タバコサイズの乾燥させた昆布。あれを口にくわえ、ちょっとずつ食べるのが好き。実はこれは小学校2年生の時の担任の先生の影響だったりする。先生はいつも昆布を自分の机に常備していて、何か善いことをした生徒がいるとご褒美にそれを一本くれるのだ。僕たちはその昆布欲しさに、自主的にゴミを拾ったりお互い助け合ったりしていた。一日一善昆布一本の教えである。
さて、4月になった。もう昆布はもらえないが、今年度は何か善いことをしたいものだ。しかしこの善いことというのが考え出すと難しい。ボランティアやチャリティなんて言葉がある。報酬をもらわずに困っている人を手伝ったり、収益を寄付する目的でイベントを行なったりするのがそれであり、いわゆる慈善活動というやつだ。これは本来素晴らしいことだと思うのだが、時々妙に鼻につくことがある。事前の裏に別のニュアンスを嗅ぎ取ってしまうことがある。
例えばチャリティコンサート。ミュージシャンたちは言う、「落ち込んでいる人たちのために歌います」「音楽の力で元気を届けたいと思います」と。僕も音楽は大好きだしその魔法を信じている人間だ。それでも慈善活動として音楽が行なわれる際、どこか違和感を覚える。世のため人のためとか偉そうなことを言ってはいるが結局あんたが歌いたいだけなんじゃないか、と思ってしまうことがある。だって音楽をやる人間の根底にあるのはやっぱりやりたいという気持ちだと思うから。本当は全然歌いたくもないのに、自分を犠牲にしてチャリティのために歌っている人なんていないんじゃないか。
例えばボランティアで地雷撤去をしている人は別に爆弾が好きなわけではない。震災の時、隣人を助けるために燃え盛る炎に飛び込んだ人はけして危険が好きなわけではない。それでも命を懸けるのだ。彼らが口にする「人のため」という言葉と、自分の好きなことをやる時に口にされる「人のため」という言葉を、同じレベルで語ってよいものかと思う。
もちろんボランティアでもチャリティでも、やりたいからやる、自分のためにやるという要素が少なからずあると思うしあってもよい。ただあくまで「人のため」に重きを置いて行なわれるのが慈善活動であり、逆転して「自分のため」の方が主体になってしまうとそこに違和感が生じ何だかおかしくなってくるのだ。
穿ち過ぎた見解かもしれない。実際に善意が集まって行なわれる様々な活動が、たくさんの人々を救済しているのも知っている。それでもやっぱり「人のため」というのは重たい言葉であり、安易に用いるのはおこがましいと思う。
では医療はどうか。白衣は真っ白な正義の象徴とされるが、果たしてそうだろうか?少なくともこの国での医療はボランティアではない。有事の際に行なわれる例外はあるが、普段の診療は患者から医療費を支払ってもらった上で行なわれている。そして職員も当然給料をもらって働いている。このご時勢、病院だって経営を考えなければあっけなく潰れてしまうのもまた現実だ。
ここでも大切なのは見失わないことなのだろうと思う。患者のため、自分のため、そして病院のため…どれも大切な価値観だが、それらが拮抗した時は必ず「患者のため」を選ぶのが医療である。商店なら売れば売るほど赤字になる商品は発売停止になるのが当たり前。しかし病院であれば例えやればやるほど赤字になる治療でも、それが患者にとって最善ならやはりやらなくてはならないのだ。
特に心の医療ではこの拮抗が起こりやすい。良い治療をすればするほど経営は悪くなる、という心の医療の最大の矛盾がここにあると僕はいつも思う。ぜひともお偉いさんにはこれを解決して頂きたい。現状では薬をたくさん処方し患者の回復を妨げる病院が生き残り、薬を最小限にして患者を卒業させる病院が潰れてしまうことになりかねない。
…とまあたまにはこんな愚痴も言いたくなるけれど、実は普段そんなにこのことで悩んでいるわけではない。友人の医者と話すと中には経営意識が高過ぎる病院もあるようで、「この治療は必ず週3回やりなさい」「患者の数が減ってるからもっと増やしなさい」などと言われ続けてうんざりするなんてことも聞く。その意味ではそういうストレスがない環境で働けている僕は幸福だ。
もちろん全く経営を意識していないと言えば嘘になるけど、ここでは治療のために収益を減らしたからといって理事長に怒られることはない。スタッフも「そろそろ○○さんの訪問看護を減らしてみませんか」なんて普通に提案してくれる。まあ当たり前と言えば当たり前のことなのだが、それが見失われがちな昨今に本当に心地良い。問題だって山積みの医療法人だけど、僕がここにいたいと思う大きな理由の一つである。
もちろん患者のためだけに働いてるなんて言う気はない。少なくとも僕は僕のためにこの仕事をしている。自分の心を支えるために、人の心を支えようとしている。それは間違いない。
でも…時々ふと思う。小学2年生のあの頃、本当に昆布が欲しくて善いことをしていただろうかと。最初は昆布のため、つまりは自分のためだったのがいつしかそんなこと考えなくなっていた気がする。もしかしたら先生が狙っていたのはそういうことだったのかもしれない。
自分のためだったはずがいつしかそれが引っくり返って人のためにやっている。まるでメビウスの輪のように、時々そんなおかしなことになる人間の心というものが、僕はやっぱり好きらしい。誰のためかはひとまずおいておいて、慈善も医療もお仕事も、さあ頑張ろうではございませんか。
(文:福場将太 写真:カヤコレ)