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コラム
2014年03月「人を信じる」
みなさんは太宰治の「走れメロス」をご存じだろうか。そこに登場するディオニスという王は人を信じることができず、疑いを持った相手を次々と処刑していく。しかしメロスが親友との約束を命懸けで守った姿を見て王は改心する、という物語だ。初めてこの作品を読んだ中学生の頃にはディオニスのことを非現実的な悪役だと思っていた。こんな人間いるわけないと。しかし今の世の中を見ているとどうだろう、彼はけして特殊な人間ではなかった。むしろメロスの方が非現実的な存在のような気さえしてくる。
最近特に感じる、日本人は人を信じていないと。そもそも人を信じるとはどういうことか…それは相手の心の中に優しさなり誠実なりがあると思えることだろう。欧米と異なり日本はあまり大袈裟な感情表現をしない文化だ。嬉しいからといって飛び跳ねたり抱きしめあったりすることはむしろ下品とされる。武道の世界などまさにそうだ。例え試合に勝ったとしても、喜びを顔には出さず黙って一礼する。シュートを決めたら全身で喜びをアピールするサッカーなどとはまさに対照的である。感情を表に出さないさり気なさ、仄かさにこそ日本人の美徳があると言えるし私もそれが好きだ。そして感情を表に出さないからこそ周囲にはそれを汲み取ってあげる配慮が必要であり、それもまた日本人のいいところだと思う。しかしこの頃はどうだろうか。人を見る時に悪い捉え方ばかりしていないか?まず疑うことから始めていないか?
例えばこんな場合だ。法案をめぐってもめている時、大臣がレストランで食事をしていたと批判される。いじめ問題が起こっている時、教師がのん気に買い物をしていたと批判される。記者会見で失言すると、とんでもない奴だと批判される。
…正直そこまで叩かれなくてはいけないことだろうか。もしそこに周囲の優しさがあれば、印象も随分違うんだろうなと思う。その優しさが今の日本にはない。「あの人はちゃんと真剣に考えてくれている、今は気分転換してるだけだ」「カッとなってつい心にもないことを言ってしまっただけだ」と考えてあげることができない。
「不謹慎」という意識も日本人には強く見られるが、これだって程度問題だ。「近しい人が亡くなったらしばらくは喪に服すべき、楽しそうにしていては世間体が悪い」という考え方にはおくゆかしい美徳があるとは思うが、「喪に服していないのは悪い奴」とまでなってしまったらそれは行き過ぎだろう。震災の時にとても強く感じた。あの時ほとんどのテレビ局は娯楽番組を中止した。企業のCMを流さず昼夜「今こそ絆が大切」というメッセージを流し続けた。紅白歌合戦の内容もあの年は随分自粛されメッセージが統一されたものだったように思う。もちろんそれは被災者への配慮でありメッセージの内容が間違っているわけではない。しかしあの極端さには「ここで不謹慎な放送をしたら叩かれる」という意識が見え隠れしたように私は感じた。そしてこのメッセージに反するような発言をすれば非国民扱いされるのではという恐怖さえ感じた。あんな極端なことになってしまうのも、今日本人に「人を信じる」という気持ちがないからだろう。もしそれがあれば、例え娯楽番組を流していようが歌手が明るく歌っていようが、それを不謹慎だなんて感じない。「この人は悲しみも苦しみも受け止めていて、それでもみんなを楽しませようとしてるんだ」と思えるはずだ。絆や優しさを取り立ててメッセージしなくても、そんな当たり前のことはそれぞれが心掛けていけばいいことだ。こんな話も聞いた。義援金に関して、町内会でも子供の学校でも夫の職場でも募金を求められ、もういい加減にしてと怒っている主婦がいるという。この怒りもお門違い甚だしい。ここにも「募金をしないと批判される」という意識が働いているのだろう。
私たちの日常においてもそんな場面が多々ある。葬式に参加しない人間を冷酷な奴だと言ったり、無愛想な人間を情がないと言ったりする。でも笑っているからといって悲しんでいないわけじゃない。口数が少ないからといって愛情がないわけじゃない。心で泣いていても笑顔の人だっている。平然としていても傷ついている人だっている。それを汲み取ってあげるのが日本人の美徳ではなかったか?
人を信じる、それはそんなに難しいことだろうか。登山が好きな友人は山に登る理由を「人のあたたかさを感じられるから」と話す。もちろん大自然の美しさも心を癒すものなのだろうが、それ以上に山の上には今の世の中とは真逆の「信頼が前提の社会」があるのだという。人を信じなければ赤の他人が同じロッジで雑魚寝したりできない。転がり落ちそうな絶壁を一緒に歩いたりできない。警察が見張っていなくても犯罪は起こらず、初対面でも協力し合える世界がそこにはあるのだ。そう、夢物語ではないのだ、人を信じることは。けしてできないことではないのだ。
確かに安易に人を信じたせいで起こっている悲劇がいくつもある。お人好しにつけ込もうとする悪人もたくさんいる。でもこのままではこの不信の悪循環は永遠に止まらない。みんながディオニスになってしまったら、待っているのはもうお互いを処刑するしかない世界だ。つい先日も、たまたま乗ったタクシーの運転手があまりにも無愛想なのでつい冷たい態度をとってしまった自分がいた。支払いをして降りる時にようやくわかった、運転手は風邪で喉を痛めており、こちらにうつさないように必死に口をつぐんでいたのだ。本当に申し訳ないことをした。
まずはほんのちょっとの優しさでいいと思う。例え相手が一見不謹慎な行動をしていたとしても、いきなり悪人だと捉えないでほしい。何か事情があるのかもしれない…そう考えてあげられたらきっと何かが変わる。まず自分が信じなければ、メロスは助けに来てくれないのだから。
(文:福場将太 写真:美唄メンタルアルピニスト)