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コラム
2011年11月『芸術の秋~それはデジタルかアナログか~』
そんなわけで芸術の秋であるが、みなさんは何か芸術の趣味はあるだろうか。僕はといえば、まあ芸術と言うほど大げさではないがやはり音楽が好きだ。見よう見まねで曲作りを始めた中学生の頃からもう15年以上が経過したが、まあ未だに下手の横好きではあるけれどこの趣味だけは相変わらず続いている。音楽に限らずだが、「作品を作る」ことの1つの楽しみは「感覚を残す」というところにあると思う。人間生きていく上で一番難しいのは、そのときの感情・感覚といったものを忘れずにいることだと思う。昔、自分が作った曲なんかを聴くと、「ああそうだ、この時こんな気持ちだったよな」とか「そうだそうだ、こういうことを大切にしていこうって気づいたんじゃないか」とか、変な話ではあるが過去の自分の作品に今の自分が教えられたり励まされたりする瞬間がある。確かにあの頃自分は生きていて、こんなことを感じていたんだ・・・作品を作る、ということはまるで日記をつけるような意味合いがあるように思う。
もし音楽という生きがいが自分に無かったら・・・そう思うと少しぞっとする。何気なく始めた趣味ではあるけれど、音楽は何度も心を支えてくれ、人生を豊かなものにしてくれた。そりゃあ人生、ふと後ろを振り返ると失くしてきたものも随分有るけれど、一番好きなものがこうやって続けられているのだから、僕は恵まれていると思う。
そんな話をとある友人にすると、彼も「もし自分に写真の趣味がなかったらどうなっていたかわからない」なんていったりする。もしかしたら僕たちは幸福の判定基準が低いのかな、いや、そんなことはない。仕事でもないのにお金も時間もかけてただ好きだという気持ちだけで夢中になれるものがあるなんて・・・やっぱり幸せなことでしょう。まあ愚かかもしれないけれど、何も間違ってはいないでしょう。そんな彼と電話したりしていると、お互い音楽と写真、それぞれ異なる作品作りではあるけれど、そこには驚くほど共通点が多いことに気がつく。今回はそんな話をしてみようか。
まず音楽も写真も、「いい作品はごちゃごちゃ説明しなくても作者が何を伝えたいかすぐわかる」ということ。確かにこれはそのとうりで、良い曲は理屈抜きで良い、言葉で説明できなくてもいい写真は一目で何かがはっきり伝わってくる。最近じゃヒット曲もやけに歌詞が長いわりに結局何が言いたいのかよくわからない曲が多い。写真業界でもそうなのだという。「この作品は実はこれこれこういう技術を使ってまして、これこれこういう意味を示してまして・・・」そんなことをいちいち作者が解説しなければ伝わらない作品なんて駄作である。もちろん製作裏話を聞くのは面白いけれど、勝負はあくまで作品本体、良くも悪くもそれが全てでなくてはいけない。
つづいてこれもよく彼と話題になるが、「必ずしも最新技術が名作を生み出すとは限らない」ということ。いまや音楽も写真もデジタルの時代だ。レコーディングもテープではなくハードディスクだし、撮影もフィルムではなくメモリーカードに保管される。確かにデジタルの利点は多い。演奏ミスしたところだけ修正できるし、最近はなんと歌の音程がずれたところでも直せたりする。録音した後でいくらでも改良できるというわけだ。デジタルカメラでも撮影したその場ですぐに写真を確認できるし、いらないデータはあとで消せばいいのだからたくさん撮って、良いのを選ぶなんてこともできる。数に限りがあって現像するまで写真を確認できなかったアナログ時代とは大違いだ。でもこの「後から改良できる」ってのがクセモノで、ある意味どこまで修正すればいいのか、修正する前のほうが良かったんじゃないか、そんな迷宮に迷い込んでしまう。昔のように一発撮りで、はいこれで完成!って方が以外に緊張感があっていい作品になったりする。一発勝負か、数打ちゃ当たるか・・・非常に難しいところである。
また音質・画質についてもそうだ。確かにデジタルは劣化しないという面でとても素晴らしい。でもデジタルの音っていうのはクリアーなんだけどどこか冷たくて鋭い気がする。最近のヒット曲なんかを聴いていても、音がとがりすぎていると思うときがある。昔のレコードは、確かに雑音も多いけれど音が丸くてやわらかい。これはこれで心地いい。彼によるとやはりデジタルカメラの写真も同じだそうで、デジタルは確かにクリアーなんだけどクリアーすぎて、例えばクマのぬいぐるみを撮影してもその輪郭が触ったら指が切れそうなくらいとがっているのだそうだ。昔のフィルム写真は、丸くてやわらかい輪郭になるのだという。なんか「丸い」とか「とがっている」とか、音楽にも写真にも同じこういう言葉で表現されるのがとても不思議な共通点。
そして同様に「技術の上達が必ずしも名作を生み出さない」というのが辛いところ。いまやヒット曲は1曲につき何十ものトラックが使われている。つまりいくつもの音が加えられているということだ。しかしわずか数トラックで製作されたビートルズの楽曲はまったく負けていない。写真だって何万画素のカラー写真が昔のモノクロ写真に負けているとも限らない。そして、自分自身においても、技術や知識を身につけて作った作品が、何も知らない頃に作った作品に勝っているともかぎらない。実際に中学生の頃ラジカセで録音した歌もギターもヘタクソでチューニングすら合っていない曲が、恥ずかしくもあり、でも妙に心地よかったりする。彼もまだ構図とか明るさとかよく知らなかった頃になんとなく撮影した1枚が今持ちうる技術を全て総動員してもかなわなかったりするのだという。芸術というやつは、もちろん努力によって上達するのだけれど、時として偶然によってもたらされるミラクルショットがすべてを凌駕してしまうのである。
そして結論。結局は「それを聴いてくれた人、見てくれた人が好きだと感じてくれたらそれに勝るものはない」ということだ。「いやいやそっちの作品よりこっちのほうがこれこれこういう理由で名作なんですよ」なんて説得はヤボで馬鹿げている。どこかの誰かが気に入ってくれたなら、それはどんなに不恰好でもその誰かにとって名作なのである。
・・・・・とまあ今月も先月同様ついつい熱が入って長くなってしまった。やっぱり好きなものの話をしているとこうなっちゃいますな。音楽や写真だけではなく、絵画、造形、陶芸、文学、映画・・・世の中には色々な芸術がある。みなさんも自分で作ってみるのもよし、誰かの作品を味わうもよし、せっかくの秋に芸術を楽しんでみてはいかがでしょう。
まあそんな感じで僕も彼も相変わらずこの地味で愚かな活動を続けていくのでしょう。残念ながら今のところそれが仕事にはなっていないのだけれど、まあだからこそ自由に、誰かの役に立とうが立つまいが、情熱だけを理由につづけていけたらそれでいいじゃないか。時々言われます、「まだやってるの?」って。
そりゃあやってますよ。こんなに好きなのに、やめる理由がどこにある。
(文:福場将太 写真:瀬山夏彦)