コラム

2011年08月『輪廻転生』

 お盆にはご先祖様たちが戻ってくる、なんて話を幼い頃に聞いた記憶がある。人は死んだらどうなるのか・・・それは生きている限り確認のしようがないが、いくつかの説がある。1つは天国のお話。人生という修行の旅を終えると、人は雲の上の世界に招かれ、そこでは苦痛も悲しみもなく幸せに暮らしていけるという。そしてもう1つは輪廻転生のお話し。肉体が死んでも魂は永遠に行き続け、また別の肉体に宿るのだという。つまり、前世や来世において自分はまた別の人間であるということだ。今回はそんな生まれ変わりについて考えてみよう。

 かつて自分は別の人間だった・・・にわかには信じがたい話だ。もちろん今私に前世の記憶はない。でも初めて訪れたはずの異国の地がやけに懐かしく感じたり、言葉もわからない遠い国の民族音楽に何故か涙がこぼれたり・・・そんな瞬間が確かに人間にはある。そう、デジャ・ビュなんて呼ばれる感覚だ。心理学・精神医学などを持ち出すと理屈で説明できてしまうのかもしれないが、もしかしたら前世において自分が慣れ親しんでいたからかもしれないと思えたらロマンがあって素敵だ。脳は記憶を失っていても魂には感動や感激の印象が残っていて、私たちはわけのわからないままに心を揺さぶられているのだとしたら・・・。  そうなると人と人との出会い、別れも違って見えてくる、初めて会った相手を懐かしく思えるのは、前世で出会っていたからなのかもしれない。別れの時に再開の予感がするのも、来世でまたであるからなのかもしれない。今は友人として付き合っている相手でも、前世では親子だったかもしれない、来世では職場の同僚かもしれない、そんなふうにキャスティングを変えながら私たちは出会いと別れをくりかえしているのだとしたら・・・。

イメージ だとしたら私たちはいったいどこに行くのだろう。いったいどこから来たのだろう。何度も何度も生まれ変わりながら、人生を繰り返しながら、魂は永遠の旅を続けるのだろうか。

 もし前世の私が今の自分を見たらどう思うだろう。相変わらずだと思うのか、少しはましになったと思うのか。そう、ご先祖様だってもしかしたらかつての自分かもしれない。江戸時代の私は農業をやっていたかな、縄文時代の私は上手に土器がつくれたかな、石器時代の私はちゃんとマンモスに乗っていたかな・・・そんなふうに考えると、歴史の本を読むのもなんだか違う味わいが出てくる。時代劇の中に、いつかの自分がいるような気がしてくる。

 来世の自分にももちろん興味はあるが、残念ながら次回がどんな人生なのかその予告編を見ることはできない。だからこそ、過去の自分からゆずりうけたこの魂をしっかり燃やして、汚さないように大切にして、未来の自分に受け渡したいと思う。永遠の旅だとしても、私たちに出来ることはただ1つ、今を生きることなのだから。
 墓前に手を合わせながら、こんなとりとめのない思いにふけっている夏です。

(文:福場将太 写真:瀬山夏彦)

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