コラム

2009年12月『内線ラプソディ』

 人の心なんてわかるわけがない。
 おいおい精神科医がそれを言っちゃうのかって思われるかもしれませんが、それが真実です。相手が何を考えているのか、どんな気持ちなのか……言動や状況証拠から論理的に推察することは出来るかもしれませんが、それはむしろ刑事や探偵の領分でしょう。私たちの仕事は心という摩訶不思議な謎のかたまりを精神医学という辞書でほんのちょっとだけ解読しながら、決しておごらず決め付けず、病んでしまった心がまた元気になれるように支えていくことです。もちろん相手の悩みや苦しみを理解しようとする姿勢は大切ですが、全部わかるなんてことはあり得ず、本当のところは神様にしかわかりません。

 だって……こんなにおこがましい仕事はないでしょう。心という相手の最上級のプライバシーに触れ入って、それを診断したり薬を出したり……いったい自分はどれだけたいそうな心の持ち主なんだって話ですよ。そもそも心に良いも悪いも正しいも間違っているもなくて、何が健康で何が病気なのかもはっきりと境界線を引くことは出来ません。仮に理想的な心とか模範的な心というものがあったとしても、自分がそうとは到底思えません。心の医療において、患者さんと治療者、いったい何が違うんだろうとしょっちゅう感じます。ただ診察室においては、こちらが支える側であるというだけのこと。それだって時には逆転して、患者さんに癒されたりすることもありますし、治療者の方が貧しい了見を持ったり、人として恥ずかしい言動をとることだってあります。治療者の心が患者さんの心より優れているなんてことは全くありません。だから人の心をどうこうしようとするこの仕事は、本当におこがましいなぁと思うのです。そして、この仕事を続けていく限り「おこがましいことをしている」という感覚を、絶対に失くしてはいけないとも思います。私たちは心の応援者であって、決して支配者ではないのですから。

 少し冷たい言い方になってしまうかもしれませんが、心を診断したり心に作用する薬を出したりなんてことは、医者が患者さんと他人だから出来ることだと思います。少なくとも私は、自分の友人や家族が心を病んだとしても、それを冷静に治療出来る自信はないです。そんな時は精神科医としてではなく友人として、家族として力になりたい。精神医学という辞書は使わずに、感情的で的外れでも自分の考えで相談に乗りたい。診察が必要な場合もそれは他の精神科医にお任せして、出来ればその治療内容や薬の名前は知りたくない。精神医学的に人を見るなんてこと、仕事以外ではしたくないですし、そんな視点でしか人を見れなくなってしまったらそれは悲しいことですから。人の心を診断していいのは、白衣を着ている時だけにしないと。

 な〜んて偉そうなこと書いてますけど、 本当に難しいですよね、人の心って。白衣を着ていない時には自分の感性で相手に向き合う……これだってなかなか上手に出来ません。
 ああ、また余計なことを言ってしまった。ああ、今のは言い方がまずかった。ああ、もう少し気にかけていればよかった。ああ、また気を遣わせてしまった。
 友人に対して、家族に対して、職場の仲間に対して、そんな後悔と反省のくり返しです。もちろんその逆だってありますよ。
 おいおい、その言い方はないだろう。おいおい、その態度はなんなんだ。おいおい、それは間違っているだろう。おいおい、それは勝手が過ぎるだろう。
 そんなふうに相手に対して思ってしまうこともあります。
 人を傷つけてしまった時、人に傷ついてしまった時、そんな時はきっとお互い伝えたいことが相手に伝わっていないのでしょう。相手はどんな気持ちだったんだろう、この気持ちだけは伝えておきたかったのに……そんなことを考えている時にふとデスクの上の電話が目に入ったりすると、「心に直通の内線があればいいのに……」なんて思ったりする今日この頃です。

イメージ そんなこんなで2009年ももう残すところあとわずか。来年はどんな年になるのでしょう。今よりも少しでも広い心に、優しい心になれたらいいなと思います。
 でわでわ、聖なる御子の誕生を待ちながら、今年はこのへんで失礼いたします。皆様、よいお年を!クリスマス、気持ちが伝わるといいですね!

※次回から新春恒例、スペシャルコラムがスタート!

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