旧美唄病院コラム
2009年8月『新たなる一歩』
むかしむかしあるところに、小さな病院があった。炭鉱が主産業だったその町は人口10万人を超え、その名は日本中に知られていた。男たちはいつも命懸けで地下にもぐり、泥と汗まみれになって石炭を掘り、その後は繁華街でうまい酒と焼き鳥を楽しんだ。毎年祭りは盛大に行われ、町はいつも活気にあふれていた。そして、その病院は炭鉱で傷ついた男たちの手当てを請け負っていた。
やがて時は流れ、多くの炭鉱は閉鎖された。鉱山や夜の繁華街からたくましい男たちの姿はなくなり、それはまるで大きな火が消えたかのようであった。そして、その病院も長年の任務を終え、炭鉱病院から精神科「美唄希望ヶ丘病院」に生まれ変わった。それももう、今から40年近くも前の話。
院長はあらゆる患者を受け入れた。そのため行き場をなくしていたたくさんの患者たちが北海道中からその病院に集まった。まだ今のような副作用の弱い薬が少なかった時代だ。患者たちは闘病生活の中で、時に行われる病院内の祭りを全身で楽しんだ。カラオケ大会では院長自らがドラムを叩き、自らが運転手となってバスで患者を送迎した。吹雪の日は帰れなくなった職員みんなで病院に泊まった。精神病院ということで町には怖い噂も流れたが、確かにその病院は困り果てたすべての患者を受け止めていた。
やがて、再び時は流れた。高齢となった院長はその職を辞し、若き院長が後を継いだ。医学の進歩は精神科医療にも多くの新たな可能性を与え、数々の患者を受け入れてきたその病院は、院長のもと精力的に患者の社会復帰に乗り出した。作業療法では従来の盆踊りやカラオケなどのレクリエイションをさらに充実させ、お花見やジンギスカンなど病院の外での訓練も盛んとなった。そして、それらによって社会復帰意欲が高まった患者たちは、自立の第一歩として町の中に下宿を借りて退院し、外来やデイケアに通うようになった。調子を崩した時には一時的に入院して休養する、そしてさらに自信をつけた患者たちは作業所や就労支援へとステップアップしていった。精神科は入院という形だけでなく、退院してその暮らしを支えていくことも可能な時代となってきたのだ。
そしてその病院はさらに生まれ変わった証として、「美唄病院メンタルケアセンター」と名を変え、町中にはもっと身近なところで弱った心を支えていく「美唄メンタルクリニック」も誕生した。クリニックと病院が連携することにより、通院と入院、より広い視点とたくさんの手で町の人たちのニーズに対応していけることとなったのである。
しかし世の中、すべてがうまくいくとは限らない。精神科は人の心に関わる医療、そこには多くの矛盾や葛藤が潜んでいる。時としてそれは医療者を迷わせ、残念な事態をもたらすことがある。大切なものを見失わせてしまうことがある。
そして時代は今に流れ着く。いくつかの悲しい出来事を乗り越え、新院長を中心に今その病院はまた新たなる一歩を踏み出した。時代は移り変わっていくが、その病院には見えない力がある。歴代院長の夢がある。そして、町の人たちに求められる使命がある。
どうせ目指すなら一流の病院だ。しかしどんなに最新の設備を整えても、どんなに素晴らしい技術や肩書きがあっても、そこで働く人間の心が貧しければそれは三流の病院だ。特に精神科は心を相手にする医療なのだから。
病院は建物だけではない。そこにいる全員が病院の一部であり病院自身だ。だから、誰か1人いるといないとではもうそれは違う病院。職員にはそれだけの自負と責任が必要だ。
長年の目標であった新しい病院の建設……それがもう手の届くところまできた今、職員たちは一流の心の持ち主を目指さなくてはならない。
緑の小高い丘の上、青くて果てしない空の下、その病院は今日もそこにある。
優しい町の片隅、人々が行き交う道沿い、そのクリニックは今日もそこにある。
美唄病院、そして美唄メンタルクリニック。
さてさて、まだまだ先は長そうだ。