コラム

2015年07月★スペシャルコラム「刑事カイカン 沿線の神様 (上)」

*このコラムはフィクションです。

■プロローグ

 ゴトン、ゴトン、ゴトトン…。
 遠くに電車の走る音が響いた。夜の静寂のせいかとてもよく聞こえる。この時刻ならもう最終便…あるいは貨物列車かもしれない。私はそんなことを思いながら腕時計を見た。
 …午前0時半。ここに駆けつけてもうすぐ三十分になる。

 私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司はカイカンなる私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。

 さて、今夜の現場はここ…小さな神社に上るための三十段ほどの石段。その最下段に頭から突っ込むような体勢で一人の男性が絶命しているのが発見された。身元は所持していた財布のカードからすぐに判明した…長谷塚真矢(はせづか・しんや)、23歳。改めてその顔を覗き込むと、砂と泥で汚れてはいるが特に苦悶の表情はない。鑑識員が現場を撮影するフラッシュの中、安らかに瞳を閉じて眠っている。
「やあムーン、どんな感じだい?」
 ふいに闇の一角から低くよく通る声がした。靴音とともに近付いてくるその声の主は、振り返らずともすぐわかる。
「お疲れ様です警部、今日はお早いお見えですね」
 私がそちらを向くと、ボロボロのコートとハットに身を包んだその姿が闇から現れる。
「フフフ…たまにはね」
 そう不気味に笑ったこの不審人物こそ、私の上司・カイカン警部である。いつもは鑑識作業や現場検証が一通り終わった後でのんびり登場するので、それに比べれば確かに早いが…他の捜査員から比べればもちろん遅い。
「警部、その格好で夜中に歩いていたら怪しすぎますよ」
「何年私と働いてるんだ。そんなことより説明よろしく」
 まあ確かに、この人の意味不明な言動にいちいちツッコミを入れていてはきりがないのだけど…。気を取り直し、遺体を示しながら私は現在判明していることを報告する。それを聞きながら警部は「ナルホド」と独特のイントネーションで頷いた。
「じゃあ長谷塚さんは、この石段を下りている時に足を滑らせて転落したってこと?」
「はい、今の所その可能性が一番高いかと…。夕立のせいで足場は滑りやすくなっていましたし、辺りはご覧のように真っ暗ですから」
「死亡推定時刻は?」
「正確なものは司法解剖を待ってからですが、現場での検死では午後9時から11時の間といったところです。遺体が発見されたのが11時半でした」
 発見したのは近所に住む老婦人。明日夫の手術を控えた彼女はなかなか寝付けず、手術の成功祈願のためこの神社を訪れたのだ。しかし残念ながら、その参拝をする前に石段でこの惨状を見つけてしまった。110番した後、彼女は今近くの交番で事情聴取を受けている。
「ナルホド。じゃあ長谷塚さんも夜中に神社にお参りに来たのかな?」
 そう言いながら遺体のそばにしゃがみ込む警部。私もその後ろに立った。
「…かもしれませんね。この石段の上は神社しかありませんし、他の用事でここに来るとは考え難いです」
 都心と異なり高い建物の目立たない小さな町だ。その片隅の社にいる神様は、住民たちのささやかな拠り所だったのだろうか。
「参拝を済ませて帰る時に足を踏み外したのではないでしょうか」
 警部はしばらく黙って遺体の衣類に触れていたが、やがて「所持品は?」と尋ねた。
「はい、財布が上着の右ポケットに、ハンカチと鍵が左ポケットにありました。あと、ネクタイが内ポケットに、タバコが胸ポケットに入っていました」
 それは先ほど鑑識員から受けた報告。いつもなら手帳のメモを見ながら答えるのだが…この暗がりではそうもいかない。私は間違いのないようにしっかり記憶を確認する。
「そう…。それにしても不思議だ」
 そう言いながら腰を上げた警部に私は尋ねる。
「何かおかしな点がありますか?」
「わからないかいムーン?よく見てごらん」
 警部はそう言ってコートから取り出した物体を口にくわえる。それはおしゃぶり昆布…これも今更ツッコミを入れても仕方ないこの人の習慣。私はそんなことより改めて遺体を観察する。一体何が不思議だというのか?
「もしかして、タバコは持っているのにライターがないことですか?それは私も少し気になりました」
「それもあるけど、もっと不思議なのは…長谷塚さんの服装だよ」
 警部は石段を数歩上がり、遺体のズボンを示した。
「だってこのズボン、ジャージだよ?でも上着はスーツにワイシャツ…どう考えてもおかしい」
「えっ?」
 思わず声に出てしまう。慌てて確認すると確かに…警部の言うとおり。この遺体、上はスーツを着てるのに下はジャージを履いている。両方とも黒なので一見わからないが、よく見ると明らかにアンバランスだ。私は鑑識員の報告を聞いただけで遺体の衣類に直接触れていなかった自分を恥じる。
「警部、すいません。私の確認が甘かったです」
「フフフ…まあ普通こんな意味不明な格好をしている人はいないからね」
 …あんたがそのセリフを言いますか?
「靴はスニーカーだし…、この人、上半身と下半身がちぐはぐだ。一体これはどういうことだろう」
 警部はくわえた昆布を口先で動かしながら自問自答する。その横で私も考えた。しかし…さっぱりわからない。どうしてこんな服装なんだ?
 数分の沈黙の後、頸部は昆布をコートのポケットにしまってから言った。
「ところで、長谷塚さんは携帯電話は持っていなかったの?」
「はい。それも気になったのですが、どこにもないようです。転落した拍子にポケットから飛び出したのかもしれないと思って周囲を探したんですが…見つかっていません」
「となると、もともと持っていなかったのか、あるいは…」
 そこで警部の声が一段と低くなる。
「誰かが持ち去ったのか、だね」
 初夏の生温い夜風が吹いた。警部の右目を隠す長い前髪が揺れる。私も乱れた髪を押さえながら言った。
「だとするとこれは…事故に見せかけた殺人」
 警部は小さく「かもしれない」と呟くと、ゆっくり石段を上り始めた。
「ムーン、長谷塚さんの住所がわかったらすぐ室内を確認して。それでもし携帯電話が見つからなかったら、電話局に発信と着信の履歴をもらうんだ」
 私は「わかりました」と答えて頭の中にしっかりその指示をメモする。
「もう遺体は運んでよろしいですか?」
「ああいいよ」
 警部はそう言いながらさらに石段を上る。
「あの警部、どちらへ?」
「先に警視庁に戻っててよ。せっかくだから私は神社にお参りしていくから。事件の早期解決祈願と…あと、第一発見者のおばあちゃんの、旦那さんの手術成功祈願をね」
 振り返らずにそう告げると、コートとハットの後ろ姿は再び闇へと消えていった。

■第一章

1

 長谷塚真矢の住まいは神社まで徒歩五分のアパートだった。一人暮らしらしく、ワンルームしかない室内で携帯電話を探し回るのはそれほど骨の折れる作業ではなかった。充電器が壁のコンセントに挿してあったので彼が携帯電話を所持していたのは間違いない。しかしベッドや机の上にも見当たらない。発見した電話の契約書から番号もわかったので自分の携帯電話から発信してみたが、やはりコール音もバイブ音も聞こえなかった。おそらく…室内にはない。となると長谷塚本人が持って出掛けた可能性が高い。それが遺体の所持品になかったということは…。

 その後、夜明け前に二時間ほどの仮眠をとる。そして朝一番で電話局に問い合わせた。その結果、昨夜長谷塚が亡くなる前に携帯電話で話していた履歴が判明した。
 最後の発信は昨夜9時30分、約十五分通話している。そして最後の着信は10時ジャスト、この時も役二分通話をしている。
 そして…通話の相手はいずれも同じ人物。電話局の登録によれば、多田錬(ただ・れん)という23歳の男性だ。そう、長谷塚と同じ23歳。
 そのことを報告すると、警部は目覚ましの缶コーヒーを飲みほしてから言った。
「お疲れムーン。そうか…もしかしたらその多田さんは長谷塚さんの同級生とかかもしれないね」
「はい。それに先ほど司法解剖も終わりまして、死亡推定時刻は正式に昨夜の9時半から10時半と確定されました。多田さんとの通話履歴は…二回ともその中に含まれますね」
「そうだね。少なくとも今の所、多田さんは生きている長谷塚さんと話した最後の人物だ。二人の関係も含めて…直接事情を聞きに行った方がよさそうだね」
 了解です、と答えて私は警視庁の駐車場に走る。そして正面玄関に車を回しながら考えていた。
 …すでに住所は調べてある。今日は土曜日、時刻はもうすぐ午前11時を回る。午前中なら家にいる可能性が高い。
 多田錬、果たして彼は単なる証言者か、それとも容疑者か。

 多田も長谷塚と同じく単身者用のアパート住まいだった。住所も同じ町内で、歩いてもせいぜい二十分ほどの距離だ。
 インターホンを鳴らしてこちらが警察であることを伝えると、ドアが開いて明らかに緊張した面持ちが現れた。短髪に大きな瞳、やせ型の男だ。
「刑事さんが…何かご用ですか?」
「朝からすいません。実はちょっとお伺いしたいことがありまして…」
 そう言いながら警部は足を進める。多田は警部の風貌に驚いたようだったが、そのまま入室を許した。私も続いて入り、後ろ手にドアを閉める。
「それで、何でしょうか?」
「はい、お伺いしたいのはですね、長谷塚さんのことなんです。ご存じですよね、長谷塚真矢さん」
 警部がその名前を出した途端に多田の瞳が泳いだ。
「え、ええ、知っています。大学時代の同期です。彼が何か?」
「実は昨夜亡くなられまして」
 多田の顔がさらにこわばる。明らかに…単に友人の死を知らされただけの表情ではない。相手が沈黙したので警部は長谷塚の発見時の状況を説明した。
「つまり、長谷塚は神社の石段で転落死したということですか?でも携帯電話が見つからないと…」
「ええ。それでですね、電話局で長谷塚さんの携帯電話の通話履歴を調べたんですよ。すると、昨夜9時半に彼からあなたに一回、その後10時にあなたから彼に一回、電話がかけられているんです。
 …もし差し障りなければ、その時の状況や会話の内容を教えて頂けませんか?」
 多田は沈黙のまま目を伏せる。そして小さく「ただの…世間話です」と絞り出した。それ以上言葉がないのを待って、私が口を開く。
「実はこの三ヶ月間の履歴を調べたんですけどね、あなたと長谷塚さんが通話していたのは昨夜だけでした。普段から世間話をしていたようには思えなかったのですが」
 またしても沈黙。やがて多田は「ですから、久しぶりに世間話をしたんです」と返した。警部がさらに問う。
「まあ、久しぶりに話がしたくなることはありますよね。確かに長谷塚さんからかかってきた電話はそうかもしれない。では…その後あなたからかけ直しているのは何故でしょう?何か伝え忘れたことでもあったのでしょうか」
「…そうです」
 消え入りそうな声が答える。
「ではその伝え忘れたことが何だったのか、教えて頂けませんか?」
「…忘れました」
 警察官でなくとも、彼が隠し事をしているのは見抜けるだろう。まだ会って数分と経っていないのに、多田錬は追い込まれた鼠も同然だった。室内に沈黙が続く。
 ゴトン、ゴトトン、ゴトン…。
 その時、電車の音が聞えた。見ると正面の窓には水色の空が広がり、家々の間に朱色の車両がゆっくり横切っている。スピードを落としているようなので…きっと駅が近いのだろう。
 東京の片隅、ローカル線の沿線に位置する小さな町…。その平穏を絵に描いたような景色を背に、青年は歯を食いしばって俯いて居る。
 やがて電車は通り過ぎ、その音も遠ざかっていった。そこで警部は少しだけ振り返って私を見た。打ち合わせていた合図だ。私はポケットの中でそっと携帯電話を操作する。そして…長谷塚の番号を発信した。
 …ピロリロピロリロ。
 室内に響く着信音。
「電話ですね。…出て頂いてよろしいですよ」
 多田は動かない。警部は「ちょっと失礼します」と部屋に上がり、音をたよりに引き出しの中にしまわれたそれを発見した。
「ムーン、発信を止めて」
 私は黙ってそれに従う。すると警部が握った物は鳴り止んだ。
「多田さん…これは長谷塚さんの携帯電話ですね?」
「…はい」
 そう吐き出すと、子供の用にその場にうずくまる青年。…決定的だった。
 私たちは彼をそのまま重要参考人として警視庁に連行した。

 警視庁の取調室。並んで座る警部と私の対面で、多田錬は机に体を預けながら長谷塚との関係を語った。
 彼らは私立コスモ大学の同期生で同じゼミだったという。学生時代はそれなりに親交を深めていたが、今年の三月に卒業して以降は昨夜まで連絡を取っていなかった。その理由は、多田が首尾よく就職先を見つけられたのに対し、長谷塚はそうならなかったためだ。就職浪人となった彼を気遣い、自分からは連絡をしなかったと多田は涙目で話した。
「それが何故、長谷塚さんは昨夜あなたに電話をかけてきたのでしょうか?」
 警部がそう尋ねる。多田は机に額がつきそうなほど項垂れていた。私も無言の視線で次の言葉を待つ。
「か、金を返せって言われました」
 やがて震える声がそう言った。警部は相手を労りながらも情報を引き出すいつもの手並みでその詳細を聴き取っていく。それによると、多田は学生時代に悪い女に騙され多額の借金を抱え、それを半分肩代わりしてくれたのが長谷塚だったという。
「ナルホド、それで長谷塚さんはそのお金を返せと昨夜要求してきたのですか?」
 多田は黙って頷くと、顔を上げて言った。
「突然言われても…僕には返せるお金なんてなくて…色々金策も考えましたが無理でした。それで電話をかけ直して、彼をあの神社に呼び出したんです」
「それは…彼を殺害する目的で?」
 厳しい口調で問われて、多田は慌てて首を振る。
「まさか、違いますよ!呼び出したのは話し合うためです」
「わざわざ神社に呼び出したのは何故ですか?」
「あ、あいつが神社の近くに住んでいるのは知っていましたから。電話した時、自分のアパートにいるって言っていましたし。神社は僕の家からも近いですし、あの辺りは夜ほとんど人通りがありませんから。
 …で、でも殺すためじゃないですよ?誰にも聞かれず話をするためです」
 一息ついて彼は続ける。
「でも、どれだけ話してもあいつは金を返せ野一点張りで…喧嘩になって…もみ合っているうちに石段から突き落としてしまいました」
「それは…殺意を持って突き落としたということですか?」
「…よくわかりません。カッとなっていたのは確かですけど」
 警部は続いて「喧嘩を仕掛けたのもあなたですか?」と尋ねたが、それについても彼はよく憶えていないと答えた。
「どうして長谷塚さんの携帯電話を持ち去ったのですか?」
「こ、怖くなって…僕との通話履歴が残ってるからどうにかしなくちゃと思って。それで、救急車も呼ばずに逃げました。すいません、本当に…すいません」
 必死に頭を下げる多田に、警部は「そうですか…」と感情のない声を返した。

 その後も警部はいくつかの質問をしたが、特に目ぼしい情報は出てこなかった。長谷塚のちぐはぐな服装についての話題は出なかったが…警部もあえてそうしているのかもしれないので、私からも口にしなかった。

 小一時間の聴取を終え、その場は一度休憩となる。多田を部屋に残し警部と私は廊下に出た。
「どう思われますか?多田さんの証言を総括すると、金銭をめぐるトラブルの末の殺人…あるいは傷害致死というところですが」
「まあ、確かにね」
 警部はそう答えながら取り出した昆布を口にくわえる。
「何か気になりますか?」
「やっぱり、長谷塚さんの服装のことかな。犯人が何らかの偽装工作でやったことなら、必ずそれを気にして何か探りを入れてくるはずだけど、多田さんは何も言わなかった」
 私は頷く。警部は続けた。
「それにそもそも何の偽装工作かもわからない。偽装工作じゃないとしたら、長谷塚さんが自分であんな服装をしたことになる。でも何のために?…ああ、わけわかんないなあ」
 私からすれば、この人がいつでもどこでもボロボロのコートとハット姿なのも…同じくらいわけわかんないのであるが。
「これからどうされます?」
 そう尋ねると警部は昆布をポケットにしまい、気を取り直したように言った。
「そうだね、私はもう少し多田さんと話してみるよ。もっと詳しく聴き取れば何か出てくるかもしれない。君は、二人の周囲をもう少し調べてみて」
「周囲…といいますと、やっぱり大学時代の友人でしょうか」
「そうだね。同じゼミだったらしいからまずはその辺りから当たってみて」
 了解です、と答えて私は警部と別れる。腕時計を見ると午後二時。土曜日の午後だ、関係者を回るのは骨が折れるかもしれない。

2

 私の予想に反し、多くの関係者に当たることができた。コスモ大学に問い合わせると、当時多田や長谷塚と同じゼミだった学生は彼らを含め十一人いる。その多くが今でも彼らと同じ町内に住んでいた。コスモ大学のキャンパスは二つ隣の液にあるため、どうやら他にも多くの学生がこの町に住んでいるらしい。そして卒業した後もそのまま同じアパートに暮らしている者も少なくないというわけだ。
 当時の学生名簿からゼミの同期生の住所を一つずつ当たっていくと、夕暮れまでに七人と話をすることができた。多田と同じようにこの春から新社会人になった者、長谷塚と同じように就職浪人中の者、大学院に進み未だ学生の者…と立場はそれぞれであったが誰もが懐かしそうに思い出を語ってくれた。共通の内容としては、多田はけして目立つタイプではなかったが芯の強い性格だったこと、逆に長谷塚はリーダーシップを発揮するゼミの中心的人物だったこと、そして二人は中が良かったということだ。
 ただ不可解なのは、多田が取り調べで語っていた『悪い女に騙されて抱えた借金を長谷塚が肩代わりしてくれた』というエピソードを誰も知らなかったということだ。二人だけの秘密だったのだろうか?

 日も落ちた午後7時、私はもう一度最初に回って留守だったアパートを訪ねた。多田と長谷塚以外の九人のゼミ生のうち、一人は卒業後関西に転居していた。つまり既に面会した七人を除くと、ここに住んでいるのが最後の一人である。私は愛車を路肩に停め、そのドアのインターホンを鳴らした。
 …ピンポーン。
 応答はない。やはり今日は留守なのだろうか。さてどうしよう、ひとまずここまでの調査報告を持って警視庁に戻ろうか。そんなことを考えていると、またあの音が聞えた。
 ゴトトン、ゴトン、ゴトン…。
 日中もゼミ生を回りながら何度も耳にした、優しくて心地よい音。同じ電車なのに…都会の喧騒の中で聞くのとはまるで趣きが異なる。
「あの、何かご用ですか?」
 ドアの前で少しぼんやりしていた私に、一人の女性が声をかけてきた。この季節だというのに長袖の黒いスーツに身を包んだワンレンの美人…もしかしたら。
「あ、すいません。私は警視庁のムーンという者です。この部屋にお住まいの方ですか?」
「え?は、はい…」
 警察手帳を示すと、彼女は不安そうに右手で毛先に触れた。間違いなさそうだ、最後の一人…古部智恵理(ふるべ・ちえり)である。名前を確認すると彼女は黙って頷いた。

 土曜日だというのに今日彼女は出勤だったらしい。立ち話もなんですから、と彼女は私を室内に通してくれた。小さなテーブルが置かれたフローリングの部屋。床に座って見回すと、壁際の家具や家電も必要最小限にしかない印象で、若い女性の一人暮らしにしては殺風景だった。
「質素な部屋でごめんなさい」
 彼女はそう言いながらお茶を振る舞ってくれた。私は「そんな、お構いなく」と答えてそれを受け取る。彼女も自分の湯呑みを手にテーブルの向かい側に腰を下ろした。
「ところで…何のご用でしょうか?」
「はい、実はあなただけではなく大学時代のゼミのお仲間を回らせてもらっているんです」
 彼女は「ゼミの…」と呟く。色白の肌に愛らしいつぶらな瞳をしているが、その顔はどこか明るさに欠ける。私は遺体で発見された長谷塚のこと、彼を呼び出して突き落としたと話している多田のことを伝えた。話の最中、彼女の表情はみるみる暗くなり、まるで何かに押しつぶされるようにその身体は項垂れていった。
「それで…お二人をよく知る人たちにお話を伺っているんです。どうでしょう…二人がお金を巡ってトラブルになるなんてことが有り得ると思われますか?」
 この質問に対して、他のゼミ生はみな「信じられない」「考えられない」などの言葉を返した。しかし…彼女の答えは違っていた。頭をがっくりと下げたまま、「私のせいかもしれません」と口にしたのだ。
「それは…どういう意味ですか?」
「昨日の夜、私…長谷塚くんと会ったんです。あの神社の前の道で」
 さらに意外な答えだった。詳細を尋ねると、彼女は昨夜仕事帰りに神社に参拝し、石段を下りて少し歩いた路上で長谷塚と偶然出会ったことを明かした。
「9時過ぎくらいだと思います。ちょうど曲がり角で出くわして…卒業以来だったからびっくりしました。それでちょっとだけ話をして…。
 長谷塚くん、就職浪人中だったんですけど、いい仕事が見つかりそうだって言ってました。だから履歴書を書く前に神社に願掛けに行くところだって」
 9時過ぎ…。彼が多田に電話をかけたのは9時30分。それよりも少し前のことだ。そうか、長谷塚は願掛けのために神社に…。確かに彼の部屋を探った時、就職情報誌や白紙の履歴書が机の上に置かれていた。
 …いや待てよ、おかしいぞ?長谷塚は10時に多田からの電話で呼び出され、それで神社に向かったはずではなかったか。
「懐かしかったですね、まだ卒業して三ヶ月くらいですけど」
 そう口にした彼女に、私はその時の会話の内容を尋ねてみる。
「内容…そうですね。長谷塚くんも懐かしいとかあの頃は楽しかったとかそんな話をしてました。あ、そうだ、ゼミのみんなからもらった誕生日プレゼントは今でも大事にしてるって言ってましたね」
「…プレゼント?」
「ライターです。金細工の…王様が使うみたいな派手な作りのやつで、長谷塚くんはとっても気に入ってくれました」
 ライター、という言葉に現場検証の時の記憶が蘇る。遺体の所持品にタバコはあったがライターはなかった。もしかしたら…。
「あの、長谷塚さんはそのライターを持っていましたか?」
「ええ、スーツの胸ポケットから取り出して見せてくれました。それで、神社で喫煙しちゃダメよって言って別れました」
 また謎が一つ生まれた。その時点では確かに持っていたライターがなぜ遺体発見時にはなくなっていたのか?
 私はさらにその時の彼の様子を質問してみたが、それ以上の情報は出なかった。智恵理が彼と立ち話したのはほんの十分程度。彼がスーツ姿だったことについては日中就職活動をしていたのだろうと思ってさほど気に留めなかったらしい。そしてズボンがジャージであったことには気が付かなかったという。…まあ街灯の少ない町だ、無理もない。
 思い出話に少しだけ顔を綻ばせた彼女だったが、すぐに「でもまさか別れた後で多田くんとそんなことになってたなんて…」と声を震わせた。せっかく用意したお茶にも口をつけることはない。私は雰囲気を和ませるため自分の湯呑みを口に運んでから話題を変える。
「多田さんとも、卒業以来会っていないのですか?」
「いいえ、彼とはよく話をしていました。彼も私も電車で通勤してるので、朝よく駅の入り口でばったり会うんです」
 多田とも接触があったとは…私は古部智恵理を事件の主要関係者にマークする。
「同じ電車で通われているのですか?」
「いいえ、向かう方向が違うので。だから話をすると言っても、駅の入り口から改札までの短い間だけです。プラットホームも別ですから」
「電話で話したり、一緒に食事をしたりなどは?」
 黙って首を振る彼女。多田や長谷塚だけではない、学生の頃からゼミ仲間とはあくまで大学の中だけの関係だった…と彼女は言い切る。飲み会や旅行などにも一切参加しなかったらしい。それらを説明すると、「苦手なんです、そういうの…」と小さな溜め息が漏れた。まあ確かに…この部屋を見る限り、彼女に男の影はない。私の部屋も似たようなものだからそれは何となくわかる。
「多田さんとは…朝駅で会った時にどんなお話しを?」
「別に…たいした話はしてません。仕事が大変だとか、お互い頑張ろうねとかそんな感じです」
 証言が真実なら、確かに今回の事件の被害者・加害者両方と接触はあるものの、彼女は事件そのものとは無関係ということになる。
 しかし…他のゼミ生とはどこか異なる雰囲気がどうしても気になってしまう。みんなが長谷塚の死に大きな驚きを見せたのに対し、彼女だけは冷静な落胆を見せている。まるでそれを知っていたかのような、あるいはそれが当たり前なことであるような…。

 やがて壁の時計が8時を回った。休日出勤だった彼女をこれ以上拘束しては申し訳ない。私はおいとますることにした。

3

 午後9時、警視庁に戻ると警部は自分のデスクにいた。
「やあムーン、お疲れ様。今日の取り調べは終わりにしたよ、多田さんにも休んでもらってる」
 そう言った警部の机の上を見て私は驚く。そこには証拠品を保管するビニール袋に入った、金細工のライターが置かれていた。
「警部、これは…」
 私が反応したのに警部も気付く。古部智恵理から聞いた王様ライターの話を伝えると、いつもの「ナルホド」が返される。
「じゃあこのライター、長谷塚さんの物で間違いないね。指紋も一致してるし」
「でも警部、一体どこでこれを?」
「フフフ、それが面白い話なんだけどね…」
 警部は右手の人差し指を立て、ライター発見の経緯を教えてくれた。
 これを今日近所の交番に届けたのは神社近くに住む若い主婦だった。正確に言えば発見したのはドルフという名の彼女の愛犬。ドルフは毎晩自分で散歩に行き戻ってくるが、そこでこのライターをくわえてきたのだという。その散歩コースに神社前の道も含まれていた。
「つまりこういうことですか?長谷塚さんが石段から転落した拍子に胸ポケットからライターが飛び出して前の道に落ちた。そこに通りかかったドルフがそれをくわえて帰ったと。確かにそれなら、現場で発見できなかったのも無理はありませんね」
「でもね、一つだけ食い違うんだ。さっき改めて多田さんに昨夜の時間経過を確認したんだけど…長谷塚さんと神社で落ち合ったのは10時15分頃なんだって。まあ多田さんから彼への呼び出しの電話が10時ジャストだったからこれは問題ない。そして、喧嘩の末に長谷塚さんが石段を転落したのが10時半頃なんだって」
「確か近所の老婦人が遺体を発見したのが11時半ですから、別に問題はないと思いますが」
 そこで警部は立てていた指をパチンと鳴らして言う。
「ドルフが夜の散歩に行くのは9時半からの三十分だけなんだよ。飼い主さんも、9時半に家から出して10時にはライターをくわえて戻ってきたと証言している。だけど多田さんの証言によれば、長谷塚さんが転落したのは10時半。
 いいかいムーン?つまりその時ライターが落ちたんなら、ドルフに拾えるはずがないんだよ」
 …確かにその通りだ。私はそこで智恵理から得た情報を伝える。それを聞いた警部は再び指を立て、それに長い前髪をグルグルと絡ませ始めた。これもこの変人の癖。
「待てよ待てよ…これはいよいよわからなくなってきたなあ。その話が本当なら、彼は9時過ぎの時点では確かにこのライターを胸ポケットに持っていた。歩いている時に落としたんなら気付かないはずはないし…」
「それに、古部さんの証言に寄れば彼はその時点で神社にすでに向かっていました、就職活動の願掛けに」
「就職活動…」
「はい。でも多田さんの話では、彼は10時過ぎに神社に呼び出されたことになってます。となると…長谷塚さんは昨夜二度も神社に行ったのでしょうか?それともどちらかが嘘をついているのか」
 警部はそこで人差し指の動きを止め、取り出した昆布をくわえる。
「ムーン、今日君が集めてきた情報を全部教えてくれ。特にその古部智恵理さんの話を詳しく」
 私は頷き、手帳を見ながら報告を始めた。

「…ナルホド」
 聞き終えた警部はそう呟くと、くわえていた昆布をタバコのように指に挟んで言った。
「どうやら…多田さんの言葉を真に受けるわけにはいかなそうだね。まあもちろん、古部さんの言葉もそうだけど。でも君のおかげで、長谷塚さんの服装の謎は解けそうだ」
「え?どういうことですか」
「長谷塚さんの家の周辺で、君に探してほしい物がある。まあ電話ボックスと同じで最近見かけなくなったけど、あの町にはまだあるはずだ。…私の推理が正しければね」
 得意げで思わせぶりな口調…まあこれもいつものこと。イライラしちゃダメだぞ、私。
「警部、一体何を探せばいいんですか?」
「フフフ…上はスーツ、下はジャージで向かってもおかしくない所だよ。まあウォーミングアップだと思ってちょっと考えてごらん」
 警部はそう言うと昆布をくわえて背伸びする。どうやらすぐに教えるつもりはないらしい。
 あ~もうムカつく、一体何のウォーミングアップだっつーのよ!

TO BE CONTINUED.

(文:福場将太)

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