コラム

コラム2015年10月「秋の夜長に心の名作(13) BACK TO THE FUTURE 三部作」

 2015年10月21日。
 ついに来ました、この日が。子供の頃からずっと待ち焦がれていたこの時が。
 人生で一番好きな映画を問われれば、やっぱり僕は『BACK TO THE FUTURE』と答えるでしょう。もちろん今更説明する必要もなく世界中に多くのファンを持つ大ヒット作ですが、そのPART1が公開されたのが1985年でした。まさに今年が30周年。そしてPART2で未来の世界として描かれたのが2015年の10月21日。そう、まさに今この時なのです。ずっと先だと思っていた未来の中に今自分はいる…この興奮と感動を今回はしっかり書き留めておきたいと思います。
 楽しい時はもちろん、辛いことがあった時も何度も観て何度も心に元気をもらった本作。僕にとってはまさに永遠のエンターテイメントです。もうとにかく大好き!

■ストーリー
 マーティ・マクフライはロックスターに憧れる青春真っ只中の高校生。しかしうだつの上がらない父親とお酒に溺れる母親はすっかり冷えきり、家庭内の雰囲気は淀んでいた。また彼自身も自分の夢に自信が持てずにいた。
 そんな1985年10月26日、友人の変人博士ドク・ブラウンの科学実験に立ち会うことになったマーティ。ドクはなんとタイムマシンを発明したのだ。その試運転の最中、トラブルによりマーティ一人が片道分の燃料で30年前の世界にタイムスリップしてしまう。そこで見たのは自分と同じくティーンエイジャーの父と母の姿。しかも自分が介入したせいで二人は恋に堕ちるチャンスを逃してしまう。果たしてマーティは両親の仲を取り持てるのか?そして未来に戻れるのか?

■福場的解説
 ドクに代表されるおかしくて愛しくて印象的なキャラクターたち、デロリアンを改造したタイムマシン、時間旅行の楽しさとせつなさが織りなすドラマ…などなど魅力だらけの本作。まあそれらは多くの誌面や番組で何度も特集されていますので、ここでは少し違ったポイントで魅力を考察してみましょう。

●町の歴史
 本作は三部作を通して1885年から2015年までの約一世紀半の間をタイムマシンで飛び回ります。しかし他のタイムトラベルを扱った作品との大きな違いは、フィールドが限局されていること。舞台は一貫してカリフォルニアにあるヒルバレーという小さな町。どの時代に行っても舞台はこの町。つまり三部作を通して町の歴史が描かれているのです。
 特に象徴的なのが広場にある裁判所の時計台。1885年に建造され、1955年に落雷を受け時計が停止し、1985年には時計台を保存しようという運動が起きていて、2015年にもちゃんと残っています。時代ごとに『ヒルバレー』の看板の形状も変わっているのも面白い。その他、町並みは移ろいながらも店の名前などは時代を越えて残っており、もしかしたら代々子供が後を継いでいるのかな、なんて思ったりします。そういえば僕の地元にもそんな店があったなあ…なんて、こんな所でも気持ちをほっこりさせてくれる作品です。

●相変わらずな人々
 時代は移ろいますが、暮らしている人々の姿はどこかおんなじ。実は本作、メインキャストの数は少ない。同じ役者さんが特殊メイクや衣装で姿を変えて様々な世代を演じているのです。
 まるで家系図を追うようにご先祖や子孫が登場。特に主人公マーティを中心としたマクフライ家とライバルのタネン家はどの時代でも登場し、どの時代でも同じような小競り合いをしているのが面白い。
 そう、どんな時代でもお年寄りが「最近の若いもんは」と言っていたり、母親が子供に「お母さんの若い頃はそんなことはなかったわ」と叱っていたりするのです。まさに本作では相変わらずな人々が微笑ましく描かれているのです。この映画があらゆる世代に愛される由縁でしょうね。
 そういえば僕も学生時代、試験中にA君がB君の答案を覗いていて、後から実は昔A君の父親もB君の父親の答案を覗いていたという話を聞いて大笑いしました。

●生活様式の対比
 人々は相変わらずですが、生活様式はもちろん時代によって異なります。その対比も本作の見どころ。例えばテレビは1885年にはもちろん存在せず、1955年には各家庭が初めて白黒テレビを購入し始め、1985年には各家庭にカラーテレビが数台あって当たり前、2015年には薄型で同時に複数のチャンネルが映る大画面テレビとなっています。他にも1955年では「天気予報なんて当たるわけない」と言っているのが2015年では「郵便物の配達も天気予報ほど正確ならいいのにな」と言っていたりします。我らが日本に対する認識も時代によって異なるのが興味深く、1955年では「日本製の物は故障して当然」と言われているのが1985年では「日本製が最高だ」、そして2015年では日本人上司に頭の上がらないアメリカ人サラリーマンの姿がユーモラスに描かれています。
 他にも面白いなと思うのは、ドクが「今から行く時代には道路なんかないぞ」というセリフをPART2でも3でも言うのですが、前者は2015年で車が空を飛ぶスカイハイウエイだから道路がない、後者は1885年で馬が荒野を走るから道路がないのです。

●時間テロップを表示しない
 よくタイムトラベルを扱った作品では、今がどの時代化を視聴者にわからせるために日時をテロップで表示したりしますが、本作では冒頭部分に一度表示するだけで作中にはそれがありません。しかし登場人物たちの服装や町並み、そして新聞の表記などをたくみに利用することで十分にその時代の雰囲気を出しています。特に面白いのは「人間は手紙を書いた時、最後に署名と日付を入れる」という習慣を利用している点。これによりさり気なく今の日時を伝え、しかも「自分が生まれていない時代の日付を署名する」というヘンテコなことにもなっているのです。
 また本作ではよく他作品で見られる「未来と過去を同時進行で描く」ということは一切していません。時間は過去から未来に向かってしか流れない、過去が決まらないと未来も決まらない。この鉄のルールのおかげで、視聴者が「今は一体どの時代なんだ」という混乱を起こすのを見事に防いでいるのです。

●音楽の力
 そしてもう一つ、時代の雰囲気を出すことに貢献しているのが音楽。各時代にふさわしいBGMを流すことでテロップよりもわかりやすく今がいつなのかを感じさせてくれます。特に1955年にはPART1でも2でも訪れるのですが、同じBGMを流すことで「ああまたこの時代に来たんだな」と自然に感じさせてくれます。
 また音楽をやっている人間なら誰もが一度は夢見ること、「その名曲が発表される前の時代に行って演奏して人々の反応を見たい」「自分のライブをリアルタイムで客席で見たい」という願いを叶えてくれているのも本作の魅力だと思います。

●タイムパラドックスの表現
 タイムトラベルを扱った作品では大抵パラドックスが描かれます。本作も例外ではなく、過去を変えてしまったせいで未来が変わる、というシーンが何度か見られます。その表現が秀逸で、本作では過去や未来を交互に描いて視聴者を混乱させることもなく、写真や新聞記事を小道具として未来の変化を暗示しているのが素晴らしい。つまり過去の世界を変えることで、未来から持ってきた写真の内容が変化するのです。例えばPART1では若い頃のお父さんとお母さんが疎遠になっていくと、写真の中の未来の子供たちの姿が消えていくという表現がなされています。
 また本作を観て感じるのは、人生の不安定さ。たった一つの勇気が未来を明るく変えたり、たった一つの悪意が未来を暗黒に導いたり、かと思えばどんな未来になっても変わらないものもあったり…本当に生きるって不思議ですね。

●形式美
 本三部作はとてもバランスがよい。まさにシリーズの名にふさわしく、PART1から3まで様々な時代に行きますが、歴史はくり返すと言わんばかりにどこかで見たような場面が何度も登場します。しかしルーティンコメディのようでありながらけしてマンネリには至らず、なおかつ「らしさ」を失っていないという絶妙な力加減です。それは三部作にうまく要素を配分しているからでしょう。
 例えばメインとなるキャラクター。シリーズ通しての主人公はもちろんマーティですが、彼はタイムマシンで時代を旅するのが役回りで、ドラマのメインは別の人物です。PART1ではマーティの両親のロマンス、2ではタイムマシンを悪用したライバル・ビフ、3では恋と科学の狭間で苦悩するドクがメインとなっています。
 またタイムマシンもその都度様相を変え、PART1では普通の自動車でしたが2では空飛ぶ車、3では鉄道の上を走るよう改造されます。さらにタイムマシンは毎回トラブルに見舞われ、PART1では時限転移装置の燃料がない、2では帰るべき時代がない、そして3では加速に必要なガソリンがない…と見事に配分されています。

●軽妙なセリフ
 普段僕らが使う日常の言葉や慣用句がタイムトラベルの渦中では矛盾してしまう、というのが面白い。例えば2015年での失敗を悔やむマーティにドクが「もう過去のことだよ」と言い、マーティに「未来のことだろ?」とつっこまれる。あるいは1885年に旅立つマーティにドクが「また将来会おう」と声をかけ、マーティが「今度は過去で会うんでしょ」と返すなど。こういったセリフ回しが本作の世界観を作っております。

●伏線じゃなかったものも伏線に
 そして福場が本作に肌が合う最大の理由がここにあります。驚くべきことですが、とても完成された三部作でありながら、実はもともとはPART1だけの映画だったということ。つまり2と3は大ヒットに押されて製作された「後付」なのです。にも関わらずまるで最初から細かく計算されていたかのような三部作に仕立てた、ここにスタッフの一番の才能を感じます。PART1と2、2と3、そして3と1が見事に絡み合っています。
 特にすごいと思うのは、PART1でメインキャラクターだったマーティの父親役の役者さんがもう出演できなくなったのに、この大きなマイナスをプラスに変えた脚本と演出。僕もPART2以降お父さんの役者が出演していないことに全く不自然さを感じませんでした…というより気付きませんでした。
 スタッフが考え出した「時間の流れが歪みお父さんのいない別の1985年が出現した」という秘策により、いないことが脚本上の必然になった。そしてこれにより「時間の流れを元に戻すためもう一度PART1で訪れた1955年に行く」という驚異の発想が生まれたのです。そう、PART2は1と同じセットを組、同じ役者を集め、もう一度同じ演技をしてもらったのを別の角度から撮影したというとても奇妙な映画なのです。これによりお父さんの代役の顔が写らない角度での映像も、PART1との違いを出すための演出に感じられる。しかも歪んだ未来では死亡する運命にあるお父さんですから、顔が写らないことは意味深さを与える効果にも繋がっています。
 あれ?2015年のシーンでお父さんは正面から堂々と写っていたぞ、と思われた方もいるかもしれません。でも思い出してみてください。彼は未来の腰痛治療法として宙づりになっていました。そう、心理学ではおなじみのトリック。「人間の顔は逆さまにすると咄嗟に見分けがつかない」というサッチャー錯視を見事に利用していたわけです。これに気付いた時、改めてこのスタッフはすごいと思いました。
 この他にも、PART1製作時点では伏線ではなかった事柄を見事に伏線に変え、それをPART2と3に散りばめて回収しているのが本作の素晴らしさだと思います。「伏線ではなかったものを伏線にする」という感覚が、僕の人生観に一致していてとても心地よいのです。

 そんなこんなで語り出せばきりがないですが、もしみなさん改めて本作を観る機会があればこんなポイントに注目されてみてはいかがでしょう。僕もこの秋の夜長に久しぶりに観賞しましたが、やっぱり面白かった。30年前と比べても全く色あせていない。初めて観たあの時のドキドキがまた新鮮に込み上げてくる。
 う〜ん、まさにこの映画自体がタイムマシンのような作品です。

■福場のタイムトラベル
 僕の親父はキネマ旬報を愛読する映画ファン。お袋に注意されても好きな映画のビデオをコレクションする趣味だけはやめません。そして幼い僕は夕食後居間に呼ばれ、よく一緒にビデオを観せられました。まあそのおかげで僕も映画好きになるのですけど。お袋はまたかといった感じで少々あきれ顔で皿洗い、まだ小さかった妹はよく内容もわからず隣に座って一緒に観てたりしました。
 そんな感じで観た映画の中でも一番衝撃を受けたのがやはり『BACK TO THE FUTURE』。特にクライマックスの時計台落雷のシーンは子供心に強く焼き付けられました。PART1を観終わった後、親父が「じゃあ寝ようか」とテレビを切った時、本当はそのままPART2も3も観たくてたまらなかったのを今も憶えています。だって親父のビデオ棚には2も3も並んでいたから。でもそんなこと言える訳もなく、ひたすらPART1の興奮を持て余しながら次に親父が「映画観るぞ」と言ってくれる夜をひたすら待っていました。
 そんな少年の日を懐かしく思いながら実家に電話してみると、親父の第一声は「今日は何の日か知ってるか?」。知ってますとも。そんじょそこらのファンと一緒にすることなかれ。あんたのせいで指折り今日を待つほどの大ファンをやっているんですから。
 嫁に行った妹からのメールでもまた「今日は何の日か知ってる?」。しかもそのメールでオメデタの報告まで。マーティがタイムスリップした30年という時間を、僕らも確実に過ごしたということですね。心は相変わらずですが、体は歳を重ね世代は移り変わっていく。
 もし30年前の僕がタイムスリップして今の僕を見たとしたら…どう思うかな。マーティの未来が必ずしも理想通りの姿で描かれていなかったように、僕の姿も期待していたものではきっとないでしょう。少なからずがっかりはさせてしまうんだろうな。でも相変わらずだなってどこかほっとしてもらえたら嬉しい。そしてドクの言うように「未来はまだ白紙」。まだ何もあきらめちゃあいませんぜ。
 そんなことを思った福場の2015年10月21日でした。

1955年11月12日 福場将太

(文:福場将太)

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