コラム

2013年07月スペシャルコラム「刑事カイカン My Favorite Song(上)」

*このコラムはフィクションです。

■登場人物
 山岡重司(やまおか・じゅうじ) …シンガーソングライター。
 川平賀子(かわだいら・のりこ) …山岡のマネージャー。
 中田一憲(なかた・かずのり)  …山岡の後輩シンガーソングライター。

 カイカン …警視庁捜査一課所属の警部。
 ムーン  …カイカンの部下の女刑事。

■プロローグ

 警視庁7階、職員食堂の片隅にてカレーを頬張る男が1人。8月だというのにコートを着込み、室内だというのにハットを被ったその姿は明らかに異様であるが特に彼を気に留める者はいない。彼がここに勤務する警察官であることはこの時期もう新入職員にまでおおよそ知れ渡っている。
 彼の名はカイカン、警視庁捜査一課の刑事である。もちろんカイカンというのは本名ではなく、いうなれば仕事上のニックネームのようなものだ。捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、彼の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。
 と、そこに1人の若い女が近づいてきた。肩にかかる少し茶色がかった髪をセンターで分け、切れ長の瞳が印象的な美人だ。カイカンとは異なり薄手のサマーコートを綺麗に着こなしている。
「警部、買ってきましたよ」
「やあムーン。悪かったね、買い物なんか頼んじゃって」
 ムーンというのももちろん本名ではない。彼女は同じミットに所属するカイカンの部下。
「まあ昼食に出たついでですから。はい、これです」
「いやいや助かったよ、本当にありがとう」
 カイカンは薄い袋を受け取るとそこから品物を取り出した。それは1枚のCD。同時にコートのポケットからポータブルCDプレイヤーも取り出すとカイカンは嬉しそうにディスクをセットする。
「警部、何も今すぐここで聴かなくても…部屋に戻ってからにされては?」
「いやいや、少しでも早く聴きたいんだよ…ずっと楽しみにしてたんだから。何しろ久しぶりの新曲だからね」
「そうですか。でも何だか意外ですね、山岡重司って若い人に人気の歌手じゃないですか。警部も結構流行りの音楽を聴くんですね」
「…彼は特別さ」
 そう言いながらカイカンはイヤホンを耳に付けていく。
「そんなにファンなんですか。じゃあ時々イヤホンで聴いていらっしゃるのも山岡重司?」
「まあね」
 カイカンはそう言いながらプレイヤーの再生ボタンを押す。キュルキュルと快調に回りだすディスク、子供のようにはしゃいでいる上司の顔を見ながらムーンはやれやれと肩をすくめた。
 もうじき昼休憩も終わる時刻だ、食堂にいた職員たちも徐々に席を立っていく。中央に置かれた大画面テレビの音声が際立ってくる。
「じゃあ警部、私は先に部屋に戻ってますね」
 彼女もそう言ってその場を離れようとしたが、上司の表情が変化していることに気がつく。もともと長い前髪のせいで表情がわかりにくいのだが、明らかに先ほどまでの嬉しそうな顔と違いカイカンは神妙な面持ちをしていた。それはどう見ても音楽を楽しんでいる顔ではない。
「警部…どうかされましたか?」
 カイカンは何も答えない、その沈黙にテレビの音声が割り込んだ。
「次のニュースです。本日未明、大阪市郊外の路上で発見された男性の遺体がミュージシャンの中田一憲さんと確認されました」
 カイカンはイヤホンを付けたままテレビの方に向き直る。ムーンもそれに従った。
「警察の発表によりますと、中田さんの遺体には金品を奪われた形跡があり、今後関係者から詳しい事情を聴くとともに強盗殺人の可能性も視野に入れて捜査を進めていく方針です。中田さんは昨年楽曲がCMソングに起用されたことで注目を浴びその後もスマッシュヒットを連発、ファンからはジョニー中田の愛称で親しまれブレイクが期待されていました。そのため突然の訃報に大きな波紋が広がりそうです」
「中田一憲って確か山岡重司と同じ事務所でしたよね。前にラジオで山岡が後輩として紹介してました…」
 ムーンがそう言い終える前にカイカンはイヤホンを外して立ち上がった。突発的な行動に女刑事は少し戸惑う。
「警部?ど、どうされました」
「ごめんムーン、今日午後から有給を取るよ。もし捜査の割り振りがきたらビンさんに相談して」
 カイカンはそう言うと足早に出口に向かっていく。部下の呼びかけにももう何も答えない。その場に取り残された彼女は再びやれやれと先ほどより大きく肩をすくめた。まあ上司がその外見に負けないくらい内面も異様なのは彼女もとっくに承知している。こんなことでイライラしていては彼の部下は務まらない。
「…ったくもう」
 机の上にはせっかく買ってきたCDもプレイヤーも食べかけのカレーもそのままだ。これを片付けるのも彼女がやるしかないわけである。
「せめて片付けてから行けっての。あ…CDのお金もらってないじゃん」

■第1章

 大阪府大阪市、中心街から少し離れたビルに芸能事務所『ドリームワークス』はあった。1階はそば屋であり実際に事務所が入っているのは2階と3階である。時刻は午後6時を回った。突然の所属ミュージシャンの死に先ほどまでマスコミがビル周囲に押しかけていたが、そば屋の親父からクレームが入ったこともありようやく解散したようだ。3階の社長室からそれを確認する男が1人…その部屋の主、ドリームワークス社長の野田である。口と顎にたくわえた髭を触りながら彼は言った。
「マスコミの連中は帰ったようやな。これで少しは静かになる」
「どうせすぐ近くに待機しとりますよ。それよりこれからどうするんですか」
 そう言葉を続けたのは副社長の景山。大柄な体格に不釣合いな小さな丸眼鏡が印象的な男だ。野田は窓から離れ自分のデスクに腰を下ろすと溜め息まじりに答える。
「とにかく今は警察の捜査の進展を待つしかないやろ。中田が出る予定やったテレビもラジオも全部キャンセルや。ライブツアーも中止やな」
「ロスでレコーディングしてたアルバムはどうします?一応11月発売の予定でしたけど」
「…ひとまずは延期やな。追悼とかメモリアルとかそんな文句をくっつけたら発売はできるやろうけど…それにしたって事件のことがはっきりせな下手なこと書かれへん」
「そうですよね、ハア…」
 景山はソファで頭を抱える。彼らは日中警察の事情聴取とマスコミ対応に追われていたため業務上の事後処理についてはほとんど手がつけられていない。東京ではなくあえて大阪に拠点を置き少しずつ実績を上げてきたドリームワークスにとって、多くの投資をしてきた有望株を突然失ったのは大きな痛手であった。
「社長、葬儀の方はどうなります?」
 再び景山が口を開く。
「さっきご家族と話した感じやと、身内だけで内々にやるみたいやな。まあまだ遺体は警察やろうから葬式は早くても明日以降やろうけど」
「ファンクラブに対しては…別れの会を企画しますか?」
「…それも何で死んだんかがわからんとやりにくいな」
「そうですね…。ハア、ほんまこれまで何とか中田をブレイクさせようと思って色々やってきたのに…これは冗談抜きでうちの会社の存続の危機です。悲しんでばかりおられません。…君にももっと頑張ってもらわんとな」
 そう言って景山はずっと壁際に立ち黙っていた男に視線を向けた。男は組んでいた腕を解き弱い笑顔を作って答える。
「わかっとります、俺が中田の分まで頑張らんといけませんね。2人とも…そんな心配そうな顔せんといてくださいよ」
 その言葉に野田が答える。
「まあ今日発売になった君のシングルは売り上げ好調なようやし…君がスランプから脱出したんが不幸中の幸いやな。また当分うちの所属アーティストは君だけになるんやから…頼むで、山岡」
「ええ、任せといてください」
 そう、彼がシンガーソングライター・山岡重司、ドリームワークスを名の通る芸能事務所にまでのし上げた稼ぎ頭である。少し長めの茶色い髪に日焼けした肌、西洋風のハンサムだがそれが嫌味にならないのは身長が比較的低めだからだろうか。ここ数年ヒット曲には恵まれていないもののそれでもその名前はまだ十分世間に通る。

 …トントン。
 そこでドアがノックされた。野田が「どうぞ」と答えると1人の女がお辞儀をしながら入ってくる。
「お話中失礼します。あの、山岡さんに面会の方が」
 彼女の名前は川平賀子、山岡のマネージャーである。ワンレンの黒髪に少しだけレンズに紫色の入ったメガネが印象的だ。
「面会?またマスコミかいな。それなら君が対応せんかいな」
 と、景山が不機嫌そうに言う。
「いえ、警察の方だと…」
「警察?事情聴取ならもう目一杯受けたやないか」
 今度は野田が答える。そこで山岡が賀子に歩み寄って尋ねた。
「警察が俺に何なんや?」
「あの、その方刑事さんらしいんですけど、山岡さんのお知り合いみたいで…これを見せればわかるっておっしゃいました」
 そこで賀子は1冊の手帳を山岡に手渡す。山岡はその表紙をめくるやいなや目を丸くした。
「こらたまげたな…本気でびっくりや」

 山岡が2階の応接室に下りると、そこにはカイカンが立っていた。
「たまげた…ほんまにお前かいな」
「久し振り…重司」
 カイカンは微笑まずにそう返す。山岡の顔にも笑顔はない。
「お前、今刑事なんやってな。それにもたまげたけど、こんなもん見せられたのにもびっくりや」
 山岡は先ほどの手帳をカイカンに返す。
「お前の高校ん時の生徒手帳やないか。まあ確かにこれ見せられたら訪ねて来たのが誰なんか一発でわかったけどな」
「…警察手帳より効果があると思ってね」
「そらそうやけど、相変わらず変なヤツやなあ。だいたい何でそんなもん持ち歩いとんねん。…まあええわ、とにかく座れや」
 カイカンはゆっくりソファに腰を下ろす。山岡も対面のソファにさっそうと座った。その後両者とも相手の顔を見つめたまま何も言葉を発さず、その場は沈黙に陥った。視線だけはお互い逸らすことはなく、ただ無言の時だけが流れている。
「…フッ」
 鼻で笑う感じで山岡が沈黙を破った。
「それで?10年以上ぶりに突然現れて…自分で裏切った相棒に何の用や」
「…ごめん。約束を守れなかったことは本当にすまないと思ってる」
 頭を下げるカイカンを山岡は厳しい眼光で睨みつける。
「そんな言葉で許されるとでも思っとるんか」
 再び訪れる沈黙。カイカンは頭を下げたまま何も答えない。その姿を見ていた山岡が突然笑い出す。
「ハハハハ、冗談、冗談や。もうええて、頭を上げてくれ。懐かしくてちょっとからかっただけや」
 カイカンはゆっくり顔を上げる。
「そんな心配そうな顔すんなや。約束言うたかてあれやろ?一緒にミュージシャンになるっていう…そんな高校生のガキの戯言なんて気にしとらんわ」
「…そうか」
 と、そこでカイカンも微笑む。
「俺は夢を叶えてこうして歌手になれたわけやし、お前だって自分で決めて刑事になったんやろ?」
「…ああ」
「せやったら2人とも成功や。何の問題もあらへん」
 その場の空気が和む。そこからは2人とも少し身を乗り出して話を続けた。
「それにしても何なんや、その格好は?よう見たらそのコートとハット、高校ん時に着とったやつやないか」
「そっちだっていい歳して茶髪で派手な格好じゃないか」
「これは仕事用や」
「…こっちもだよ」
「ほなお互い様やな、ハハハハ」
「フフフ」
 今度は2人合わせて笑う。
「あかんあかん、全然話が進んどらんやないか。…それで?結局用件は何なんや」
「あ、ごめんごめん。実はちょっとニュースで見てね」
 カイカンはそこで声を落として続けた。
「…ここの事務所に所属してる中田一憲さんが亡くなったって。君と同じ事務所の後輩だってのは知ってたから気になって」
「そうやったんか…それで何年も会ってなかった俺を心配してくれたんか」
「…まあね」
「そらありがとな。正直俺もまだ信じられへんのや、中田が死んでしもうたなんてな。俺にとってはこの世界に入って初めての後輩やったし、可愛がっとったから。シンガーソングライターとしてもかなり才能あったと思うし…残念や」
 そこで山岡は立ち上がりゆっくり窓に歩み寄る。午後6時半、真夏の陽光はまだ明るい。
「歌の中やったら何度も生きる意味とかを叫んできたんやけどなあ…実際に直面するとさっぱりわからん」
「刑事だって同じだよ」
 カイカンはソファに座ったままそう言った。
「なあ重司、事情聴取とかはもうすんだのか?」
「ああ、事務所の人間は一通りやられたわ。その時にこっちからも色々警察に質問したんやけど、あんまり教えてくれへんかった。わかったのは中田が家の近くの路上で倒れとったのを今朝ジョギングしてたオッサンが見つけたっちゅうことと、どうやら後頭部を殴られとって金とか腕時計とかが奪われとったちゅうことくらいや」
「お金や時計か…。死亡推定時刻については?」
 カイカンの低い声が応接室に響く。
「それも詳しくは教えてくれへんかったけど、おそらく昨夜の11時前後やと思うで。やたらとその時刻のアリバイを確認されたからな」
「ナルホド。…ちなみにあなたはその時刻どこで何を?」
 カイカンのその言葉に山岡は少し驚いて振り返る。
「お前、俺を疑っとるんか?」
「え?あ、ごめんつい…」
 そこでカイカンが焦ったように口を押さえて立ち上がる。
「ごめん、職業病だ。ついいつもの調子で言っちゃって、本当にごめん」
「ええよええよ、ほんまにプロの刑事になったんやな。…ちなみに俺はその時刻に自分の家におったからアリバイはなしや。事情聴取でもそう答えたで」
「…そうか」
「っちゅうかお前本職やろ。俺なんかに訊かんでも捜査資料とか見たらええやないか」
「う〜ん、管轄が違うからなあ」
 カイカンは困った顔で右手の人差し指を長い前髪に絡ませる。
「そういえばお前、今どこで働いとるんや?」
「…東京の、警視庁」
「東京って、お前そこからわざわざ大阪まで来たんかいな」
 山岡の声が大きくなる。

 …トントン。
 そこでドアがノックされた。山岡が「どうぞ」と答えると賀子がお盆を持って入ってくる。
「あの…お茶をお持ちしましたが」
 彼女は2人とも立ち上がっているのを見て少し戸惑う。
「あ、ご迷惑でしたか?」
「いや、大丈夫や川平。こいつは俺の高校の同級生なんや。おい、座って話そう」
「…そうだな。あ、よろしかったら川平さんも一緒にいかがですか?ちょっとお尋ねしたいこともあるので」
 カイカンはそう穏やかに微笑む。しかし賀子からすればやはりカイカンの風貌は異様でしかなかった。いくら山岡の同級生と言われてもボロボロのコートとハットに身を包み長い前髪が顔の半分を覆った男…お盆の下で彼女の左手が震え、腕時計と擦れてカタカタと音を立てた。

 その後賀子の分のお茶も用意され、3人でソファを囲む。全員少しずつ口をつけたところで山岡が言った。
「ほな改めて始めようか。東京の刑事さんが何しに来たんや?」
「だからさっきも言ったじゃないか、君の後輩の歌手が何か事件に巻き込まれたみたいだから心配になって」
「中田さんのことで…?」
 と、賀子。カイカンは頷く。
「ええ、何か力になれることはないかと思いましてね」
「お前が解決してくれるんか?」
 山岡が悪戯っぽく尋ねた。
「まあ、それができたら一番いいんだけどね。それで川平さんに伺いたいのですが、最近の中田さんの様子はどうでしたか?何か変わったことなどはありませんでしたか?マネージャーさんならご存知ですよね」
「おいおい、川平は俺のマネージャーやで」
「あ、そうでしたか」
 そこで賀子は「え、ええ」と少し困った顔をする。
「それでは中田さんのマネージャーさんはどこに?」
 山岡がまたお茶を一口飲んで答える。
「…ロスや、ロサンゼルス。中田のヤツ、3ヶ月前からロスでニューアルバムのレコーディングをしとったんや。せやから俺もしばらく会ってなかった。今日社長に聞いて知ったんやけど、中田は中休みで日本に戻ってきとったんやて。そんで、マネージャーはそのままロスに残っとる」
「…ロス」
 カイカンは興味を示す。そこで賀子が続けた。
「はい、中田さんは昨年からじわじわ人気が出てきていて、弊社としても今年ブレイクしてもらおうと必死だったんです。それで、11月発売のニューアルバムで勝負をかけるつもりでした。そのためにいいアルバムにしようとロスでレコーディングを…」
「つまり会社は最近落ち目の俺に見切りをつけたっちゅうわけや」
 と、山岡。「そんな…」と悲しそうな顔をする賀子に山岡は「冗談や」と肩を叩く。そんな2人のやりとりを見ながらカイカンは続けた。
「そうでしたか。しかし中休みで帰国したということはまたロスに戻る予定だったので?」
「そうです。中田さんは昨日の夜日本に戻られまして、3日間過ごしたらまたロスに戻る予定でした」
「昨日の夜?川平さん、それは間違いないですか?」
「はい、空港から電話があったのが午後8時過ぎでしたから。それがまさかこんなことになるなんて…」
 そこでカイカンは右手の人差し指を立てる。そして考えを整理するようにゆっくりと言った。
「ということは…中田さんは日本に戻ってすぐ亡くなられたことになりますね」
「そうやな。夜の8時に空港におったんやったらそこから車を飛ばして家に着くのが10時くらい。殺されたんが11時やったら家に戻ってホンマすぐやで」
 山岡の言葉に賀子は辛そうに目を閉じる。カイカンは続けた。
「確か中田さんの遺体は自宅近くの路上で発見されたはず…帰宅してまたすぐどこかに出かけようとしていたんですかね、長旅で疲れていたはずなのに。それに3日過ごすためにわざわざ帰国するでしょうか。この辺りのことで何か心当たりはありますか?」
 カイカンは山岡と賀子の顔を交互に見る。2人とも何も答えない。
「心当たりは…ないですか」
 そこで山岡が静かに言った。
「なあ…一生懸命なのはありがたいんやけどこっちも疲れとるんや。仲間が死んだ気持ちの整理もまだついとらん。事情聴取みたいなんは、もうやめにしてくれんか」
 そこでカイカンはまた自分の口を押さえる。
「ごめん、つい…」
「すまんな」
 山岡のその言葉を最後に応接室には再び沈黙が訪れる。3人はしばらく静かにお茶を飲んだ…それぞれの想いを胸に。

「ハアーア」
 山岡が大きく伸びをして沈黙を破る。
「茶もなくなったし、お開きにしよか。川平、今何時や」
「はい…7時過ぎです」
 賀子がポケットから取り出したスマートフォンを見て答える。そこで山岡は立ち上がった。
「7時か。外もだいぶ暗くなってきたな。川平、明日は確かラジオ出演やったけどお前だいぶショック受けとるみたいやし、なんなら休んでもええで。ラジオ局くらい俺1人でも行けるし」
「いえ、大丈夫です。昨日もお休みもらってますし、会社が大変な時に休んでばかりいられません」
 そう言いながら賀子も立ち上がる。合わせてカイカンも立ち上がった。
「お前はこれからどうするんや?東京に戻るんか」
「いや…せっかく来たから今夜は大阪にいるよ。明日は府警にあいさつに行きたいし」
 カイカンが少し力なく答える。
「そうか。ほんまやったら再会を祝して飲みに行きたいとこやけど…さすがに今日はな」
「わかってるよ」
「そんな顔すんなや。さっきはついきつく言うてもうたけど、会いにきてくれたんはほんま嬉しかった、感謝しとるで。ありがとな…俺のこと憶えててくれて」
 山岡はそう言って微笑む。それに返すようにカイカンも明るく言う。
「忘れるわけないだろ。これでも君がインディーズの頃からずっと応援してきたんだぞ。CDだって全部持ってる」
「そらありがたいな。川平、ここにファンを1人発見や」
 賀子もそこで笑顔を作りカイカンに「応援ありがとうございます」と頭を下げる。応接室にはまた明るさが戻った。カイカンが慌てた様子で答える。
「そんなそんな大袈裟な」
「ええんや、ファンは何より大切にってのがうちのモットーやからな。ハハハハ」
「そうか、フフフ」
 カイカンはそう笑いながらドアに向かう。
「じゃあまたな、重司。川平さんもありがとうございました」
「ほんま今日はありがとな。そうや、俺のCD全部持っとるんやったら、お前の一番好きな曲教えてくれや。今後の参考にするから」
 カイカンはドアの前で立ち止まり、小さく「ああ、今度な」とだけ答えた。そして少しだけ振り返り静かに言う。
「今日発売の新曲…君らしくなかったな」
 低い声が室内に響いた。空気が凍りついたように、山岡も賀子も笑顔のまま硬直する。カイカンはそのまま応接室を出ていった。
 …バタン。
 ドアが閉まって足音が遠ざかっても2人はしばらくそのまま動けなかった。

■第2章

 東京、警視庁11階の1室。1人デスクワークに勤しんでいたムーンであったが、外がもうすっかり暗くなっていることに気づいて手を止めた。彼女はパソコンの電源を落とすと立ち上がって伸びをする。…と、そこに入ってくる初老の男。
「おう、まだいたのか」
「あ、お疲れ様です。ビンさんこそまだいらっしゃったんですね」
「ああ」
 そう答えながら自分のデスクに戻った彼の名はビン、もちろんこれもニックネーム。彼はムーンだけでなくカイカンにとっても上司であり、このミットのリーダーだ。とはいえ新たに割り振られた事件の捜査は大抵部下に任せており、彼自身は過去の捜査資料や部下の報告書をのんびり読むのが日課である。また席を外している時は未解決事件の洗い直しなどをしているらしいが…詳しいことを知る者はいない。灰色がかった頭髪を七三に分け小じわの多いその顔にはいつも何の主張もない。まるで空気のような彼の存在感は良く言えば安心であり、悪く言えば無であった。
「ビンさん、お茶入れましょうか?」
「気を遣わなくてもいいぞ、それよりもう遅いから上がったらいい」
「いえ、今日は捜査の割り当てもなかったんでエネルギー余ってるんです。突然警部が休みを取ってどこか行ってしまいましたから。まあそのおかげで溜まっていた書類整理ができましたけど。だから、遠慮しないでください」
 ムーンが笑顔で答えると、ビンは「じゃあいただこうかな」と微笑む。ムーンは慣れた手つきでお茶を用意するとビンのデスクに置く。
「熱いので気をつけてくださいね」
「おうすまんな。そういえばさっきカイカンから電話あったぞ」
「え、そうなんですか。警部は何かおっしゃってましたか?」
「そうだな」
 そこでビンはお茶に口をつける。
「うまいな。うん、カイカンは今大阪にいるらしい」
「大阪ですか?そんなところで一体何を…」
「よくわからんが…まああいつのことだからまた何かつかんだんだろう。もう何日か休むと言ってたよ。おまけに明日大阪府警にあいさつに行きたいからとその根回しまで頼まれた」
「そんな」
「まったく…他のミットだったら絶対怒られるぞ」
「ビンさんもたまには怒ってくださいよ」
 そこでビンはまた一口お茶を飲む。
「まあ、あいつはあれでバランスが取れてるんだろうからな。それより君の方こそもう随分ここにいるけど今のままでいいのか?昇進試験とか考えてないのか」
「ええ…今のところは」
 ムーンは少し言葉を濁す。ビンは微笑む。
「まあ、人それぞれってことだな。僕としても助かるよ、君がいてくれると職場が引き締まる」
 普通は上司が引き締めるものでは、と思ったがムーンはそれを言葉にはせず窓の外を見る。そして大阪にいるという上司の頭の中を…わかるはずもないのだが考えてしまうのであった。

 大阪市内、カイカンは夜の繁華街を歩いていた。行き交う人がその風貌に眉をひそめるのは当然だが、彼はそんなことをまるで気にしない。大型レコードレンタルショップの前を通りかかると、そこには今日発売された山岡重司の新曲が流れていた。大きな画面には曲のプロモーションビデオも映し出されている。カイカンは少しだけ足を止めそれを見ていたが、コートのポケットからイヤホンを引っ張り出しそれを耳に付けると、またすぐに歩き始めた。

 大阪市の外れにあるアパート、山岡重司は自室のソファに横になっていた。彼の頭の中ではカイカンの別れ際の言葉が何度もリピートされている。
 『今日発売の新曲…君らしくなかったな』
 自分らしくない、そう言われた瞬間彼の背筋は凍りついた。それも無理はない…なぜならあの曲は彼の自作ではなかったからだ。もちろんCDのクレジットには作詞・作曲は彼の名前になっている。しかしそれは偽りであった。
 ここ数年彼はスランプに陥っていた。今まで湯水のように溢れてきた歌詞もメロディも思いつかなくなり、ストックもついに底をついた。無理矢理アイデアを搾り出して作った曲もかつてのようなヒットには繋がらず、彼は焦っていた。社長からプレッシャーをかけられ、後輩の中田一憲のCDが少しずつセールスを伸ばし始めるにつれ彼は精神的に追い詰められていった。そして、ついに禁断の果実に手を出してしまったのだ。
 それは…盗作。彼は他にストックはなかったかと昔の資料を整理している時にそのMDを見つけたのだ。それは後輩の中田がデビュー当時、アドバイスをくださいと彼に渡した物だった。何気なくそれを聴いた時、彼は思ってしまったのだ…これは使える、と。少し手直しして発表すれば今の時代に必ずヒットする、彼はそう確信したのだった。
 …彼は迷った。シンガーソングライターのプライドにかけて、盗作なんて惨めな真似はしたくないという想いが強くあった。しかし、このまま世間から忘れ去られるのも耐え難い屈辱であった。そして…彼は果実をかじったのだ。中田がロサンゼルスに発ったタイミングを見て自作曲としてシングルを作ったのだ。

「…あいつ、何でわかったんや?」
 山岡は寝転んで天井を見つめたままポツリと呟く。そして大きな溜め息を吐くと、ゆっくり体を起こして今度は玄関に視線を送る。彼の頭の中には、昨夜の光景が悪夢のように蘇る…そう、ここに訪ねてきた中田一憲の姿が。

***

 昨夜は激しい雨だった。日が落ちても気温は30度を下らず、生ぬるい雨を含んだ気色悪い空気から逃れるためにはクーラーを全開にするしかない状況であった。もうじき午後11時を回ろうかという時刻、そろそろ寝ようかとテレビを消した山岡の部屋に玄関のチャイムが鳴った。
 …ピンポーン。
「はい、どちら様?」
 山岡は少し警戒しながら応対する。
「山さん、俺です…中田です」
 そこで山岡は鍵を開ける。そこにはTシャツとジーパン姿の中田一憲が立っていた。
「すいません山さん、急に…」
 中田はそう言いながら持ってきた傘を振って雨水を落とす。その度に量の多い黒髪が揺れた。
「中田、どうしたんやこんな時間に。それにお前ロスにおったんやないんか?」
「ええ、そうなんですけど…中休みで帰国したんですよ。それで山さんにも会いたいなと思って」
 中田はそこで笑顔を見せる。「まあ入れや」と山岡は中田を招き入れた。中田は傘を玄関のドアに立てかけてそれに応じた。
「お前歩いて来たんか?」
「ええ、まあ近所ですし…雨は大変でしたけど。わあ、この部屋に来るのも久しぶりですね」
「せやな…まあ適当に座れや」
 中田はフローリングの床に腰を下ろすと、壁際に置いてあるフォークギターに気がついた。
「わあこれ、ヤマミネのアコギじゃないですか。こんなの持ってましたっけ?」
「おう、先月買ったんや。やっぱりアコギはヤマミネやな」
「ちょっと弾かしてもらってもいいですか?」
「構わへんで」
 山岡はそう答えながらキッチンで麦茶を用意する。その後ろのリビングで中田は無邪気にギターを鳴らしていた。
「おいおい、もう夜遅いしあんまり大きな音出すなよ」
「あっ」
 そこで中田が少し大きな声を出す。
「何や?」
「あ、いえ…何でもありません、すいません」
 山岡が2人分の麦茶を持っていくと、中田は少しバツが悪そうにギターを壁際に戻した。山岡も床に腰を下ろす。
「ビールの方がええか?」
「いえ、大丈夫です。いただきます」
 中田はまたそこで笑顔を見せる。その後お互いの近況などを話しながら山岡も笑顔を返したが、その心中にはやはり不安が膨らんでいた。そう、翌日発売される山岡の新曲…それが中田からの盗作であることを目の前の本人は気づいているのだろうか?そんな疑念が山岡の頭を過ぎり続ける。
 近況報告が出尽くした頃、山岡はさり気なく尋ねた。
「それで、急に訪ねてきたのは何か話があったんか?」
「あ、そうですね。あの、明日発売の山さんの新曲聴かせてもらったんですけど…」
 中田は少し声を落として言う。山岡の鼓動が速くなる。そして、視線を逸らした彼の耳に聞こえた中田の言葉は…「あの曲、疑われてますよ」。
 …疑われてる?あれが盗作やと気づいたヤツがおるっちゅうのか?
 山岡が視線を中田に戻すと、そこにはまた笑顔があった。
「でも、心配しないでください山さん。僕の方から明日社長に言っておきますから。大丈夫ですよ」
 そこで中田は腕時計を見て立ち上がる。
「そろそろ失礼します。では、後のことはお願いしますね。それじゃあ山さん、ごちそうさまでした。これからもよろしくお願いします」
「あ、ああ」
 ぎこちなく答えながら山岡も立ち上がる。
 …一体中田は何を言おうとしてるんや?いや、そんなのはわかっとる。こいつは俺の盗作に当然気づいとるんや。それをチラつかせながらそれでも大丈夫やと?これからもよろしくやと?誰かが盗作やと騒いでも自分が社長に言って俺を庇うっちゅうことか?俺をこれから先、ずっと脅迫するつもりか?
 そんな疑念が山岡の中でどんどん膨らんでいく。中田は何も言わず玄関で靴を履いていた。
 …あの曲は明日発売される。このタイミングで中田が余計なことを社長に言えば、確実に俺の立場はなくなる。会社は俺に見切りをつけ中田を全面バックアップするやろう。
「じゃあ、山さん…また来ます」
 中田が微笑む。…このまま帰してはいけない、山岡にはもうそれしか考えられなくなっていた。
 中田が外に出ようと傘を持ってドアノブに手をかけた瞬間、山岡は近くにあったガラスの灰皿をつかんだ。明確な殺意を彼自身自覚していたかどうかはわからない。むしろそれは自分の存在を奪われるかもしれないという危機感に支配された発作…あるいは反射に近かったのかもしれない。つかんだ灰皿は、そのまま中田の後頭部に振り下ろされたのだ。
 鈍い音と小さなうめき声を残し中田は玄関に崩れ落ちる。その後ろで立ち尽くす山岡…ドアの向こうでは雨が激しく降り続いていた。

***

 そんな昨夜の悪夢を思い出しながら山岡は玄関を見つめていた。もう引き返せないこと、このまま突き進むしかないことを何度も自分に言い聞かせる。
 昨夜、動かなくなった中田を山岡は車で彼のアパート近くまで運んだ。そしてなるべく人目につかない路上に中田を転がし、彼の身体から財布と腕時計を奪った。そして紙幣とクレジットカードを抜き取った財布は近くに投げ捨てた…金品目的の強盗の犯行に見せかけるために。幸いにして大雨だ、足跡などは洗い流してくれるとの目算もあった。そして自分のアパートに戻ると、ドアノブやフローリングの床、さらにギターに至るまで中田の指紋が残っている可能性のある箇所はすべて拭いた。中田の量の多い頭髪のおかげで、血痕がほとんど飛び散らなかったのも彼には幸いした。

 …大丈夫、大丈夫や。中田が持ってきた傘もちゃんと現場に転がしたし、部屋の痕跡も全部拭き取った。凶器の灰皿も処分したし…大丈夫、俺は捕まらん。
 山岡はそう自分に言い聞かせていた。実際この局面を乗り切れる自信もあった…今日、カイカンが訪ねてくるまでは。
 山岡は再び大きく溜め息を吐くとソファに横になる。瞳を閉じてもなかなか寝付けそうにない…彼はまたカイカンの言葉を思い返していた。

 『今日発売の新曲…君らしくなかったな』

TO BE CONTINUED.

(文:福場将太)

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