コラム

コラム2014年09月「★連載小説★Medical Wars 第6話」

Medical Wars (福場将太・著)
*この小説はフィクションです。

■第6話「恋のアセスメント」 (精神科)

 9月である。時折涼しい風を感じる瞬間もあるが、日中の大部分はまだまだ暑さに占拠されている。そんな残暑の第4週月曜日、14班メンバーは学生ロビーのいつものソファにいた。時刻は午前8時。今週の舞台は精神科…6人は出陣前の雑談に花を咲かせている。
「精神科…実は俺、結構興味があるんだよな」
 その言葉で珍しく話題の流れを作ったのは同村だった。
「でも精神科って、授業で聞いてもあんまりピンとこなかったんだよな。なんか専門用語の暗記ばっかりでさ。そもそも気分とか感情とか精神とかいろんな言葉があるけど…どう違うのか説明読んでもわからなかった」
「文芸部の同村がわからないんなら俺はもっとお手上げだよ」
 と、井沢が言った。そしてパラパラとテキストをめくりながら言葉を続ける。
「まあ人間の心の状態を言葉で説明するってのが…無理があるんだろうな。うつ状態とか不安状態とか、実際どう違うんだ?わかるようで…わからん」
 そこで長が頷いてから言う。
「確かに何となくの感じで試験問題は解けたけど…あれで実際の患者さんの診察ができるとは思えないよな。ほら試験問題だと患者が落ち込んでるとか不安だとかはっきりわかるように書いてあるだろ?でも現実ではそうはいかないよな」
「そうですよね」
 再び同村が言う。
「精神科医は…どうやって症状を見極めてるんでしょうね。借りに患者さんが自分は落ち込んでますって言ったとしても、本当に落ち込んでるかどうかなんて…わからない」
 そこで彼は隣の美唄を見てどう思うかを尋ねた。彼女はいつもの笑顔に少しだけ眉を寄せて答える。
「う〜ん、難しいよね。血圧みたいに数値で出てくるわけじゃないし、レントゲンで撮影して見えるわけでもないし…う〜ん」
 美唄は大きく首をかしげて続けた。
「やっぱり経験…なのかな?ほら、恋愛とかでもさ、数重ねると何となく相手の気持ちわかってきたりするじゃない」
 それに対し井沢が「お、意味深な発言!」とツッコむ。そして「この発言をどう思われますか、同村先生?」とおどけた。「どうして俺なんだよ!」と、ややムキになって答えるわかりやすい主人公。
「それを言うならお前はどうしてさっき美唄ちゃんに尋ねたんだよ」
「それは…その、遠藤さんはよく人の心を見てそうだからだよ」
 そこで美唄は嬉しそうな顔をし、井沢は「まあそういうことにしておいてやる」とニヤニヤ。向島はまた黙って虚空を見上げていた。
「まあでも、本当に先生たちがどうやって心を診察してるのか…俺もすっごく興味あるよ」
 と、長がうまく場を収束に導く。みんなのやり取りを優しい眼差しで見ていたまりかもパンと手帳を閉じて言った。
「じゃあそれを勉強しに行きましょうか。みなさん、時間です」
 班長が立ち上がるのに合わせて5人も続く。そしていつものように教育棟を出て病院へ向かう。くり返すが今週彼らが実習するのは精神科。医療の専門は数多くあれど、法医学や公衆衛生学と並んで特殊なものの1つとされるのがこの科である。
 ではではほのかに恋のニュアンスも感じつつ、健闘を祈るぞ14班諸君!

 午前8時半、医局での朝礼に参加した6人はその場で引き続き教授の指導を受けた。教授の名は吉川、丸い顔と恰幅のいい体型が福の神を思わせる50代後半。その心地よいバリトンボイスと穏やかな口調はまさに精神科医のベテランを感じさせた。
「…とまあここの実習で学んでほしいのはだいたいこんなところです。何か質問はありますか?」
 彼は一通りの説明の後、そう言って言葉を止める。そして特に手が上がらないのを確認するとまた穏やかに続けた。
「それでは…お配りした予定表にもあるように、みなさんにはこれから外来を見学して頂きます。まあ精神科という学問をわずか一週間で理解しろとは言いません。何かひとつでもよいので、心の医療を実感して頂ければ十分です」
 吉川は残りの説明を講師の比賀に任せ、そこで部屋を出ていった。比賀はまだ40前の若い男性医師。その鋭い眼光と口振りからは、穏やかな吉川とは対照的に好戦的な野心が感じられる。彼は手際よく一週間の実習予定を説明した。
「…流れはだいたいこんな感じかな。教授も言ってたけど全部を理解しようなんて思わずに、雰囲気だけ感じてもらえればいいから。まあ精神科は病院によってやり方が全然違うから、ここが全てじゃないけどね」
「どのあたりが違うんですか?」
 まりかが尋ねた。比賀は一瞬鼻で笑って答える。
「病棟の構造から雰囲気から病院によって全然違うのさ。例えば…開放病棟と閉鎖病棟ってわかる?」
「患者さんが病棟から自由に出入りできるのが開放病棟です」
「そう。自分の意思で入院した患者の場合は開放病棟でってのが基本だよね。でもそもそも開放病棟を有してない精神科病院だってたくさんある。閉鎖と開放じゃあ当然雰囲気も変わるさ。もっと言えば治療法だって病院によって…というか精神科医によって大きく違うんだ」
「定まった方法がない、ということですか?」
 今度は同村が問う。
「もちろんスタンダードはあるけどね。でも心の医療は…結局我流になるんだよ、俺もそうだから。まあこの辺の感覚は君がもし精神科医になったらわかるよ」
 そこで比賀は腕時計を見た。
「おっと、そろそろ外来の時間だ。じゃあ見学に入ってもらうからついて来て」
 そう言うと彼は颯爽と歩き出す。6人も追って医局を出た。移動しながら同村は考える…結局精神科とはどんな医療なのかさっぱりわからない。心という謎を扱う医学もまた謎に満ちていた。

 精神科外来第1診察室、その担当は教授・吉川。すずらん医大の精神科では基本的に新患は教授が診ることになっている。訪れる様々な悩みを抱えた患者たちに、吉川はその穏やかなバリトンボイスで応えていく。時には鮮やかな解決法を示し、時には一緒に頭を悩ませ、そして時には思いもよらない道筋へ導いていく。部屋の隅で見学していた同村とまりかは、まるで魅せられたように吉川の横顔を見つめていた。
 次に入室した患者は60前の会社員。その礼節に満ちた振る舞いと力強い物言いから、職場では重役として活躍しているだろう姿が容易に想像できる。彼は正確には患者ではなく相談者であった。
「なるほど…そうですか」
 話を聞きながら吉川は深くゆっくりと頷く。相談の内容は彼の息子のことであった。司法試験合格を目指しもう15年も浪人生活を続けている…そんな息子にどんな言葉をかけたらよいのかわからないというのだ。あきらめろと言うべきか、頑張れと言うべきか…会社員は白髪の混じった頭を抱えながら、最後には自分の子育てへの懺悔を語った。
 …訪れる沈黙。学生2人はただ息を殺してこの場を見守る。
 全てを聞き終えた吉川は、やがて無言で微笑んだ。そして机に向けていた体を相手の方に回す。
「子育てというのは…本当に難しいですよね」
 そこから語られる吉川自身の子育ての苦労話。時には切なく時にはつい笑ってしまうその物語は気付けば会社員の、そして同村とまりかの頬を綻ばせていた。
 …何か答えが出たわけではない。それでも会社員は深々と礼を言って帰って行った。そのドアが閉まった後、精神科医は2人の方に体を向ける。
「まあ今の人は…病気とかではなかったですけど、時々こういったケースもあります。きっとどこに相談していいかわからずに、ここを訪ねてくれたのでしょう」
「先生はどのようなお考えで今の話をされたんですか?」
 同村が思わず尋ねた。まりかもその質問に強い興味の表情を見せる。
「そうですね…」
 教授は少しだけ考えてから答えた。
「まあ今の人はきっと答えなんてないのはわかってて、それでも誰かに聞いてもらいたくて来たんだろうと思いました。だから共感と受容を念頭に置いて対応しました」
 「共感と受容…」と同村がくり返す。
「難しく言えばそういうことですけど、そんなに深い計算があったわけじゃないですよ。本来患者に自分の個人的な話をするのはよくないですが…まあ今の人は患者ではなかったですしね。それに…」
 そこで吉川は太い人差し指を立てる。
「大切なのはこちらが話すことじゃないんです。しっかり話を聞いてあげること。これが精神科医の一番の仕事です」
 2人は言葉を失う。半分口を開けたまぬけな顔で固まっている。どんな心がそれをもたらしたのか…2人にもわからない。そして吉川はクルリと大きな体を机に向けてマイクにそのバリトンボイスを吹き込んだ。
「それでは次の方、1番のお部屋にお入りください」

 ところかわってこちらは第3診察室。担当は先ほどの比賀講師、見学は井沢と向島。比賀は再診の患者たちを手際よく次々とさばいていく。ある青年患者は薬を始めてから少し気分がよくなったと語った。
「そうですか、ではどうです?もう少しお薬を増やしてみますか?」
 比賀はボールペンを指揮棒のように振りながらそう尋ねる。数秒の沈黙の後、患者もそれに同意する。
「それでは今日から1日3錠にしてみましょう。1ヶ月分出しておきますので、もし喉が渇くなどの副作用があれば早めに受診をしてください」
 そう言ってカルテの記載を始めた比賀に青年は礼を言って退室する。まるで速記のようにペンを走らせながら、講師は背中で学生に尋ねた。
「ええと、あんまり構ってあげられなくてごめん。ここまでで何か質問ある?」
 2人は一瞬顔を見合わせる。こんな時はやっぱり井沢のしなやかさが役に立つ。
「では1つだけ質問させてください。先生は患者さんの心の症状をどうやって診てるんですか?」
 「どうやって所見をとってるかってこと?」と、比賀は振り返らずに言った。井沢は「はい」と返す。
「表情とか声の調子とか全体的な雰囲気とか…あともちろん患者自身の訴えとかね、そういうのを総合的にふまえて判定してるよ。前回の落ち込みが3なら今回は2、みたいにね」
「そんなにはっきり数字にできるんですか?」
 と、向島。
「あくまで自分の基準だけど、そういうふうにしていかないとわけがわからなくなっちゃうだろ?医学は化学、精神科だからって精神論で解決するわけじゃない。他の科と同じ、効果がある薬を見つけて調整してあげるのが精神科医の仕事」
「やっぱり薬で治すんですか?カウンセリングとかはされないんですか?」
 井沢の質問に比賀は走らせていたペンを止める。そして持ち上げたそれを耳の横で振りながら答えた。
「基本は薬物療法さ、精神療法はあくまで補助。なんか人生の意味とかどう生きるべきかとかをクドクド演説する精神科医もいるけどさ…俺はそれは違うと思うな。だって医者なんだから、人生相談なら飲み屋のオヤジでもできる。思想を導くならそれは宗教だ」
 そこで講師はクルリと椅子を回して2人の方を向く。
「実は最近脳波とか脳画像で精神疾患を診断する方法がどんどん発展してるんだ。これが確立すれば長々と患者から話を聞かなくても診断できるようになる、きわめて科学的に根。医者によって診断が違うなんてこともなくなるし、薬の効果の判定だってもっとはっきりするさ」
「機械で心がわかるようになるんですか…」
 向島が感慨深げに呟く。比賀はまた鼻で笑って言った。
「違う違う、心なんてわかるわけないしわかる必要もない。病気の所見がわかればいいんだから」
 そう言うと比賀はまた机に向き直りペンを走らせた。

 一方こちらは第5診察室。担当は飯森というまだ若い女医、見学は美唄と長だ。他の診察室と異なり、この部屋には中央に丸いテーブルが1つ置かれている。女医と患者はまるでカフェでお茶をしているかのように、90度の位置関係でテーブルを囲む。
「そうですか…じゃあ次はこんな作戦はどうでしょう」
 飯森は優しく、そしてやや幼さの残る声で20歳の女性患者にアドバイスしていた。彼女の悩みは人前で緊張してしまうこと。そんな時の呼吸の方法、肩の力を抜くストレッチ、心の持ち方などを女医はレクチャーしていく。
「ありがとう先生。その作戦、やってみるね」
 やがて女性患者はそう言って診察室を出ていった。まだ笑顔…とまではいかないが少なくとも入室してきた時よりは明るさが灯されたように思える。そこで笑顔の達人、美唄が壁際の椅子から質問した。
「先生、1つ訊いていいですか?」
 飯森は「どうぞ」と軽く髪を直しながら答える。
「先生が今やってらっしゃったのはどういう治療法ですか?」
「どういう…って言われても難しいけど、まあいろんな作戦を身に付けて、成功体験を増やしてもらうってことかな?うまくいった経験が増えると、自然と緊張は弱まるものよ」
「ああ、そうなんですね。ライブのステージでも最初は緊張するけどだんだん慣れていきますもんね」
 彼女は楽しそうに話す美唄を興味深げに見て言った。
「まあそういうことかな。あなた、軽音楽部なの?」
「はい、一応ボーカルです。先生は何か部活してましたか?」
「陸上よ。と言っても私はすずらん医大の出身じゃないけどね。普段は街のクリニックに勤務してて、ここは非常勤」
「へ〜そうなんですか」
 美唄のおしゃべりが暴走しそうなのを察知したのか、ここで長が話題を戻す。
「先生はお薬は使われないんですか?」
 女医はまた髪を触ってから長を見た。
「もちろん使うけど…なるべく使わないようにはしてるかな。特に若い女の子にはね。睡眠薬とか安定剤が癖になっちゃう子もいるから」
 そこで少し厳しい顔になる。
「安易に薬を出すせいで薬物依存を作り出してる…なんてよく他の科の医者から嫌味言われるのよ。精神科医は白衣を着たヤクの売人だってね。だから気をつけないと」
 そして彼女は笑顔に戻る。
「それにね、世界で一番使われてる抗うつ薬とただの小麦粉で治療の効果を比較したら実は変わらなかったなんてデータもあるの。フフフ、だからね私は薬だけを信じたりしない。もちろんカウンセリングだってそんなに信じてない。患者さんが話す言葉だって、どこまで本当かなっていつも疑うの」
「じゃあ何を信じてるんですか?」
 気遣いの達人の長としてはいささか無礼な質問であったが、つい口に出た。しかし女医は特に気にした様子も泣く返す。
「なーんにも信じてないの、私。フロイトとかクレッペリンは確かにすごいと思うけど、まあそういう考え方もあるかなって感じ。この仕事は決め付けないことが一番大切だと思うから…だから何も信じない、それが私のスキーマかな」
 「スキーマ?」と美唄が耳慣れない言葉に首をかしげる。すると飯森は悪戯っぽく笑い、「こら、勉強不足」とたしなめた。そして壁の時計を見て次の患者を入れる時刻だからと話を終わらせた。学生2人は黙って応じる。何も信じないという女医は、次の患者も明るい笑顔で迎え入れるのであった。

「う〜ん、見事に違うな」
 昼休憩の学生ロビー、お互いの外来見学の感想を交換してまず出た言葉がそれであった。
「話を聞くのが大切って言う先生もいれば、薬で治すって言う先生もいる。かと思えば薬も話も信じてないって先生もいる…何打こりゃ」
 と、長が弁当に箸をつけながら言う。その横で井沢も深く頷いて話した。
「こんなにバラバラでも同じ精神医学なんですかねえ?ほら、心臓とか脳の外科医なら時々ゴッドハンドがテレビとかに出るじゃないっすか。でも精神科の名医って…一体どんなのなんすかね」
 「確かにイメージ湧かないね」と、美唄もアンパンをかじって同意する。そこで同村もカレーパンを手に言った。
「比賀先生も言ってた、精神科医はみんな我流ってことなのかな。まあ共通してると言えば、みんな日本語が堪能ってことかな」
 「どういう意味?」と、クリームパンを手にしたまりか。
「吉川教授も比賀先生も、日本語の使い方が上手いと思わない?何かを説明する時に、的確な単語を用いてるっていうか」
 「さすが文芸部」と今度は向島が合いの手。同村は少し照れたように笑い、言葉を続けた。
「まあ午後からは病棟の見学みたいですから…カルテとかどんなのかしっかり読ませてもらいますよ」
「うんそれ、私もすっごく興味ある」
 美唄がそう言って意気込むと、隣のまりかが手帳を開く。
「そうね、精神科はほとんどが病棟の見学とクルズスみたい。特に症例レポートとかもないから、本当にただの見学ね。これも教授の方針みたいだけど…ほら朝の説明でも、自由に病棟を歩いて患者さんと話をしてって言われたじゃない?」
「でもそれって不安だよな」
 と、同村。
「心がデリケートな患者さん達に、そんな気軽に話しかけて大丈夫かな?下手なこと言って相手を傷つけたりしないかな」
「そうだな、怒らせちゃったりするかもって思ったら恐いぞ」
 と、井沢が続けた。そして女史2人に言う。
「2人も気をつけなよ。あんまり刺激しないように」
「私は大丈夫よ。でも美唄ちゃんは気をつけないと、アイドルにはストーカーが現れるから」
 まりかがそう言うと美唄は「もう何言ってるの、まりかちゃん」と笑う。ここで颯爽と同村が「大丈夫、俺が守ってやる」と言う…わけもない。彼はいつしか視線を落とし、自分の世界に入り込んでいた。その頭の中では、朝の吉川からの言葉が何度もリピートされている。「我が国の精神科医療の発展で一番の課題は…」と、そのバリトンボイスは記憶の中でも穏やかに反響する。
 同村が会話から外れたこともあって、その場の話題もいつもの世間話に移行していく。向島はソファで仮眠に入り、美唄とまりかは女史トーク。そして井沢は「そう言えば長さん見ました?精神科の受付にめっちゃ綺麗な女の子がいるの」と相変わらずの観察眼を披露する。
「いや〜さすがに見てるね、井沢先生。確かにあれは美人だ」
 長もそう言って同調した。あんたも実習中にどこ見てんだオッサン!まあ短い昼休憩、こんな馬鹿話も大事な心の洗濯なのである。

 同日午後の病棟実習、6人は比賀から簡単に病棟を案内されると後は4時のクルズスまで自由にそこで過ごすよう指示された。すずらん医大の精神科病棟は11階にあり、病棟内は自由に歩けるが外に出るドアは施錠されている…そう、今朝も話題になった閉鎖病棟である。病床数は病院内で最も少ない60床。中央にはナースステーション、その前方はデイルームと呼ばれるテレビや新聞が置かれた談話空間となっている。
「壁に絵とかも飾ってあるんだな」
 ひとまず病棟内を歩きながら同村が言った。残りの5人も興味深げに鑑札しながら足を進める。そこで美唄が指差した。
「ほらあそこ、卓球台とビリヤード台が置いてある!」
 相変わらず彼女の声のボリュームは大きいがさほどそれが目立つことはない。病棟内は患者の生活音や会話、テレビやラジオの音で雑然としていた。
「さっき麻雀とか将棋やってる患者さんもいたな。う〜ん、これが精神科か」
 長もそう言って何かを納得する。そういえば先ほど比賀に案内された多目的室は小さな体育館ほどの広さがあった。スポーツやカラオケ大会をそこで行なうのだという。こんな設備はもちろん他の科では見かけない。
「ほらあそこ、昼ねしてる人がいるよ。フフフ、気持ち良さそう」
 窓際の廊下に置かれたソファで寝転がる患者を見て美唄が微笑む。まりかも「そうね」と笑った。井沢も感慨深げに言う。
「これが精神科か…なんか親父に聞いてたのと全然違うな」
「そうだね…なんだか平和な感じ」
 と向島も優しい顔で言う。同村賀ふと見ると小さな部屋で数名の患者と医師・看護師が机を囲んでいた。どうやらテキストを使って勉強しているようだ。
「あれは何だろう、秋月さん」
 彼が尋ねると班長は少し考えてから、「集団精神療法じゃないかしら」と返した。
「なるほど、依存症の治療とかでやるやつだね。そうか、あれがそうなんだ」
 授業で聞いたその治療法…やはり百聞は一見にしかず。同村に続き美唄も強い興味を示してその部屋の様子を見ていた。

 …とまあ新鮮な発見も多い病棟見学だが、さすがに30分も歩けばもう見るものはなくなってくる。すでに同じコースを2周歩いた。これ以上グルグル回っていては患者たちも不審に思うだろう。
「どうしよっか…まだ3時だ。クルズスまであと1時間ある」
 と、長。井沢がそれに答える。
「そうですね、無断で学ロビに戻るわけにもいかないですし…どっかで自習します?」
「本当はここで色々な患者さんと話をしなくちゃいけないんだろうけど…正直かなり勇気いるよね」
 そう言う美唄に、まりかは真剣な面持ちで「私…話しかけてみようかな」と返す。そしてデイルームに勇敢なる一歩を踏み出そうとした時、逆に向こうから近付いてくる患者が1人。彼は愛想のいい笑顔で話しかけてきた。
「学生さんですか?」
 6人はややぎこちなく微笑んで「はい」と返す。50歳ほどのその男性は自らを伊藤と紹介した。丸顔で細目、笑うともっと目が細くなる。6人も順に簡単な自己紹介をする。その度に彼は握手をして「よろしく」とくり返した。
「ちょっとお話でもしませんか?」
 まりかがそう言うと、彼は嬉しそうにデイルームの空いているテーブルにみんなを導いた。そして始まる世間話。伊藤からは「何年生ですか?」「何歳ですか?」などの質問が出される。当初ぎこちなかった6人もいつしか自然体となり、特に美唄などはいつもの笑顔100パーセントを解放して会話を盛り上げた。学生の趣味や部活の話を聞きながら、伊藤はずっと嬉しそうな顔をしていた。そして長丁場に思えた4時までの病棟見学はあっという間に過ぎたのである。

 午後5時、クルズスから解放されたところで月曜日の実習は終了となる。学生ロビーに戻るためエレベーターホールに来た6人であったが、そこで同村だけはもう一度病棟に行きたいと発言した。
「いいんじゃない?同村くん精神科に興味あるんだし、しっかり勉強したら」
 班長はそう言って笑う。井沢も長も特に気にする様子はなく、「初日から飛ばしすぎんなよ」と彼の背中を叩いた。向島も「頑張ってね」とウインク。
 そんなわけで病棟に引き返してきた主人公、その後ろから疲れ知らずの声が飛んでくる。
「同村くーん!」
 振り返るとそこには美唄。彼女は自分も一緒に行くと告げた。意外な展開に同村は驚く。
「へへへ、私わかってんの。同村くん、あの伊藤さんのカルテ読みに行くんでしょ?さっきはその時間なかったし、精神科のカルテがどんなのか見たいって言ってたし」
 同村は改めて美唄のすごさを思い知る。
「やっぱりすごいや、遠藤さん。君ならすごい精神科医になれるかも」
「何言ってんの。それに私もカルテ見たかったからちょうどよかった」
 ナースステーションは日勤から夜勤への交代でややざわついていたが、2人は事情を説明しカルテ閲覧の許可を得た。そこで空いている部屋を借りてカルテを読むことにしたのだが…。
「はいこれ、伊藤さんのカルテね」
 そう看護師から手渡されたのは広辞苑かと見まごう書であった。受け取った同村はその厚さと重さに落としそうになる。
「こ、こんなにあるんですか?」
「それはパート7よ。前の6冊もいる?」
 そう悪戯っぽく笑う看護師に、2人は丁重なお断りを入れるしかなかった。

 火曜日・水曜日も実習の大部分は病棟での自由行動だった。6人が病棟に行く度に伊藤は歩み寄ってきて笑顔をくれる。次第に話をするだけではなく、一緒に将棋盤を囲んだりもするようになった。王手をかけられているのになかなか伊藤が負けを認めず、そんな仕草がさらにその場に笑いを生んだ。また彼との触れ合いがよいきっかけとなり、6人は他の患者たちとも交流を広げていく。
 例えば美唄は患者とのカラオケに挑戦。音楽部で数々の曲を歌ってきた彼女は演歌でも歌謡曲でも何でもござれ。まりかの冗談よろしく、患者からデュエット希望が殺到するアイドルになってしまった。井沢や長は患者との軽運動に挑戦。一緒にストレッチをしたり簡単なスポーツをしたりした。同村は伊藤以外にもたくさんの患者のカルテを読破、同時に推理小説が好きだという患者とミステリー談義に花を咲かせた。そしてまりかは許される限り医師の診察に立会い、家族を含めての話し合いの場などにも参加した。
 まあそんなこんなで14班は吉川の思惑通りかはともかくとして、それぞれに『心の医療』を体感していくのであった。

 そして迎えた実習4日目の木曜日。朝の学生ロビーは井沢のビッグニュースから始まった。女史2人がまだ来ていないいつものソファで、彼は息を弾ませてそれを告げた。
「いいですか、よく聞いて。実は大変なことが起こりました。精神科の外来受付にいたあの女の子、憶えてますか?」
「あのすごい美人の子だろ?それがどうした」
 と、長。同村が「何か事件に巻き込まれたのか?」と尋ねた。
「アホか文芸部、そんなわけないだろ。あの子、与謝野さんって言うんだけどさ、一緒にお食事できることになったんだよ!昨日の外来見学の後、話してたらOKだって」
「そうなの、それはおめでとう。頑張ってね」
 今度は向島が言った。
「だから違いますって、そうじゃなくて…いきなり1対1で行くわけないじゃないですか。受付の他の子も誘って、その中の1人として来るんですよ。もちろんこっちも複数で参加するんです。そのためにこうして話してるんじゃないですか」
「つまり、俺たちも一緒にってこと?」
 同村がやや苦笑いで言うと井沢は深く頷く。その瞬間長が立ち上がってナンパの達人を抱きしめた。
「素晴しいよ井沢!」
「苦しいですよ、長さん。そういうわけで急なんですけど、明日の夜大丈夫ですか?」
 長は「もちろん!」と意気込む。まったく年甲斐もなく…あ、こりゃ失敬。
「おい井沢、こんな話のために時間よりも早く集合させたのか?」
 同村が言うと井沢は「とっても重要な用件だろ」と返す。向島も「別に行ってもいいよ」と笑った。
「俺は…遠慮するよ」
 そう言った同村を今度は井沢がヘッドロックする。
「おいこら、せっかくの機会なんだぞ。それともやっぱり美唄ちゃん優先か?」
「バカ、何言ってんだよ。痛い痛い、離せって。お前こそ彼女がいたんじゃないのか?」
 もちろん本気の喧嘩ではない。言うなればじゃれ合いに近い。
「だからただのお食事会だって!彼女とか関係ないの、お前も来い」
「離せ、離せって。それに金曜日は予定があるから無理なんだよ」
「嘘をつけ!」
「も〜2人ともいつからそんなに仲良しになったのよ」
 突然のコメントに2人は身を離して振り返る。そこには白衣姿の女子2人。今の声は朝から笑顔100パーセントの美唄のものだった。
「おはよう美唄ちゃん。いや、ちょっとプロレスごっこをね。な、同村」
「え?ま、まあ…そんな感じかな」
 バツの悪い2人はすがる眼差しで長と向島を見たが…、彼らは揃って他人のフリで虚空を仰いでいる。ず、ずるい!
「今日も朝から病棟見学よ。パワー残しておかなきゃ、フフフ」
 まりかが全てを察したように笑う。そして彼女の「ちょっと早いけどみんな揃ったんならもう行っちゃおうか」の言葉で6人はその場から歩き出す。
 駐車場に出たところで美唄が同村の背中をつついて言う。
「行ってくればいいのに、合コン」
 その瞬間男性陣の背筋が凍った。
「え、遠藤さん、聞こえてたの?」
「まあちょっとはね。いいんじゃない?可愛い彼女との出会いがあるかもよ」
 楽しそうに言う美唄。そこで向島も言った。
「そうそう同村くん、色んな人と話してインスピレーションを受けるのは創作活動のために必要だよ?だから僕も行くんだ」
「そう言われても…明日は本当に用事があるんです」
 そう答えながら同村は考える。
 …遠藤さんは一体どのあたりから聞いていたんだ?そしてどういう気持ちでこんなことを言ってんだ?もし本気で彼女を作れって言ってるんなら俺に脈はない。もしわざと言ってるんなら…って何を考えてんだ俺は!
「も〜井沢くん、合コンもいいけど14班の飲み会を企画してよ。そうだまりかちゃん、男子が合コンならこっちも女史飲みやろうよ」
「フフフ、いいかもね」
 同村の胸中などお構いなしに美唄は言葉を振りまいている。
「美唄ちゃん、だから合コンじゃないって!ただのお食事会。ね、長さんそうですよね?」
 爽やかキャラ崩壊の危機に立たされた井沢が必死に言う。すると浪人生のボスは天高い病院を見上げて呟いた。
「いや〜今日も伊藤さん話しかけてくるんだろうなあ、楽しみだなあ」
「誤魔化すなー!」
 みんなが一斉に言う。同村の来いわずらいはさておきいつも通り楽しい朝の1コマ。しかしその10分後、彼らは深い闇へと落とされることになる。

 同日午後2時、病棟のカンファレンスルームでは吉川教授のクルズスが行なわれた。吉川は精神疾患の病態と治療、臨床上の注意点などを穏やかに語っていく。6人はそのわかりやすい説明に耳を傾けながら、その心の半分はやはり今朝の出来事に奪われていた。それを見透かしたかのように、一通りの説明の後で吉川が言った。
「今日はみなさん元気がないですね。実習で何かありましたか?」
 無言で視線をテキストに落としたままの6人。だが数秒の沈黙をおいて同村が瞳を上げた。
「吉川先生、質問してよろしいでしょうか?」
「もちろん構いませんよ、どうぞ」
 それは今朝6人が病棟を訪れた時のことだった。そこには実習4日目にしてもう慣れ親しんだ空気があった。ただ1つ違っていたのはあの伊藤が話しかけてこなかったこと。いつもなら向こうから歩み寄って来るはずなのに。
 同村がデイルームのいつものテーブルにいる彼を見つけた。こちらに気付いていないのかと思い、みんなで近づいて明るく声をかけた。…しかし彼は何も返さない。それどころか6人に冷たい一瞥をくれると席を立ちそのまま自室に帰ってしまった。何が起こったのかわからず、彼らはそこに取り残されるしかなかった。
「…なるほど」
 話を聞いて、教授はしみじみと頷いた。
「どうして伊藤さんが突然そんな態度をとったのかわからない…というわけですね?」
 「はい」と答える同村。他の5人も無言で頷く。吉川は少し考えてから、優しい笑顔で言った。
「ではそれを課題にしましょう。みなさんは今日これからの時間を使って、伊藤さんの行動の意味を考えてください。患者の言動を解釈し内面を理解する…これをアセスメントと呼びます。各自の意見を発表し最終的には全員で合議すること」
 吉川はそこで順に6人の顔を見た。
「この部屋を自由に使って構いません。もちろん伊藤さんのカルテを持ってきても構いません。あとヒントをここに書いておきますね」
 教授はメモ帳に何やら書き込むとそのページを破って折りたたむ。そしてそれをまりかに渡して言った。
「まだ見ちゃダメですよ。議論が行き詰った時に読んでくださいね。正解は明日の朝、医局でお伝えします」
 そこまで言うと彼はパンと一度手を叩き、「それでは始め!」と言って部屋を出ていった。足音が遠ざかってから長が言う。
「なんか…大変なことになっちゃったなあ」
「話し合って…わかるものなんですかね」
 と、井沢。そこでまりかが「とにかくやってみようよ」と返した。同村も「うん、やろう」と続く。
「私も考えてみたい。このままモヤモヤして実習終わるの嫌だもん」
 美唄がそう言うと向島が「それじゃさっそく」と立ち上がる。
「何をしてるんですか、向島さん?」
「机のセッティングだよ同村くん。話し合うなら向かい合わせになった方がいい。部屋は自由に使っていいって言われたし」
 そこで全員が立ち上がり向島を手伝う。そしてそこに即席の会議室…いや討論場が完成した。14班にとって初めてのカンファレンスである。
 各々の席に着く6人…彼らは気付いていないが、予定外の課題が出されたことに誰も面倒だと感じていない。むしろどれだけ労力を払っても答えを知りたい…そんな心と言う謎への興味に突き動かされていた。

「それでは、何故伊藤さんが急に冷たい態度になったのか、今の時点でのみんなの意見を聞かせてください」
 司会はもちろん班長・まりか。すぐに意見が出ないのを確認して彼女は自ら先陣を切った。
「では出席番号順にいきましょう。まず私から…。伊藤さんの病名を考えると、慢性期に見られる自閉あるいは拒絶ではないかと思います。だから話しかけられても返さなかった」
 黙って頷く面々。長が書記としてノートにペンを走らせる。続いて井沢が発言する。
「俺は…むしろ陽性症状じゃないかと思う。誰とも話すなとかそいつらを信じるなとか、そういう声が頭の中に聞こえたんじゃないかな」
 再び頷く面々。続いて美唄が言う。
「精神症状とは限らないんじゃないかな?体調が悪い時も人間って不機嫌になるじゃない?例えばお腹が痛かったとか」
 まりかと井沢が小さく「なるほど」と漏らす。続いて長が美唄の意見を書き終えてから発言した。
「俺は…何の症状かは判別つかなかった。でも、例えば朝の薬を飲み忘れたとかは考えられないかな?それで気持ちが不安定になってたとか」
 そこでまたいくつかの「なるほど」がこぼれる。そんな意見たちに頷きながら同村はどこか違和感を感じていた。何かが…何かが食い違ってるような…。
「次、同村くんお願いします」
 まりかにそう言われて同村は口を開こうとするが…謎の感覚が頭にまとわりついてうまく言葉が出ない。
「ごめん、まだまとまっていなくて…。何か、何かが変な感じはするんだけど…」
 班長は「焦らないで、じゃあ後でお願いね」と返し、続いて向島を指名する。アウトローは少し考えてから語った。
「そうだね…アピールってことはないかな?ほら、自分をかまってほしくてわざと調子が悪いように装ったって可能性はどうだろう」
 長は「有り得ますね」と言いながらそれも記載する。
 かくして同村を除く5つのアセスメントが出揃ったわけだが…。
「この中に正解があるのかな…同村、他に思いつきそう?」
 長がノートを見ながら言った。主人公はまだ黙って考えている。その後もいくつか症状を推察する意見は出たが、誰も答えを1つに絞り込めない。
「そろそろこれ…見ちゃおっか」
 意見が出尽くしたのを感じ取り、まりかが教授から渡されたメモを取り出す。この瞬間は全員一致で見ることが即決した。折りたたまれたそれを開いた瞬間、彼女の眼鏡の奥の瞳が大きく開く。そこには少なからず驚きの色が浮かんでいる。どうしたのか尋ねる美唄に彼女は静かに答えた。
「じゃあ読みます…『答は、病状とは限らない』」

「…そうか」
 数秒の沈黙を破り、同村が言う。吉川のヒントを聞いた瞬間、頭にまとわりつく違和感がその正体を見せたのだ。井沢が「どういうことだ?」と尋ねる。
「ほら、月曜日の最初の指導の時、吉川先生言ってたじゃないか。精神科の患者さんを特別扱いせずに、当たり前の人間として見ることが大切だって」
「だからどういうことだよ」
 急かす井沢に向島が言った。
「つまり…こういうこと?僕たちは無意識に伊藤さんの態度が冷たくなった原因を、病気のせいだと決め付けてた、と」
 同村が頷く。向島は続けた。
「確かに…普通、例えば友達が冷たくなったからって病気とは考えないよな」
 そこで井沢がはっとする。まりかに美唄、長も同じ衝撃を受けたようだ。そして同村も掴んだ自らの違和感の正体を白日の下にさらす。
「俺たちは…伊藤さんに冷たい態度をとられて落ち込んだ。でもそれが病状によるものなら仕方ないこと、そんなに落ち込むことじゃない。なのに落ち込んだということは、人間関係を損なったと感じていたんだ」
 みんな同村の語りに注目する。
「でも今ここで伊藤さんが冷たくなった理由を考えていた時、誰もが無意識に病状を挙げてしまった。一方で人間同士のことと感じながら一方で原因を病状に求めていた…だから違和感があったんだ」
 誰もが同村という男の隠された能力を垣間見た瞬間だった。しかし当の本人は寄せられる視線にも気付かず、相変わらず自信のない顔をしている。
「…でも原因が病状じゃないとすると、例えばどんなことだ?」
 少し間をおいて長が言った。同村が答える。
「それは色々考えられますよ。例えば…仲の良かった他の患者さんと喧嘩しちゃった、とか。それで落ち込んでたのかもしれない。テレビで悲しいニュースを見たのかもしれない…」
 それに続き井沢も「そういうことか」といくつか伊藤に降りかかったストレスを推理してみせる。他の探偵たちもそれに続いた。先ほどとは全く別の角度でのアセスメントがいくつも挙がり、長の筆記も追いつかなくなってきた。そしておおよそ出揃った頃、思いついたように美唄が言う。
「…ねえ、原因が私たちの方にあるってことは考えられないかな?」
 「どういうこと?」と同村。
「病状悪化とか嫌なことがあったとか全部伊藤さん側だけのことでしょ?でも人間関係がうまくいかない原因って、大抵お互いにあるじゃない?だからひょっとして…」
 今度は彼女の才能が発揮されたようだ。5人は美唄の意外な着想に一瞬言葉を失う。
「私、昨日美容室でちょっと髪の色を明るくしたから…伊藤さんはそれが不快だったのかも」
 そう心配そうな顔をする彼女…慌てて長が言う。
「いや、俺の方こそタバコの臭いが残ってたのかもしれない。それで伊藤さんは…」
「それより僕の徹夜明けで充血した目が怖かったのかもしれない」
 と、向島も続く。そこで伏せ目がちにまりかが言った。
「もしかしたら…私たちがこれまで話しかけ過ぎたのかもしれないわ。ずっと伊藤さんは楽しんでくれてると思ってたけど、本当は疲れてたのかも」
 黙って頷く面々。そんな調子で今度は自分たちへのアセスメントが並べられる。そして一通りペンを走らせた後に長が言った。
「相手の原因、こっちの原因、たくさん出たけど…一体どれが正解なのかどうやって判断すればいいんだ?」
「そうね…」
 まりかが長のノートを覗き込んで考える。一瞬の後に思い出したように言った。
「カルテ…カルテよ!ほら、吉川先生も読んでいいって言ってた」
 次の瞬間、同村が「俺が取ってくる」と席を立った。そして間もなく戻ってきた彼は月曜日に残って読んだその厚い書を広げる。
「同村くん、伊藤さんのことを考えるためには、これまでの生活史の部分がいいと思うの」
 美唄が言う。同村も頷いてその箇所を開き、「みんな、ちょっと読み上げてもいいかな」と尋ねた。誰も異議を唱えない。
 そして同村は伊藤の出生から現在までをまとめた部分を読む。精神科のカルテにはただ症状や検査結果が記されているわけではない。そこには患者の人生が刻まれている。発病から初診、通院から入院、家族の現状、そしてこの19年間に及ぶ入院生活、退院が実現できない現実の壁。…室内には同村の声だけが続いていた。

「19年…」
 朗読の後、最初にそう沈黙を破ったのはまりかだった。
「あんなに優しくて、明るくて…そんな人がずっと病院の中で暮らさなくちゃいけないなんて。もし自分だったらって考えたら…とても…」
 それは彼女が初めて垣間見せた弱さだった。続いて美唄が言う。
「それなのに話しかけてくれてたんだよ、私たちに。あんなに笑ってさ。どんな…気持ちだったんだろう」
「強さなのか…いや、弱さなのかもね…」
 向島が呟く。長も黙ったまま頷いた。
「何にもわかってなかった…」
 同村が口を開く。
「一緒に話して、笑い合って、カルテを読んでも…何もわかってなかった。態度が冷たくなったことを考えるんじゃなくて…どうして笑ってくれていたのかを考えなくちゃいけなかったんだ」
「もしかしたら…」
 そこで井沢が言う。
「ずっと病院にいる伊藤さんから見たら、自由がある俺たちが羨ましかったのかも」
 最初に会った時、伊藤が将来や日常について質問してきた姿が思い起こされる。
「今朝俺達浮かれてただろ?合コンの話とかでさ…それが伊藤さんに伝わったんじゃないかな?それが…すっごく苦しかったのかもな」
 そう言うと彼は自分を恥じるように拳を握り締めた。長もいつしか書記をやめて腕を組んでいる。人間の心がこんなノートにおさまるはずもない、そんな無力感の表れであった。
 再び訪れる沈黙。寂しさ、悲しさ、切なさ、悔しさ…思い思いの表情を浮かべてみんな押し黙っている。気付けば時計は5時を回っていた。
「まとめて…いいですか?」
 力なくまりかが言う。5人は無言で同意した。
 病状の悪化、何か嫌なことがあった、自分たちの言動のせい、そして想像も遠く及ばない長期入院の果ての感情…。汲み取ろうとすることさえおこがましいのかもしれない、その途方もない命題に、彼らは1つの結論を出した。

 午後6時半、同村はコンビニ弁当を提げてアパートの自室に戻った。帰りの地下鉄では美唄はいつも通り明るかった。その笑顔が気を抜いたら黙り込んでしまいそうな自分の元気を無理にでも引き出してくれていたこと、そしておそらく彼女自身もそうやって自分の元気を保とうとしていたことを同村は気付いていた。
 着替えをしてもすぐに食事をする気にはなれず、同村はいつもの机に腰を下ろす。
「何にも…わかってなかった」
 再びその言葉が漏れる。
 頭の中で実習初日の吉川の言葉がくり返される。
 …『日本の精神科医療の発展は、誤解と偏見の払拭にかかっています』。
 自分に偏見はなかったか?精神科病棟では暴れる患者が部屋に閉じ込められていると想像してなかったか?伊藤さんのことを…自分と同じ1人の人間として接していたか?
 そんな自己嫌悪が込み上げる。
 月曜日、美唄と一緒にカルテを見て…その厚さに驚いた。そしてその内容に目を通していた時、自分にあったのは薄っぺら委同情や興味だったのかもしれない。
「ごめんなさい…」
 同村はそう言って唇を噛んだ。
 同村だけではない。同時刻、14班のメンバーはそれぞれの心にやりきれない感情を浮かべていた。そして病棟実習の中で一緒に過ごした、多くの患者たちの顔を思い出していた。
 そう、あの時…。
 同村と将棋をした伊藤はなかなか負けを認めなかった。みんながもう詰んでいると伝えても、将棋版を隅々まで何度も何度も見返していた。そんな意固地な姿がまた14班に笑いを誘った。
 あの時、伊藤は必死に言っていた。「ちょっと待って、まだ詰んでない」と。

 っ金曜日、午前8時の精神科医局。
「…なるほど」
 代表で発表した同村の意見を聞き、吉川は興味深そうに頷いた。その隣で比賀もニヒルな笑みを見せている。
「随分たくさんの視点から考察されましたね。その時の出来事だけでなく、伊藤さんの生活史にも視点を及ばせたことはとても大切です」
 教授は優しいバリトンボイスでそう言い、そこで言葉を止めた。
「あの先生、それで正解は…」
 同村が尋ねる。他の班員の視線も集まった。吉川は福の神のような微笑みを浮かべ、「正解はですね…」と6人全員の顔を見ながら言った。
「私にもわかりません」
 まりかが思わず「えっ」と漏らした。
「ごめんなさい、でもわからないというのが本当です。伊藤さんがどうして冷たい態度になったのか…みなさんのアセスメント通りかもしれないし、違うのかもしれません。もしかしたら伊藤さん自身にもわからないことなのかもしれません」
「それじゃあ…」
 そう言いかける同村に、教授は太い人差し指を立てた。
「人の心なんて、わからないものですよ。でもそのわからないものを扱うのが精神科です。みなさんは今回の話し合いを通して、たったひとつの出来事にも色々な捉え方があることに驚かれませんでしたか?そしてお互いそれぞれの見解があることにも…。人の意見を聞いて、自分では思いつきもしなかったと感じませんでしたか?実はそれこそがこの課題の本当の目的だったんです」
 そこで比賀はやれやれといった顔をする。どうやら吉川はこんな課題を出すのがお決まりらしい。
「みなさんは確実に伊藤さんへの理解を深めました。そしてきっとお互いの理解もです」
 そこで6人は視線を送り合う。
「心を測る物差しはみなさんそれぞれが持っています。それを持ち寄って正解のない謎解きをする、少しずつ少しずつ理解を深めながら…それが心の医療なのです。だからみなさんそれぞれの物差しを大切にしてください」
「バラバラの物差しでいいんですか?」
 と、井沢。
「もちろんです。君にも君だけの物差しがある。それでしか測れない心もきっとあります。ね、比賀先生?」
 そう言われて講師は「ヘイヘイ、どうせ俺は教授と違ってドライですよ」と悪態をつく。
「だからいいんですよ。だから一緒に働く意味があるんです。みなさんも…ね」
 そこで6人はまたお互いを見た。気付けばもう9月末、そういえばここが上半期最後の実習である。何やかんやで一緒にここまで来たものだ。そんな学生たちを微笑ましそうに見ながら、教授は元気よく言った。
「今日は一日、心おきなく病棟見学をしてください。それで精神科実習は終了、お疲れ様でした!」

 11階に上がった6人、その心配は病棟に入った瞬間に吹き飛ばされた。伊藤が笑顔で駆け寄ってきたのだ。
「今日で実習終わりなんでしょ?淋しくなるなあ」
 彼らは戸惑いながらも笑顔を作る。伊藤の細目もまた細くなる。そして同村を見た。
「最後にもう一戦、将棋しましょうよ」
 そう言われて同村も元気よく「了解です、手加減しませんよ!」と返した。答えなんて出ていない。自分の心だってよくわからない。でも今は精一杯この時間を過ごそう…誰もがそんな気持ちだった。
「じゃあ俺らもまたストレッチ参加するか」
 と、長。井沢も「おっす!」と同意する。そこで何人かの患者が声をかけてくる。
「一緒に歌おうよ、アイドル先生」
 それは美唄へのカラオケの誘いだった。美唄も「了解!」と笑顔100パーセント。するとまりかも「私も…一緒に歌おうかな」と少しはにかんで言う。
「やった、まりかちゃん!じゃあみんなで一緒にカラオケしましょう!」
 美唄がお得意の「エイエイオー!」を披露、集まってきた患者たちが優しく拍手してくれる。まったく…どっちが癒されてるんだか。
「じゃあ僕も歌おう!」
 向島も無邪気に言う。
「え〜MJさんもですか?マニアックなのはダメですよ、みんなの知ってる曲ですからね」
 そんなやりとりをしながら6人は今日一日、心から患者と触れ合った。
 心…見極めることなんてできやしない。心に嘘をついたり、心が嘘をついたり、もうわけわかんない。
 でもひとつだけ確かなことがある。ね、14班諸君。同村、美唄、井沢、まりか、長、そして向島…みんなバラバラの心を持っているけどひとつだけ同じところがある。

 それは、心は心を思うということ。

 …と、まあここで綺麗に終わってもよかったんですが今月はもう少しだけ続きます。無事精神科の実習を終えた14班メンバーはその夜それぞれのフライデイナイトを楽しんでいました。その模様をお届けしましょう。  まずはこちら、未だたいした活躍のない主人公・同村くん。実は今夜彼は山田と夕食の約束をしていた。山田…読者のみなさん、ご記憶かな?3月のポリクリオリエンテーションに登場した同級生、その時点では同村にとって唯一の友人であった男。同村が井沢からの合コン(お食事会?)の誘いを用事があるからと断ったのは、どうやら嘘ではなかったようだ。
「ういっすドーソン、久しぶり。元気だったか」
「そういう山さんも元気そうだね」
 この2人、昨年度までは時々一緒に飲み明かしていたのだが、ポリクリが始まってからはお互いなかなか予定が合わず今夜は久しぶりの会食となった。馴染みの焼き鳥屋で、2人は勢いよくジョッキを合わせる。
「うまい、やっぱりここのビールが最高だべ」
 さっそく焼き鳥をつまみながら山田が言う。たまに学生ロビーですれ違ってもその時はお互い白衣のポリクリモード。しかし今の山田はダボダボのTシャツに迷彩色のハーフパンツ、おまけにビーチサンダルとまさにあるがままのスタイル。そんな姿を見ながら同村も思わず笑顔をこぼす。
「山さん、相変わらずだなあ。ポリクリでもそんな感じなの?」
「そんなわけねえべ、ドーソン。白衣の時はおとなしくしてるぞ。まあ本当はサンダルで病棟歩きたかったけど、班員に止められた。目をつけられたら困るとか何とか…臆病すぎだべ」
「でもその髭は剃らなくて許されたのか?」
 同村の指摘に山田は顎を触って答える。
「お前までそれを言うか。ちゃんと朝剃って行ってるのに、午後にはまた生えるんだよ!それで何回もオーベンから怒られたべ、剃って来いってな」
「ハハハ、山さんは髭が濃いからな」
「そういうお前はどうなんだ、ポリクリの具合は?」
 山田は焼き鳥の串で相手を示して言う。
「そうだなあ…」
「結構楽しそうにやってるよな、学ロビとか食堂で見かけると」
「うん…班員には本当に恵まれたよ」
 そう言うと同村はビールを一口飲む。山田もそれに合わせ、「よかったなドーソン」と笑う。友人の人見知りを案じてくれていたのだろう。
「それにお前の班は女の子2人だし、余計楽しいんかもな」
「別にそんな…」
「いいからいいから教えてくれよ。秋月と遠藤ってどんな感じ?」
 どうしても男だけだとこんな会話になっちゃいますな。同村は強引な友人の問いにジョッキを置いてから答える。
 この半年間一緒に過ごし、まりかの印象は180度近く変わった。真面目で優秀なのはイメージ通りだが、それは医学への情熱以外の何物でもない。けして勉強しかやることのない退屈な優等生ではなかった。そして実際接してみた彼女は明るく優しく話しやすい普通の女の子だった。…どうしてこれまで同級生と交流せず、部活にも入っていないのか逆にそれが不思議だ。
 そして美唄は…まさに驚きのカタマリ。周囲も気にせず子供のように大はしゃぎしたかと思えばちゃんと人を見ていたり、常に中心にいる盛り上げ役かと思えばみんなで歩く時黙って最後尾を付いて来たりする。そしてステージの上では飛び回る歌姫…ギャップだらけでそもそもどこが基準なのかがわからない。そして彼女と接していると今まで知らなかった自分が何人も現れる。まるでグイグイ控え室から無理やりステージに引き出されるように。
 …同村のそんな話を、山田は串をくわえながら楽しそうに聞いていた。そしてそのエッセイのような語りが日と段落したところで彼はあっさり指摘する。
「それで?お前は遠藤に惚れてんの?」
 決断できず何事にも腰が重い同村にとっては、山田の無遠慮な尻叩きは有難い。言うなればすくみ足と勇み足でこの2人の歩調のバランスはとれている。
「いきなり何言ってんだよ山さん!」
 慌てる男に山田はさらに鞭打つ。
「そんな言葉はいいから、そのジョッキ飲み干してさっさと答えろ。イエスかノーかそんだけだべ。他に誰も聞いてないし」
 確かにここは山田が見つけた穴場の店。金曜夜だというのに狭い店内には初老の店主を除いてこの2人しかいない。
「そういう問題じゃないだろ。どうしていきなりそうなるんだよ」
「ドーソン、何年お前と付き合ってると思ってるんだ?話が進まんから早く言え」
 そう言って鳥肉を噛む山田。観念したように同村は小さな溜め息の後ジョッキを空ける。
「わかったよ、君には敵わない」
「それで?」
「…じゃあ、イエス、かな」
 その言葉で山田はテンションを上げ、「おっちゃん生2つ!」と注文する。そして届いたジョッキを強引に同村に持たせると、思い切り自分のジョッキをぶつけた。
「よかったべドーソン。お前なかなかそんな気持ちにならんからなあ」
 主人公はビールに口をつけて答える。
「まあでも…まだそうかなってくらいだよ。自分にはない力ばっかり持ってる遠藤さんに興味があるのは事実だけど。それが恋愛感情かどうかよくわからない。そもそも気持ちがどこまできたらみんな好きって判断してるんだろう」
「お前も相変わらずだな。そんなの考えるもんじゃねえべ。精神科の診断じゃないんだから。なんつーか、こう、勢いでいいべ」
 そこで「そうかなあ」とまた考え込んでしまう友人を山田は叱咤する。
「何でもしっかり考えて軽はずみに動かないのはお前の長所だけどよ、タイミングも大事だべ。ちょっとしたタイミングでつき合えたりつき合えなかったりするんだから。だいたい男と女はなあ…」
 彼がこのモードに入ってしまうとしばらくはその酒まかせの自論に耳を傾けなければならない。同村くん…ご愁傷様です。

 所変わってこちらは井沢主催の『あくまでお食事会』。バーカウンターに生のピアノ演奏まで揃った店のチョイスを見ても、彼の気合いは尋常ではない。白いテーブルクロスを挟んで男女3人ずつが体面に分かれて座る。全員にシャンパンが用意されると、男チームの真ん中に座った井沢が乾杯の音頭をとった。
「みなさん本日はお集まり頂ありがとうございました。実習中ご縁のできた受付の女性方と楽しくお話しできたらと思ってます。それでは女性方の更なる美貌と僕たちの実習終了を祝して、カンパーイ!」
 グラスが合わさる音。そしてまずは簡単な自己紹介から話が転がっていく。さすがの井沢は気さくにパスタやワインを女性陣に振る舞った。
「あ、私やりますよ」
 3人の中で一番落ち着いた雰囲気の女性・六谷が申し出たが、彼は「いいからいいから」と爽やかな笑顔を返す。長も面白おかしく会話を盛り上げ、向島の音楽トリビアも予想以上に功を奏した。まあそんなこんなで食事も進み、少しずつ砕けた雰囲気になっていく。女チームの左右の2人は時には声を出しての笑いまで見せてくれるが、その中心…つまり井沢の体面に座っている女性だけは未だポツリポツリとコメントする程度。そう、この会を開くきっかけとなった美女・与謝野である。彼女は高貴なオーラをその身にまとい、グラスを高めに掲げながらワインをそっと口に運んでいる。そして女チームは大切な姫君を両サイドから護衛する姉君のような布陣を敷いている。対する男チームはなかなか解禁されない美女の笑顔を求め、更なる策を弄していく。…愚かだねえ。あ、こりゃまた失敬。
「実は私たち3人、同じ専門学校の先輩後輩なんです」
 六谷が少し紅潮した顔で言った。もう1人の女性・萩も「まあ学生時代はかぶってないけどね」と笑う。彼女はややハスキーな声が特徴だ。
「そうなんですか、確かに今、医療事務の勉強する人増えてますもんね」
 と、長。続いて井沢が勝負の一手に出る。
「先輩後輩で同じ職場なんですね。じゃあ与謝野さんが一番後輩?」
 そこで姫君はグラスを置いて微笑んだ。
「いいえ、一番先輩よ。歳も一番上」
 …頑張ってくれ、愚かな男どもよ。

 一方こちらはホテルラウンジのレストラン。美唄とまりかがテーブルを囲んでいる。飲み物はアルコールではなく紅茶とコーヒー…そう、彼女たちの目当てはこの店のスイーツバイキングだ。
「ああおいしい、幸せ〜」
 生クリームたっぷりのイチゴタルトを噛みしめながら美唄が言う。そこにはもちろん笑顔100…いや120パーセントは行ってるなこりゃ。
「やっぱり甘いものは元気出るね。このマドレーヌもおいしい」
 まりかも笑う。
「ねえねえまりかちゃん、あっちの方にはアイスとかもあるみたいよ。あ、おはぎまである…すっごーい!」
「まあ焦らずゆっくり味わいましょう」
「はい、班長!」
 ハイテンション娘にいつも冷静な特待生…この2人もよいバランスなのかもしれない。メディカルガールズは確実に血糖値を上げながら会話に花を咲かせていく。
「でもまりかちゃん、あっという間に上半期は終わりだね。なんかこの前14班が結成された感じだけど…もう半分か。下半期はもっと短いから…ポリクリもきっと気が付けば終わってるんだろうな」
「来年は6年生…国試の勉強で今とは違う忙しさになるね」
「そうなったら14班も解散かあ、淋しいな」
 少し目を伏せた美唄にまりかが優しく言う。
「まだ半年あるよ。それに来年も教室とかでは一緒なんだし」
「そうだね…でも私、この班になってすっごくよかったって思ってる。まりかちゃんともこうやって仲良くなれたし」
「私、取っつきにくかったでしょ。…ごめんね」
 今度はまりかが声を弱める。美唄はブンブン首を横に振り、「こっちこそいつも大騒ぎしててごめんね」と返す。そして一瞬の沈黙の後、2人同時に吹き出して笑った。
「そういえば井沢くんたちの方はどうなってるのかな?受付のあの綺麗な人と仲良くなれてるのかなあ」
「フフフ、どうかしら」
 そう微笑んでコーヒーに口をつけると、まりかは続けた。
「でも病院の受付って色々大変なんだろうね。あんなにたくさんの患者さんが来るんだから」
「そうだね。それにレセプトもやんなくちゃいけないし」
「…レセプト?」
 特待生は耳慣れない言葉を聞き返す。美唄がシュークリームをかじりながら言った。
「うん、私も詳しくは知らないけど日本は保険での医療がほとんどでしょ?医療費は患者さんが一部支払って、残りは国が出してくれる。そのためにはどういう病名に対してどういう治療を行なったかを、病院がちゃんと報告しなくちゃいけないのよ」
「その報告がレセプト?」
「多分そんな感じ。だから例えばね、頭痛薬が処方されてるのに病名に頭痛がなかったらおかしいでしょ?そうなると国から指摘されてお金も下りないの」
 美唄はできるだけ上手く説明できるよう考えながら話している。
「だからね、事務の人はちゃんとドクターのカルテを見て、治療に合った病名を拾い出さなくちゃいけないの。もしドクターが書き忘れてたら病名を確認に行かなくちゃいけなかったりね。大きい病院だとドクターも色々動き回って仕事してるから見つけるのも大変で、鬼ごっこみたいになるらしいよ」
「へえ、美唄ちゃん詳しいんだね」
 感心するまりか。
「お母さんが看護師だったからちょっと教えてもらったことあるの。ハハハ、まりかちゃんにも知らないことがあるんだね」
「そんなのいっぱいあるよ」
 そこで美唄は得意げに「エッヘン、まいったか」と両手を腰に当てる。対するまりかはペコリと頭を下げて「まいりました」。そしてまた2人同時に吹き出した。

 所戻って合コン…ではなくお食事会。奇しくもこちらでも話題は同じ方向に転じている。
「だからね、心の医療はますますレセプトが難しいわけよ。そもそもはっきり見極められないのが心なんじゃないの?でも病名がないとレセプトは切られちまう」
 なんとこの発言をしているのは与謝野。実は彼女は一度口を開けば止まらない性格であった。自分のイメージ崩壊を防ぐため必死に黙っていたのだが、ついにダムは決壊した。
「与謝野先輩、ほら、またなっちゃってますよ。も〜喋らなければモテモテなのに」
 と大笑いの六谷。
「うるさい、バレちまったら仕方がないさ。それでね、どういう病名でレセプトにしたらいいか教授に訊きに行くんだけど、あの人笑ってばっかでさ」
 男チーム3人は圧倒される。向島は「音楽も心も解釈は自由ですよ」と小粋なコメントをしてみるが、姫君は「そんなこと言ってんじゃねーよ」と一括。実は彼女は長よりも年上であった。
「みなさんごめんなさいね、先輩は悪い人じゃないの。むしろこのギャップが魅力だと思ってください」
 と、萩がフォロー。そこで井沢も意を決したように前に乗り出す。
「いやあすっごい情熱ですねえ。でも病名がつかない場合はどうなるんですか?」
「ひとまずレセプトのためにドクターにつけてもらうしかないね。実際の現場では確定診断してから治療開始なんて有り得ない。だからひとまずレセプト的には神経症、みたいな」
 与謝野はけしてそこまで怒っているわけではない。まあ口が悪い…というか毒舌。その饒舌な毒舌が次第に面白くなり長も「俺の姉ちゃんが生命保険会社で働いてるんですけどね…」とネタを披露する。高血圧と不整脈の療法に効果がある薬、ある患者がそれを高血圧治療のために飲んでいた。しかしそのせいで生命保険に加入できなかった。何故か?その保険は不整脈がある人は対象外だったからだという話。
「なるほど、薬から逆に病名をつけられちゃったのか」
 向島が頷く。六谷も「薬に対応した病名をつける、という私たちと逆ですね」と笑う。萩も「保険会社って杓子定規ねえ」と続いた。
「役人はもっと杓子定規よ。ちゃんと正しい治療をして報告してるのに病名が足りないからってその医療費を認めないなんてさ。病名パズルなんかより、ドクターにはもっと患者さんのためにしてあげることがあるでしょ!」
「でも先輩、そういうルールを作らないと嘘のレセプトで不正な請求をしようとする病院が出てくるんですよ」
 なだめる萩に与謝野はさらに続ける。
「不正請求なんて、医療事務のプライドにかけてするかっつーの」
 そこで長が「まさに医事の意地ですね」とオヤジギャグを一発。六谷のツボには入ったようだが姫君は「うっさいオッサン」とまた一括。
「大体ねえ、根本から間違ってんのよ!うちの課長は良い医療は良い経営からっていうのが口癖だけどアホかって感じ。今の心療報酬の規定じゃあ良い医療をすればするほど収益が下がるようになってんのよ。おかしいでしょ?患者さんのことを思ってじっくり話を聞いてあげる病院が潰れて、ろくに話もせずに薬ポンポン出す病院が儲かるなんて」
 井沢は病院経営に悩む父親の姿を思い出していた。医療と経営…この水と油の混じり合った荒海を泳ぐ大変さを…学生の彼らはまだ知らない。だからこんな話を聞くのも大事なお勉強なのです。
「課長はすぐ経費節減ばっか言うけどさ、患者さんのためのお金は必要経費だっつーの!減らすんなら医局のコーヒーを自費にしろ」
 いつしか男チームには彼女の言葉が心地よく響いていた。まあ口は悪いが彼女の主張は全く間違っていない。そしてその端々から患者への愛情が感じられる。大学病院という巨大な組織の中にいて、この女性はプライドと信念を燃やし続けているのだ。後輩2人が彼女を慕うのも納得。
「やべー、惚れそうです、俺。すごいっすね与謝野さん!」
 井沢が思わず言った。まあこれはむしろ男が男に惚れる感覚に近い。そう…闘っているのは医学生だけじゃないのです。「ばーか」と返す与謝野に六谷がおどけて言う。
「そういえば先輩、また比賀先生から食事に誘われてませんでした?」
 与謝野は「行かねーよ」と返し、男3人を見た。
「お前らも女と遊んでる暇があったら勉強して上に行け。そしてこの医療システムを変えるんだ」
 それに長が「わかりました。じゃあ与謝野さんもそれまで医事の意地を維持してください」と再びギャグを放つ。また六谷が笑い、オッサンは姫君からおしぼりを投げつけられる。そしてそれが合図だったかのように場の雰囲気はさらに加速していった。最後には向島が店のピアノを弾きだす始末…それはまさに荒波で闘う女性たちへ捧げる『威風堂々』であった。
 最初はその美貌に惹かれ、続いてその実態に幻滅し、最後にはその正体に触れて好感…愚かな男どもの心はそうやって形を変えながら結局幸福に染まったようです。それではこちらからのレポートはこの辺にしておきましょう。

 続きましてこちらはしがない焼き鳥屋。演説を終え、すっかり出来上がった山田に肩を貸して同村は店を出た。
「おいまだ9時だぞ、山さん」
「うい〜すまんすまん、久しぶりに飲んだべ」
「まあ明日は休みだからいいけどさ」
 夜の新宿の裏通りを抜け、少し大きな道に出る。
「おい山さん、ここならタクシー拾えるぞ。タクシーで家まで帰るだろ?」
「ダイジダイジ、まだ帰らねえよ。これからお前の部屋で飲みなおすべ」
 ダイジ、とは山田語で大丈夫の意味。そして実際にはこの言葉が出る時は大丈夫ではないと同村は解釈する。
「飲まれなおす、の間違いだろ。全くもう…またこのパターンか」
 ぼやきながら親友を抱えて歩く彼の頭に、懐かしい記憶が再生された。
 そうあれは4年前、入学後間もない頃行なわれた飲み会。親睦を深めるということで同級生全員が参加させられた。まだ未成年でありそれ以前に人見知りの同村は孤独な一次会を過ごした。そして二次会に行く団体とも離れ帰ろうとした時…会場に1つのカバンが残っているのに気付いた。迷彩色のそれを持っていたのは…確か飛ばして飲んでいたあいつだと思い当たり、同村は一応トイレを見に行った。そこにはまだお互い名前も知らない山田が潰れていた。そして山田は翌朝同村のアパートで目を覚ます…そう、これこそがドーソンと山さんの友情の始まりであった。
「フフッ」
 同村は一人笑う。
「そうだよな、友情にも理屈なんかないもんな」
 数値や画像で証明できなくても、精神科医が診断できなくても、確かにここにはそれがある。山田の顔を見ると、ミスター勇み足は小声で何やら呟いていた。
「頑張れよドーソン。え、え、遠藤と…」
「はいはい了解。ほら山さん、もう少しでアパートだ!」
 相変わらずではありますが、これはこれで幸福な夜ですね。それではこちらのレポートも終わりにしましょう。

 そして最後にホテルのレストラン。閉店も近づき客もまばらとなる中、2人はラストオーダーのミルクココアを飲んでいた。
「クーラーけっこうきいてるからココアがあったかくておいしいね」
 そう微笑むまりかに美唄も同意する。そして少し心配そうな顔をして言った。
「今日は急に誘っちゃってごめんね。もし私がうっとおしかったら遠慮なく言ってね」
「もう美唄ちゃん、そんなことないよ。誘ってくれてありがとね、これ本心だよ」
「…よかった」
「美唄ちゃんのパワーは幸せをたくさん作ってるよ。ほら、4月のゲームセンターの時だって、あのおかげで14班のみんながまとまり始めたと思うな。そうそう、ラブちゃんは元気?」
 あの日みんなで取った天使のぬいぐるみ…それは変わらず美唄のベッドの枕元に置かれている。そのことを伝え、「元気だよ、ありがとね」と返した後で美唄は改めて尋ねた。
「ねえ…まりかちゃん、私のことどう思う?アセスメントしてみて」
 おどけながらではあったが、その目は真剣だった。まりかもそれを感じたのか、カップを置いてから答える。
「そうね、美唄ちゃんは…可愛くてオシャレでいつも元気一杯でとっても素敵な女の子だと思う」
 黙ったままの彼女にまりかは続けた。
「私なんかとても敵わない魅力だらけ。でもまあ、あえて言うなら…もうちょっと弱さを見せてもいいかな?フフフ、いつもパワー全開じゃ疲れちゃうでしょ。信じてる人には弱点見せてもいいと思うよ」
 まりかはココアに口をつける。美唄はまた「ありがとう」と答えた。そこにはどこか安心したような笑顔があった。
「もう何言わせるの。じゃあ次は美唄ちゃんの番、私のことどう思う?」
「う〜んと、じゃあねえ」
 美唄はいつものノリに戻って首を傾げる。
「まりかちゃんは勉強も実習も一生懸命で、本当にすごいって思う。それにすっごく優しくて…もし私が患者さんだったら絶対まりかちゃんに診てもらいたい」
 美唄はそこで真面目な顔になる。
「だから…もっと自分を押し出していいと思うよ。半年間一緒にいて、どうして今までずっとクラスで周りと話してなかったのかなとか、どうして部活入らなかったのかなとかすっごく不思議だった。本当にまりかちゃんはすごいんだからもっと強気でいいよ!」
 美唄は笑顔に戻りココアを飲む。そして「ハハハ、2人とも真逆のアドバイスになっちゃったね」と付け加えた。まりかは「ありがとう」と返す。
「別にクラスのみんなとか部活が嫌いなわけじゃないの。でも…」
「うん、人それぞれ事情はあるもんね。いいよ、無理しないで」
「ありがとう…いつか話すね」
 そう答えるまりかに、美唄も「私も…いつか話せると思う」と返し、カップを差し出した。
「友情の証に…乾杯してくれる?」
「もちろん。これからも友達でいてね」
 そう言ってまりかはカップを合わせた。そして2人とも残りのココアを飲み干し、一緒に笑い出す。
「フフフ…今の美唄ちゃんのセリフ、同村くんみたい」
「え、そうかなあ?」
 そこで閉店のアナウンスが流れ始めた。まりかは少し悪戯っぽく言う。
「今日みんなで解散する時、結局同村くんは合コン行かないってなってたでしょ。それ聞いた時の美唄ちゃんの顔…私、見ちゃったんだ」
「もうまたまりかちゃん、何よ?」
「…ほっとしてた顔。この症状から見て病名は恋、っていうのは私のアセスメント違いかな?」
 美唄はそこで「さあね。あ、もう時間だからお店出ないと怒られちゃうよ」と笑ってカバンを持つ。まりかも「あ、ずるい!」と笑って腰を上げた。
 2人で会計まで歩き出した時、美唄が小さく言う。
「…一応、その病名にしとこうかな」
 それを聞いて嬉しそうな顔をする友人に、彼女は笑顔100パーセントで付け加えた。
「レセプト的にはね」

10月、眼科編に続く!

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