コラム

2014年10月「2つの目的」

 目的を持つのは大切なことだ。将来自分はこうなりたい、こんな仕事がしたい…そんな目的が人生の軌道を決めていく。しかし当然ながら目的が達成されるとは限らない。どんなに追い求めても辿り着けない時、人はどうすればいいのか。
 追い続ける、という選択肢もあるだろう。たとえ辿り付けなかったとしても、負い続けていれば少しでも目的に近づけるかもしれない。そんな人生もいいだろう。しかし中には追い続けること自体が難しい目的もある。そう、時間というものが存在する限り年齢制限やタイムリミットは必ずついて回る。いくら願っても20歳過ぎて甲子園には出られない。また追い求めた目的がすでに他の誰かに手に入れられてしまう場合もある。どんなに大好きな相手でも、他の人と結婚してしまったらそれを追い続けるというのはやはり難しい。あるいは自分ではどうしようもないことで物理的に不可能になることだってある。聴力を失った音楽家、視力を失った映画監督、腕を失った鉄棒選手…彼らの目的は一体どうなってしまうのだろう。

 …あきらめるしかない。人生において妥協もまた選択肢の1つだ。しかし人はこの選択肢をなるべくなら選びたくない。あの目的にはもう届かないんだ、自分には叶わない夢だったんだと受け入れるのはやはり切なく悲しい。  そんなことを考えている時に、登山が趣味の友人がこんな話をしてくれた。ニュースでも報じられるように登山には遭難など自己がつきもの、登山とはそれだけリスクの伴う行為。しかし成し遂げた時に素晴しい感動を得られるからこそ人は山に登る。事故を起こさないために大切なことは?それはもちろん無茶をしないこと、自分には危険だと感じたら引き返す判断だ。では頂上到達に必要なことは?それはあきらめないこと、何があっても前に進む勇気だ。友人によれば、特に天候が崩れそうな時など行くべきか行かざるべきかをとても悩むという。
 私は登山をしない、でもその気持ちはよくわかる。まさに人生においてもそうだから。引き返す判断も、あきらめない勇気もどちらも重要。最初からあきらめることを考えてたら目的には届かないし、目的を追うことばかりを考えていたら大きな事故に遭いかねない。人はこの2つの間で揺れ動きながら生きている。
 友人は言う。「危険を感じて引き返す時、確かに安全は保障されたが残念な気持ちは否めない」と。そこで彼は一計を案じる。彼は登山に出掛ける時最初から目的を2つ用意するのだ。1つ目はもちろん頂上到達。でももし到達できず引き返す時は2つ目の目的に進路変更、少し寄り道をして別の景色を見て帰る。つまり雲の上の絶景は無理だったが道端に咲く花の美しさが彼のカメラには収められる。これはこれで目的達成、というわけだ。物理を専門とする彼らしい現実的なやり方だと思う。一方心理を専門とするこちらは解釈的なやり法を好む。私なら最初から目的を2つ用意したりはしないが、あきらめて進路を変えた時は実はこっちが正解だったと思えるようにもっていく。こっちを選んだおかげでこれが手に入ったじゃないか、てな具合だ。まあ方法論は違えどやっていることは同じ。事前に用意するか後から仕立て上げるかの違いで、結局は2つ目の目的を達成することで別の成功を手にするのである。

 ちょっとずるい生き方かもしれないが、こんな幸福の探し方もありじゃないかな?人生の目的は1つじゃなくたってさ、2つ3つあったっていいんじゃない?そのどれかを達成できたならそれは成功でしょう。けして妥協や失敗ではない。病気の治療でもこれはとても大切な考え方だと思う。もちろん「自分はこの病気に打ち勝てる!自分は大乗うぶだ」と障害を否定して頑張ることが大切な病気もある。骨折後のリハビリなんてのは、また歩けると信じて頑張らなくてはうまくいかない。でも逆に「自分はこの病気を一生抱いて生きるんだ」と障害を受け入れることが大切な病気もある。専門分野で一例を挙げればアルコール依存症などがそれに当たる。「自分は依存症ではない。自力で飲酒をコントロールできる!」なんて言ってたら一生失敗をくり返すことになる。お酒を楽しむという目的からはもう進路を変えて、新たな目的を見つけることが依存症を克服することになるのだ。

 登山と人生は似ているが、残念ながら人生は一度しかない。次の機会にまた、というわけにはいかない。だからこそ複数の目的が大切なのだ。
 今私は何個目の目的を追って生きているのだろう。道を変えたり引き返したり、回り道もきっと随分してきたけど、最後には「これでよかったんだ」ともっていくつもりで生きている。

2つの目的

(文:福場将太 写真:お久しぶりの瀬山夏彦)

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